2
インターハイ予選を二週間後に控えた時期は、部活の空気が変わる。いつもは笑い合い、和気藹々と練習をしている俺達は、最後の仕上げと言わんばかりに真剣に練習をするようになる。
今年、俺はサバクと一緒にレギュラーメンバーの座をあてがわれた。もともと人数が少ないせいなのか、俺の実力(そんなものがあればの話だけど)を認められたからなのかは分からないが、とにかく初っぱなから試合に出るのだという。
ベンチに座る先輩や、レギュラーメンバーではない人達には申し訳ないと言ったら、「お前アホか」とサバクに叩かれた。
梅雨明け間近のこの時期の体育館は、蒸し風呂のようだ。どれだけ軽装をしていても動けば汗だくになるし、あまりの暑さに気分が悪くなって、嘔吐する人もいた。
練習中、何も言わず突然トイレに向かって走り出す人を見ると、あーあと思ったりする。
俺は、梓の作ったクエン酸入りの必要以上にすっぱいドリンクを、顔をしかめながら飲んでいるせいか、一度もトイレに走った事はない。
梓はというと、俺がドリンクを飲むのをほくそ笑みながら見ているから、きっとドリンクが酸っぱすぎるのは梓のささやかな復讐なのだろう。昨日、そのうち青酸カリやら、ヒ素やらを入れられそうだとサバクに冗談を言ったら、梓にチクられてしまった。
今度の試合は、父兄達も見に来るらしいから、伊織さんを誘ってみようと思った。隣の市にある市民体育館で試合をやるんだけど、都合さえあえば伊織さんも来られるはずだ。
俺だって、ちょっとカッコいいところがあるんだぞと、伊織さんに伝えたかった。本当にカッコいいかどうかは別として。
伊織さんにメッセージを送ると、「ちょうどその日は休みだから、観に行くわ」と返事が来たので、俺は布団の中で思わずガッツポーズをした。
そして、ある事を思い付いた。
試合の前日は、翌日に負担がかからないようにと、部活は休みだ。その日は土曜日で学校も無いし、どうやら伊織さんも書店が休みのようだから、伊織さんの家を訪ねてみようと思った。
連絡もせず、突然お邪魔するのだ。伊織さんの驚く顔が目に浮かぶ。
「試合前に、どうしても会っておきたくて」とでも言ってみよう。本当は、仁田さんに会った日から一度も会っていない伊織さんの様子を探るためだ。仁田さんが伊織さんと何かを話したのかは知らないが、俺と伊織さんがお互いにまだ「好き」なのかどうかをそれとなく調べようと思ったのだ。
不安だった。いつか伊織さんが心変わりしてしまうんじゃないだろうかと考えれば考えるほど、不安だった。本人に、そんな心配はいらないのよと言われたとしても、その気持ちは拭えない。
俺達はまだ、将来を約束した仲じゃないし、そんな事をするような立ち位置にいるわけでもない。
だからこそ、時として不安が押し寄せ、俺は翻弄されてしまう。恋は良いことばかりじゃない。俺はそう学んだ気がした。最近、変な事ばかり考えているなと、苦笑する。
体を重ね合わせた仲が、そう簡単に壊れるものかと言い聞かせてみた。
伊織さんの家に行くと決めた日、俺が目覚めたのは昼過ぎだった。前日までの疲れがたまり、死んだように眠っていたらしい。
「なんで起こしてくれなかったんだよ」と母に八つ当たりをして、野菜たっぷりのコンソメスープとパンの昼食を食べると、俺は家を飛び出した。
別に伊織さんと約束をしているわけでもないが、なるべく早く彼女の家に行きたかったのだ。
途中の信号待ちや、踏切が疎ましい。こんなところで足止めを喰らっていなければもっと早く着いてるのにと、心の中で地団駄を踏む。
伊織さんの部屋の前に立った時には、すでに午後一時半を回っていた。
