3
試合の当日、俺は朝早くに起きた。脳が完全に働き出すのは、起きてから三時間ほどかかると聞いたからだ。両親はまだ寝静まっていたが、外は空が白み始めていた。梅雨明けが発表されてから、ここのところ晴天が続いている。
天気が良いのは良いことなのだが、その分暑い。今日は水分補給がだいぶ必要だなと、思った。
昨夜用意しておいた持ち物を確認する。赤色のユニフォーム、タオル、それからバスケットシューズ。机の上に置いたままのリストバンドは、今はめておこう。
母が作ってくれた、いつもより多めの朝食もしっかり全部食べた。
「見に行ってあげるわね」と言われたけれど、俺は照れくさくなって、何も言わずに母に背を向けた。俺は、「来んなよ、ババア」などと暴言を吐くような親不孝者ではないはずだし、何より、心の片隅には来てほしいという気持ちがあったのだ。
「これ、持っていきなさい」
行きがけに母はそう言って、俺に巨大な水筒を渡してきた。
「昨日、お父さんが買ってきてくれたのよ。奏太が脱水症状にならないようにって。それと、試合観に行けなくて悪いって、謝ってたわ。」
「……うん」
水筒を受け取り、母に背を向ける。
「行ってきます」
仕事で多忙な父からの思わぬ愛情を感じて、俺はさっきよりもっと照れくさくなった。
「……ありがと」
聞こえたかどうかも分からない呟きをもらした後、俺は家を出た。
学校に着くと、敷地内に普段は使わないマイクロバスが停まっていた。バスケ部は全員の人数を合わせても、一クラス分にも満たないから、丁度良いくらいの大きさのバスだ。
「おっす奏太!」
前方から、サバクの声が聞こえてきた。見ると、バスの側に、先輩達に紛れたサバクが手を振っていた。
「おはよう。今日は頑張ろうね」
俺はサバクに挨拶をした後、「おはようございます」と先輩達にも頭を下げておいた。
「あら、左海君、気合充分みたいね」
スポーツドリンクのロゴが入った飲み物入れを運びながら、梓が話しかけてきた。
「……おはよう」
負けたら承知しないわよと言いたげな梓を見て、小さく言った。
先輩に促されて、サバクと一緒にバスに乗った。
「俺、乗り物苦手なんだよなぁ」
「じゃあ、走っていけば?」
俺が言った冗談に、「そのほうがいいかもな」と真剣な顔をして返されたので、答えに困った。
「サバクぅ、奏太ぁ、お前ら頑張れよぉ。先輩達の足引っ張るんじゃねぇぞぉ」
ねちねちとした口調で冷やかしてきたのは、洋平だ。椅子の背もたれの上から顔を覗かせて、俺達を見下ろしている。
「おう!」
俺の冗談や洋平の冷やかしに真面目に答える今日のサバクは、どこかおかしい。俺は少しだけ、彼のことが心配になった。
やがて、バスには部員全員が乗り込んだらしく、監督の運転で車両は走り出した。静かに校外を出る最中、俺達は無言だった。
話したいことはある。少なくとも俺は。今回の相手は、地方や全国の大会で好成績をおさめている、いわゆる強豪校なのだ。俺達が勝てる確率は、低いと言われている。だけどそれがなんだと言うのだ。確率なんてものは、単なる予想にすぎない。そして予想と結果は、全く違う。
試合の結果など、試合をやった後でないと分からないのだ。相手が強いからと言って、最初から諦めるような愚行はしない。
俺達は俺達なりに、一生懸命練習をしてきたのだ。その最終確認と称して、俺はサバクや先輩達と話し合いたいと思っていた。
「なあ、サバク」
バスが伊織さんの書店を横切った時、俺はいてもたってもいられなくなって、サバクに話しかけてみた。
「おい、空気読めよ」
だが、サバクは小声で囁くと、俺から目を背け、辺りを見渡すようにと促した。俺は、いちいち車内を見渡さなくとも、サバクが何を言わんとしているかを理解した。
先輩達は先ほどから、一言も言葉を発していない。試合に向けて、それぞれが集中力を高めているのだろう。そんな雰囲気の中、俺達が喋っていたら、きっと怒られてしまう。俺はサバクにならって、現地につくまでは黙っていようときめた。
試合会場の体育館には、三十分程度で到着した。バスから降りる時、「やっぱちょっと酔った」と呟いたサバクを見て、彼は乗り物酔いをしたから俺と喋りたくなかっただけなのかもしれないなんて思ったりした。
試合に出ない部員達に荷物運びをお願いした後、俺達は先輩の背中にくっつくように歩いて、選手の控え室を目指した。
真正面にそびえ立つ白い壁の建物に入ると受付があり、キャプテンが出場選手の書かれた書類を、そこにいた女性に渡した。
サバクが真剣な顔でそれを見つめている傍ら、俺はキョロキョロと辺りを見渡していて、端から見れば非常に落ち着きのない態度をとっていた。
俺達の周りには、大会の関係者や選手の父兄と思われる大人達がいて、それぞれが固まって談笑をしていた。その中の何人かと視線が合ったが、俺はすぐに目をそらした。
他人の父兄や関係者などに、興味は無い。言うまでもなく俺は伊織さんを探していて、やがて大人達に紛れて一人ぽつんと佇んでいる伊織さんを見つけた。
「先輩、俺、ちょっとトイレに行ってきていいですか?」
伊織さんを見つけた途端、俺は衝動的に前にいた先輩に声をかけた。
「ああ、なるべく早く帰ってこいよ」
「はい」
先輩にお辞儀をすると、俺はトイレの方向、もとい伊織さんの元へ歩いていった。
「伊織さん、おはようございます!」
伊織さんが俺に気付いたのは、そう挨拶をしたときだった。俺は嬉しさを隠せず、自然と笑みがこぼれた。
「おはよう、奏太くん。試合はもうすぐ始まるの?」
「うん。あと二、三十分もすれば始まると思う。今日は来てくれてありがとう」
「いいのよ、私も暇だったし。奏太くんのかっこいいところ見たいし」
「な、何言ってんだよ、伊織さん」
かっこいいところなんて、見せられるかどうか分からない俺は、顔が赤くなるのを感じた。伊織さんはまさか、俺がダンクシュートなんかを決められるとでも思っているのだろうか。だとしたら、限りなく高い確率で俺はゴールに届くことも出来ないから、伊織さんはがっかりするかもしれないな。
「私はどこに行ってればいいの?」
俺の心配をよそに、伊織さんは辺りを見渡しながら聞いてきた。
「多分、あっちにある階段を昇ったら客席だから、空いてる席に座ればいいと思う。だけど、関係者の席には間違って座っちゃ駄目だよ」
俺は伊織さんの背後にある開け放たれた扉の向こうの階段を指差して言った。伊織さんが、関係者の席に座って、注意されて謝っているところを想像すると、笑いそうになった。
「あら、左海君。こんなところで何してんの?まさかみんなとはぐれたわけじゃないわよね」
その声を聞いた俺の表情は、多分凍りついただろう。固まった俺を、伊織さんが不思議そうに見る。ぎくしゃくしながら振り返ると、そこに梓が立っていた。
梓の視線が、俺から伊織さんへと移る。彼女は、伊織さんの頭から爪先までを射るように見た。
「この人、誰?」
梓はしばらくして俺に視線を戻すと、やはりその質問をぶつけてきた。
梓はきっと、俺のスマホを見ている。以前、鞄の違う位置に端末が入っていた出来事が、脳裏をよぎる。伊織さんの名前を言ってしまえば、あのラインの相手が目の前にいるとバレてしまう。
「お、俺、そろそろ柔軟とかしなきゃいけないから……ほら、行くぞ梓」
「ちょっと奏太くん、せめて自己紹介ぐらいしなきゃ、失礼でしょう」
伊織さんが慌てて俺を引き留める。俺が一瞬躊躇した隙をついて、伊織さんは梓に向き直った。
「梓ちゃんっていうのね、あなた。私は香坂伊織。あなたは奏太くんのガールフレンドかしら?」
「アハハ、やっぱりそう見えますぅ? アタシと左海君って、お似合いみたいな? ……でも、全然何の関係もないんですよ。ただのバスケ部員とマネージャー。さ、行きましょ左海君」
梓の声色が変わる。やけに嬉しそうな顔をして俺の腕を取ると、俺を引っ張るようにして歩き出した。俺は放心状態のまま、ただ梓についていくことしか出来なかった。
梓は選手控え室に俺を送り届けるまでずっと前を向いていたので、定かではないのだが、俺の耳に梓がボソッと呟いたような声が聞こえてきた。
「白々しいんだよ、ババア」
もし梓の呟きが幻聴ではなかったとしたなら、確かに梓はそう言っていた。
「試合頑張ってね、左海君」
試合開始の直前、柔軟を終えた俺にそう言った時の梓の視線が、やけに冷たく感じた。
———あたしとのラインを無視して、あんな女と付き合っていたなんて……。
梓はそう思っているに違いない。
「おい、何やってんだ、早く着替えろ!」
控え室の奥からキャプテンの声がとんできて、俺はハッと我にかえった。
「す、すみません」
設置してあるベンチに鞄を置き、ユニフォームに着替える。
「トイレ長かったな。おっきいほうか?」
バスケットシューズに履き替えていると、横に座って靴紐を結んでいたサバクがからかってきた。
「うん」
俺は返事をする気力も失せて、適当に頷いた。俺が素直に認めたものと勘違いしたサバクは、俺を立ち上がらせると、背中合わせで腕を組み、俺の体を持ち上げた。
———今は伊織さんや梓の事なんか考えちゃ駄目だ。
試合に集中するんだ。コートに入る時、俺は自分にそう言い聞かせた。
会場のアナウンスが、一人一人の選手の名を呼んでいく。
その度に拍手がわき、会場が騒がしくなる。伊織さんがどこに座っているかなど確認する暇もなく、サバクの横に並んで、相手の選手と握手をする。
相手は、同年代の少年たちだというのに、全体的に黒いユニフォームを身に纏っていて、背も高いせいか、妙に威圧感があった。ホイッスルが鳴ると、俺はすかさず相手コートのゴール下に走った。
審判の手から、ボールが高く上げられる。ジャンプボールは、若干高く飛んだ相手が手にした。
俺達に緊張が走る。先輩達がボールを奪おうと駆け出した。野太いかけ声や、様々な声色の応援の声が会場に響き渡る。シューズが床と擦れ合う、キュッキュッという甲高い音や、ドリブルの音も、その中に混ざる。
「敵を、欺け」
それが、俺に与えられた課題だった。シュートやディフェンスは先輩達やサバクに任せて、俺は敵の意表をつけばいいのだ。
例えば敵にそっと忍び寄って、パスをカットする。自分が得意なプレーを、とことんやり抜けばいいと言われた。
試合が始まってしばらくすると、相手は徐々に俺を気にするようになっていた。
コートをチョロチョロと走り回って、突然後ろからボールを奪い去っていくあのチビは何なんだと思われているのかもしれない。
それでいい。俺が相手の集中力を削ぎ、プレーに支障が出れば、こちらにはチャンスが訪れるからだ。ああ、もしかすると先輩達は、そういうことも見越して、俺にこの役割を命じたのかもしれないな。
シュートが外れたボールを寸での所で掴み、数メートル先のサバクに投げる。サバクはキャプテンとの連携プレーで相手を抜き、見事なレイアップシュートを決めた。
幾度目かの歓声が聞こえる。額に汗を滲ませ、頬を紅潮させたサバクに、俺は親指を突き立てた。
「左海、なかなかやるじゃん。相手やり辛そうだぞ」
俺が先輩に誉められたのは、第二クォーターが始まる前のわずかな休息の時だった。吹き出る汗をタオルで拭いて、きっちり水分を取る。母が水筒に入れてくれたスポーツドリンクは、きっと二リットルのペットボトルのやつをそのまま流し込んだのだろう。
梓には失礼だけど、クエン酸入りのものじゃなくて良かったと安心した。
「ありがとうございます。後半も頑張ります」
誉められたのが嬉しくて、俺は笑顔でそう言った。
「奏太が何でレギュラーメンバーなのか、相手もそろそろ分かってきたんじゃないかな」
サバクが言う。
「あれだけチョロチョロしてたら、嫌でも分かるよ」
答えながら、俺は円になって話をしている相手チームを眺めていた。
「ランガンだから、めちゃくちゃしんどいけど、勝つぞ!」
第二クォーターが始まる直前、キャプテンが皆に言った。ランガンとは、簡単に言えば「点の取り合い」という意味で、まさに俺達は点を取られては取り返しを繰り返して、何とか相手との点差を縮めていた。
何度か追い抜いた時もあったが、それでも今は負けている。
ホイッスルが鳴る。タオルを梓に返す時、「後半もネズミみたいな動きで頑張ってね」と嫌味なのか応援なのか分からない言葉をかけられた。
苦笑いを浮かべてコートに走る。
試合再開だ。
ジャンプボールをキャプテンが取ったのを確認した次の瞬間、サバクから俺に突然ボールが飛んできた。不意を突かれながらも、俺はそれを取る。俺の周りには誰もいない。サバクが腰の辺りで指を三本突き立てている。
足元を見る。俺はスリーポイントが狙える絶好の位置にいる事に気付いた。もう相手も気付いたらしく、こちらに走ってきている。
俺はゴールを見据え、ボールを構え、投げた。おそらく会場中の視線が俺に集中していたであろうその瞬間を、多少大振りの弧を描いたボールは、最高の形で締めくくってくれた。
歓声がわき起こる。
「でへっ」
俺は何が言いたいのかよく分からない呟きを漏らして、喜びも冷めやらぬままに試合の次の展開に集中した。
第二クォーターの予期せぬ反撃を受けて、相手はさらに闘志に火がついたのかもしれない。
俺は若干動きづらくなった気がした。多分これまでよりも、相手は俺を意識しているのだろう。
試合も第三クォーターに差し掛かり、中盤が過ぎた頃、俺達のチームは明らかに疲れが見え始めていた。コート内の誰もが荒い息をしていて、立ち止まっている一瞬も汗がポタポタと床に落ちる。それでもボールに食らいつくものの、徐々に点差が目立ち始めていた。
「最後まであきらめるな」
タイムを取った時、キャプテンはただ一言そう言った。あきらめるわけがなかった。勝ちたいという気持ちは、それぞれが、誰よりも強く持っている。だけど、やはり実力が伴わなかったのかもしれない。
試合が終わる頃には、十点差をつけられていて、俺達は負けた。
試合終了のホイッスルが、虚しく聞こえる。挨拶の時、揚々としている相手と向き合うのが気まずかった。
「よく頑張ったな、スリーポイント、カッコ良かったぞ」
キャプテンにそう言われた時、俺は込み上げてくる悔しさを我慢出来なかった。自分も悔しいはずなのに、優しい言葉をかけてくれたキャプテン。この試合が最後の試合となってしまった先輩達。
もっと彼らと、試合をしたかった。喜びを分かち合って、笑い合いたかった。
嗚咽がもれる。
「なんでお前が一番泣いてんだよ」
呆れかえりながらそういったサバクの声も、少し震えていた。
「左海君、大丈夫?」
さすがに梓も心配したのか、新しいタオルを差し出してきた。俺はそれを受け取って、情けない顔をその中にうずめた。
控え室でユニフォームを脱ぎ、ジャージに着替える。さすがにその時には泣き止んでいたが、とても誰かと話をする気にはなれなかった。心なしか、他の皆も言葉は少なかった。
「帰るぞ」
やがてキャプテンが短くそう言うと、それぞれの荷物を持った選手達が部屋を出ていく。
「大丈夫か?」とサバクに気遣われ、頷いた俺は、最後に部屋を出た。
一番会いたくない人と出会ったのは、体育館を出た時だった。階段を降りた所に、また大人達に混じって伊織さんが立っていた。
「奏太くん」
「こんなとこで、下の名前で呼ぶの、やめてくれないかな」
俺は冷たくそう言った。そして言った後すぐ、後悔した。
「ごめんなさい」
伊織さんが謝る。しおらしい彼女の態度が、俺をもっと惨めにさせる。いっそのこと、「自分の機嫌で、私に対する態度を変えるのはやめなさい」と言い返してくれたほうがいい。
そしてビンタの一発でも食らったら、俺は目が覚めたかもしれない。互いにかける言葉が見つからないせいか、沈黙が流れた。かといってこのまま何も言わずに立ち去るのも、気が引ける。俺がもう少し大人だったなら、素直にお礼のひとつくらい言えたのだろうか。
伊織さんと顔を合わせられないまま俯いていると、視界の端に見知った白のスニーカーが現れた。
顔を上げると、梓が横に立っていた。
「ちょっとオバサン」
梓の棘のある声に俺はギョッとしたが、彼女はそのまま言葉を続けた。
「左海君はね、試合に負けて元気が無いの。誰とも喋りたくないの。アンタも試合見てたんでしょ?大人なら空気読んで、それくらい気付きなさいよ」
梓はそう言った後、俺に微笑を浮かべた顔を向けた。
「さあ、左海君、帰るわよ」
梓に手を引かれ、俺は歩き出した。伊織さんの横を通るときでさえ、俺は彼女と目を合わせることはできなかった。
帰りのバスは、まるで通夜に向かうバスのような雰囲気だった。行きと同じく俺の隣に座ったサバクは、目をしょぼしょぼさせて眠そうにしていた。
伊織さん、今どうしてるかな。もう帰路についているのかな。冷静になって、「ありがとうございました、さようなら」ぐらい言っておけば良かったと思った。
だけど、過ぎた事を悔やんでも何も変わらない。また近いうちに謝ろうと思った。
あんな冷たい態度を取ってしまったけど、試合に負けて悔しかっただけで、決して伊織さんを嫌いになったわけじゃないと、伝えよう。
だけど伊織さんが怒っていて、話を聞いてくれようともしなかったらどうしよう。
そんなことを考えているうちに、眠たくなってきて、おそらくサバクよりも早く、俺はうたた寝を始めていた。
試合の当日、俺は朝早くに起きた。脳が完全に働き出すのは、起きてから三時間ほどかかると聞いたからだ。両親はまだ寝静まっていたが、外は空が白み始めていた。梅雨明けが発表されてから、ここのところ晴天が続いている。
天気が良いのは良いことなのだが、その分暑い。今日は水分補給がだいぶ必要だなと、思った。
昨夜用意しておいた持ち物を確認する。赤色のユニフォーム、タオル、それからバスケットシューズ。机の上に置いたままのリストバンドは、今はめておこう。
母が作ってくれた、いつもより多めの朝食もしっかり全部食べた。
「見に行ってあげるわね」と言われたけれど、俺は照れくさくなって、何も言わずに母に背を向けた。俺は、「来んなよ、ババア」などと暴言を吐くような親不孝者ではないはずだし、何より、心の片隅には来てほしいという気持ちがあったのだ。
「これ、持っていきなさい」
行きがけに母はそう言って、俺に巨大な水筒を渡してきた。
「昨日、お父さんが買ってきてくれたのよ。奏太が脱水症状にならないようにって。それと、試合観に行けなくて悪いって、謝ってたわ。」
「……うん」
水筒を受け取り、母に背を向ける。
「行ってきます」
仕事で多忙な父からの思わぬ愛情を感じて、俺はさっきよりもっと照れくさくなった。
「……ありがと」
聞こえたかどうかも分からない呟きをもらした後、俺は家を出た。
学校に着くと、敷地内に普段は使わないマイクロバスが停まっていた。バスケ部は全員の人数を合わせても、一クラス分にも満たないから、丁度良いくらいの大きさのバスだ。
「おっす奏太!」
前方から、サバクの声が聞こえてきた。見ると、バスの側に、先輩達に紛れたサバクが手を振っていた。
「おはよう。今日は頑張ろうね」
俺はサバクに挨拶をした後、「おはようございます」と先輩達にも頭を下げておいた。
「あら、左海君、気合充分みたいね」
スポーツドリンクのロゴが入った飲み物入れを運びながら、梓が話しかけてきた。
「……おはよう」
負けたら承知しないわよと言いたげな梓を見て、小さく言った。
先輩に促されて、サバクと一緒にバスに乗った。
「俺、乗り物苦手なんだよなぁ」
「じゃあ、走っていけば?」
俺が言った冗談に、「そのほうがいいかもな」と真剣な顔をして返されたので、答えに困った。
「サバクぅ、奏太ぁ、お前ら頑張れよぉ。先輩達の足引っ張るんじゃねぇぞぉ」
ねちねちとした口調で冷やかしてきたのは、洋平だ。椅子の背もたれの上から顔を覗かせて、俺達を見下ろしている。
「おう!」
俺の冗談や洋平の冷やかしに真面目に答える今日のサバクは、どこかおかしい。俺は少しだけ、彼のことが心配になった。
やがて、バスには部員全員が乗り込んだらしく、監督の運転で車両は走り出した。静かに校外を出る最中、俺達は無言だった。
話したいことはある。少なくとも俺は。今回の相手は、地方や全国の大会で好成績をおさめている、いわゆる強豪校なのだ。俺達が勝てる確率は、低いと言われている。だけどそれがなんだと言うのだ。確率なんてものは、単なる予想にすぎない。そして予想と結果は、全く違う。
試合の結果など、試合をやった後でないと分からないのだ。相手が強いからと言って、最初から諦めるような愚行はしない。
俺達は俺達なりに、一生懸命練習をしてきたのだ。その最終確認と称して、俺はサバクや先輩達と話し合いたいと思っていた。
「なあ、サバク」
バスが伊織さんの書店を横切った時、俺はいてもたってもいられなくなって、サバクに話しかけてみた。
「おい、空気読めよ」
だが、サバクは小声で囁くと、俺から目を背け、辺りを見渡すようにと促した。俺は、いちいち車内を見渡さなくとも、サバクが何を言わんとしているかを理解した。
先輩達は先ほどから、一言も言葉を発していない。試合に向けて、それぞれが集中力を高めているのだろう。そんな雰囲気の中、俺達が喋っていたら、きっと怒られてしまう。俺はサバクにならって、現地につくまでは黙っていようときめた。
試合会場の体育館には、三十分程度で到着した。バスから降りる時、「やっぱちょっと酔った」と呟いたサバクを見て、彼は乗り物酔いをしたから俺と喋りたくなかっただけなのかもしれないなんて思ったりした。
試合に出ない部員達に荷物運びをお願いした後、俺達は先輩の背中にくっつくように歩いて、選手の控え室を目指した。
真正面にそびえ立つ白い壁の建物に入ると受付があり、キャプテンが出場選手の書かれた書類を、そこにいた女性に渡した。
サバクが真剣な顔でそれを見つめている傍ら、俺はキョロキョロと辺りを見渡していて、端から見れば非常に落ち着きのない態度をとっていた。
俺達の周りには、大会の関係者や選手の父兄と思われる大人達がいて、それぞれが固まって談笑をしていた。その中の何人かと視線が合ったが、俺はすぐに目をそらした。
他人の父兄や関係者などに、興味は無い。言うまでもなく俺は伊織さんを探していて、やがて大人達に紛れて一人ぽつんと佇んでいる伊織さんを見つけた。
「先輩、俺、ちょっとトイレに行ってきていいですか?」
伊織さんを見つけた途端、俺は衝動的に前にいた先輩に声をかけた。
「ああ、なるべく早く帰ってこいよ」
「はい」
先輩にお辞儀をすると、俺はトイレの方向、もとい伊織さんの元へ歩いていった。
「伊織さん、おはようございます!」
伊織さんが俺に気付いたのは、そう挨拶をしたときだった。俺は嬉しさを隠せず、自然と笑みがこぼれた。
「おはよう、奏太くん。試合はもうすぐ始まるの?」
「うん。あと二、三十分もすれば始まると思う。今日は来てくれてありがとう」
「いいのよ、私も暇だったし。奏太くんのかっこいいところ見たいし」
「な、何言ってんだよ、伊織さん」
かっこいいところなんて、見せられるかどうか分からない俺は、顔が赤くなるのを感じた。伊織さんはまさか、俺がダンクシュートなんかを決められるとでも思っているのだろうか。だとしたら、限りなく高い確率で俺はゴールに届くことも出来ないから、伊織さんはがっかりするかもしれないな。
「私はどこに行ってればいいの?」
俺の心配をよそに、伊織さんは辺りを見渡しながら聞いてきた。
「多分、あっちにある階段を昇ったら客席だから、空いてる席に座ればいいと思う。だけど、関係者の席には間違って座っちゃ駄目だよ」
俺は伊織さんの背後にある開け放たれた扉の向こうの階段を指差して言った。伊織さんが、関係者の席に座って、注意されて謝っているところを想像すると、笑いそうになった。
「あら、左海君。こんなところで何してんの?まさかみんなとはぐれたわけじゃないわよね」
その声を聞いた俺の表情は、多分凍りついただろう。固まった俺を、伊織さんが不思議そうに見る。ぎくしゃくしながら振り返ると、そこに梓が立っていた。
梓の視線が、俺から伊織さんへと移る。彼女は、伊織さんの頭から爪先までを射るように見た。
「この人、誰?」
梓はしばらくして俺に視線を戻すと、やはりその質問をぶつけてきた。
梓はきっと、俺のスマホを見ている。以前、鞄の違う位置に端末が入っていた出来事が、脳裏をよぎる。伊織さんの名前を言ってしまえば、あのラインの相手が目の前にいるとバレてしまう。
「お、俺、そろそろ柔軟とかしなきゃいけないから……ほら、行くぞ梓」
「ちょっと奏太くん、せめて自己紹介ぐらいしなきゃ、失礼でしょう」
伊織さんが慌てて俺を引き留める。俺が一瞬躊躇した隙をついて、伊織さんは梓に向き直った。
「梓ちゃんっていうのね、あなた。私は香坂伊織。あなたは奏太くんのガールフレンドかしら?」
「アハハ、やっぱりそう見えますぅ? アタシと左海君って、お似合いみたいな? ……でも、全然何の関係もないんですよ。ただのバスケ部員とマネージャー。さ、行きましょ左海君」
梓の声色が変わる。やけに嬉しそうな顔をして俺の腕を取ると、俺を引っ張るようにして歩き出した。俺は放心状態のまま、ただ梓についていくことしか出来なかった。
梓は選手控え室に俺を送り届けるまでずっと前を向いていたので、定かではないのだが、俺の耳に梓がボソッと呟いたような声が聞こえてきた。
「白々しいんだよ、ババア」
もし梓の呟きが幻聴ではなかったとしたなら、確かに梓はそう言っていた。
「試合頑張ってね、左海君」
試合開始の直前、柔軟を終えた俺にそう言った時の梓の視線が、やけに冷たく感じた。
———あたしとのラインを無視して、あんな女と付き合っていたなんて……。
梓はそう思っているに違いない。
「おい、何やってんだ、早く着替えろ!」
控え室の奥からキャプテンの声がとんできて、俺はハッと我にかえった。
「す、すみません」
設置してあるベンチに鞄を置き、ユニフォームに着替える。
「トイレ長かったな。おっきいほうか?」
バスケットシューズに履き替えていると、横に座って靴紐を結んでいたサバクがからかってきた。
「うん」
俺は返事をする気力も失せて、適当に頷いた。俺が素直に認めたものと勘違いしたサバクは、俺を立ち上がらせると、背中合わせで腕を組み、俺の体を持ち上げた。
———今は伊織さんや梓の事なんか考えちゃ駄目だ。
試合に集中するんだ。コートに入る時、俺は自分にそう言い聞かせた。
会場のアナウンスが、一人一人の選手の名を呼んでいく。
その度に拍手がわき、会場が騒がしくなる。伊織さんがどこに座っているかなど確認する暇もなく、サバクの横に並んで、相手の選手と握手をする。
相手は、同年代の少年たちだというのに、全体的に黒いユニフォームを身に纏っていて、背も高いせいか、妙に威圧感があった。ホイッスルが鳴ると、俺はすかさず相手コートのゴール下に走った。
審判の手から、ボールが高く上げられる。ジャンプボールは、若干高く飛んだ相手が手にした。
俺達に緊張が走る。先輩達がボールを奪おうと駆け出した。野太いかけ声や、様々な声色の応援の声が会場に響き渡る。シューズが床と擦れ合う、キュッキュッという甲高い音や、ドリブルの音も、その中に混ざる。
「敵を、欺け」
それが、俺に与えられた課題だった。シュートやディフェンスは先輩達やサバクに任せて、俺は敵の意表をつけばいいのだ。
例えば敵にそっと忍び寄って、パスをカットする。自分が得意なプレーを、とことんやり抜けばいいと言われた。
試合が始まってしばらくすると、相手は徐々に俺を気にするようになっていた。
コートをチョロチョロと走り回って、突然後ろからボールを奪い去っていくあのチビは何なんだと思われているのかもしれない。
それでいい。俺が相手の集中力を削ぎ、プレーに支障が出れば、こちらにはチャンスが訪れるからだ。ああ、もしかすると先輩達は、そういうことも見越して、俺にこの役割を命じたのかもしれないな。
シュートが外れたボールを寸での所で掴み、数メートル先のサバクに投げる。サバクはキャプテンとの連携プレーで相手を抜き、見事なレイアップシュートを決めた。
幾度目かの歓声が聞こえる。額に汗を滲ませ、頬を紅潮させたサバクに、俺は親指を突き立てた。
「左海、なかなかやるじゃん。相手やり辛そうだぞ」
俺が先輩に誉められたのは、第二クォーターが始まる前のわずかな休息の時だった。吹き出る汗をタオルで拭いて、きっちり水分を取る。母が水筒に入れてくれたスポーツドリンクは、きっと二リットルのペットボトルのやつをそのまま流し込んだのだろう。
梓には失礼だけど、クエン酸入りのものじゃなくて良かったと安心した。
「ありがとうございます。後半も頑張ります」
誉められたのが嬉しくて、俺は笑顔でそう言った。
「奏太が何でレギュラーメンバーなのか、相手もそろそろ分かってきたんじゃないかな」
サバクが言う。
「あれだけチョロチョロしてたら、嫌でも分かるよ」
答えながら、俺は円になって話をしている相手チームを眺めていた。
「ランガンだから、めちゃくちゃしんどいけど、勝つぞ!」
第二クォーターが始まる直前、キャプテンが皆に言った。ランガンとは、簡単に言えば「点の取り合い」という意味で、まさに俺達は点を取られては取り返しを繰り返して、何とか相手との点差を縮めていた。
何度か追い抜いた時もあったが、それでも今は負けている。
ホイッスルが鳴る。タオルを梓に返す時、「後半もネズミみたいな動きで頑張ってね」と嫌味なのか応援なのか分からない言葉をかけられた。
苦笑いを浮かべてコートに走る。
試合再開だ。
ジャンプボールをキャプテンが取ったのを確認した次の瞬間、サバクから俺に突然ボールが飛んできた。不意を突かれながらも、俺はそれを取る。俺の周りには誰もいない。サバクが腰の辺りで指を三本突き立てている。
足元を見る。俺はスリーポイントが狙える絶好の位置にいる事に気付いた。もう相手も気付いたらしく、こちらに走ってきている。
俺はゴールを見据え、ボールを構え、投げた。おそらく会場中の視線が俺に集中していたであろうその瞬間を、多少大振りの弧を描いたボールは、最高の形で締めくくってくれた。
歓声がわき起こる。
「でへっ」
俺は何が言いたいのかよく分からない呟きを漏らして、喜びも冷めやらぬままに試合の次の展開に集中した。
第二クォーターの予期せぬ反撃を受けて、相手はさらに闘志に火がついたのかもしれない。
俺は若干動きづらくなった気がした。多分これまでよりも、相手は俺を意識しているのだろう。
試合も第三クォーターに差し掛かり、中盤が過ぎた頃、俺達のチームは明らかに疲れが見え始めていた。コート内の誰もが荒い息をしていて、立ち止まっている一瞬も汗がポタポタと床に落ちる。それでもボールに食らいつくものの、徐々に点差が目立ち始めていた。
「最後まであきらめるな」
タイムを取った時、キャプテンはただ一言そう言った。あきらめるわけがなかった。勝ちたいという気持ちは、それぞれが、誰よりも強く持っている。だけど、やはり実力が伴わなかったのかもしれない。
試合が終わる頃には、十点差をつけられていて、俺達は負けた。
試合終了のホイッスルが、虚しく聞こえる。挨拶の時、揚々としている相手と向き合うのが気まずかった。
「よく頑張ったな、スリーポイント、カッコ良かったぞ」
キャプテンにそう言われた時、俺は込み上げてくる悔しさを我慢出来なかった。自分も悔しいはずなのに、優しい言葉をかけてくれたキャプテン。この試合が最後の試合となってしまった先輩達。
もっと彼らと、試合をしたかった。喜びを分かち合って、笑い合いたかった。
嗚咽がもれる。
「なんでお前が一番泣いてんだよ」
呆れかえりながらそういったサバクの声も、少し震えていた。
「左海君、大丈夫?」
さすがに梓も心配したのか、新しいタオルを差し出してきた。俺はそれを受け取って、情けない顔をその中にうずめた。
控え室でユニフォームを脱ぎ、ジャージに着替える。さすがにその時には泣き止んでいたが、とても誰かと話をする気にはなれなかった。心なしか、他の皆も言葉は少なかった。
「帰るぞ」
やがてキャプテンが短くそう言うと、それぞれの荷物を持った選手達が部屋を出ていく。
「大丈夫か?」とサバクに気遣われ、頷いた俺は、最後に部屋を出た。
一番会いたくない人と出会ったのは、体育館を出た時だった。階段を降りた所に、また大人達に混じって伊織さんが立っていた。
「奏太くん」
「こんなとこで、下の名前で呼ぶの、やめてくれないかな」
俺は冷たくそう言った。そして言った後すぐ、後悔した。
「ごめんなさい」
伊織さんが謝る。しおらしい彼女の態度が、俺をもっと惨めにさせる。いっそのこと、「自分の機嫌で、私に対する態度を変えるのはやめなさい」と言い返してくれたほうがいい。
そしてビンタの一発でも食らったら、俺は目が覚めたかもしれない。互いにかける言葉が見つからないせいか、沈黙が流れた。かといってこのまま何も言わずに立ち去るのも、気が引ける。俺がもう少し大人だったなら、素直にお礼のひとつくらい言えたのだろうか。
伊織さんと顔を合わせられないまま俯いていると、視界の端に見知った白のスニーカーが現れた。
顔を上げると、梓が横に立っていた。
「ちょっとオバサン」
梓の棘のある声に俺はギョッとしたが、彼女はそのまま言葉を続けた。
「左海君はね、試合に負けて元気が無いの。誰とも喋りたくないの。アンタも試合見てたんでしょ?大人なら空気読んで、それくらい気付きなさいよ」
梓はそう言った後、俺に微笑を浮かべた顔を向けた。
「さあ、左海君、帰るわよ」
梓に手を引かれ、俺は歩き出した。伊織さんの横を通るときでさえ、俺は彼女と目を合わせることはできなかった。
帰りのバスは、まるで通夜に向かうバスのような雰囲気だった。行きと同じく俺の隣に座ったサバクは、目をしょぼしょぼさせて眠そうにしていた。
伊織さん、今どうしてるかな。もう帰路についているのかな。冷静になって、「ありがとうございました、さようなら」ぐらい言っておけば良かったと思った。
だけど、過ぎた事を悔やんでも何も変わらない。また近いうちに謝ろうと思った。
あんな冷たい態度を取ってしまったけど、試合に負けて悔しかっただけで、決して伊織さんを嫌いになったわけじゃないと、伝えよう。
だけど伊織さんが怒っていて、話を聞いてくれようともしなかったらどうしよう。
そんなことを考えているうちに、眠たくなってきて、おそらくサバクよりも早く、俺はうたた寝を始めていた。