インターホンを鳴らすと、扉の向こうから足音が近付いてきた。ゴンッという鈍い音がして扉が開き、伊織さんが膝をさすりながら俺を迎え入れてくれた。
伊織さんが動揺して、扉に膝をぶつけたのだろうか。
「こんにちは!」
笑顔でそう言う傍ら、ふと思った。
「なあに?突然」
「伊織さんの顔がどうしても見たくて。迷惑かなと思ったけど、来ちゃいました」
伊織さんの後をついていきながら、俺は言った。あの扉の向こうが、俺達がセックスをした寝室で、あそこが風呂場……。伊織さんに気付かれないようにキョロキョロと周りを見渡してみる。一度来たことがあるのに、妙によそよそしく感じた。
伊織さんは居間に俺を入れると、自分はキッチンへ向かっていった。
「ケーキを焼いてあげるとは言ったけど、急に来るなんて奏太くんもやるわね」
「やるだろ」
俺が悪戯っぽく笑うと、伊織さんは「奏太くんって思ってたよりお茶目なのね」と言った。
そうか。俺がこうして驚かせようと思っていきなり訪ねた事は、伊織さんにとっては「お茶目な行動」にすぎないのか。だけど、俺がもっと歳を重ねていたらどうなのだろう。
「お茶目なのね」の一言で簡単に済ませられるような感情を、伊織さんは抱くのだろうか。
きっと、「何か裏があるんだわ」とか「どういう風の吹き回しかしら」とか、多少の疑念を持つのではないだろうか。
伊織さんにとっては、俺はまだまだ子供なのだろう。それも、汚れの知らない無垢な子供だと思われているのだろう。
甘いな、伊織さん。冷蔵庫を探っている、彼女の後ろ姿を見つめる。その隙だらけの背中に、俺が抱きついたとしたら、どうする。俺が押し倒して、台所だというのに欲情したら、どうする。それでも伊織さんは、俺を「無垢な子供」だと思い続けるのか。そう考えたところで自分で笑い出しそうになった。
何故だろう。ここに来ると、普段は姿を見せない自分の一面が現れる。欲にまみれた狡猾な獣のような感情だ。
伊織さんと体を重ね、共に一夜を過ごした。ただ一度だけ。それも、あの夜は緊張で我を忘れていたはずなのに。
俺の体を這っていた伊織さんの手の感触を思い出す。あの時と同じ手で、何を思うこともなく、伊織さんは今調理をしている。
不思議だ。すごく、不思議だ。何も思わないのか。
「私はこの手で奏太くんの全身を撫で回しました。そんな手でこれからケーキを作ります」
そうやって、意識なんてしないのか。手を洗ったから、何ともないのだろうか。それとも、何も思わないのが普通で、俺が異常なのだろうか。
先程、少し調子に乗った自分を反省する。
調子に乗っていた自分も、今こうして戸惑っている自分も、他人からみたらまだ幼いなと思われる要因なのだろう。
きっと、大人たちは、こんな馬鹿みたいなことは思わないし、一度きりのセックスでいちいち日常生活に疑問を抱いたりはしない。もしかすると、昼と夜は別ですなんて思っているのかもしれない。
伊織さんから視線をそらした俺は、ふと部屋の端に置いてある電子キーボードを見つけた。
確かこの間は、無かったはずだと思い、俺はそっとそれに近付いた。八十八個の鍵盤が、規則正しく並んでいる。
こんなものがあるということは、伊織さんはピアノを習っていたのだろうか。
勝手に電源を入れる。このままボーッと待っているのも退屈だし、伊織さんを驚かせたいから、少し演奏をしようと思ったのだ。
チラリと台所を見る。伊織さんはこちらには気付いていない。俺はニヤリと笑って鍵盤に向き直ると、そっと指を置いた。
俺が弾き始めたのは、誰もが知っているベートーベンの名曲、「エリーゼのために」だ。
体が旋律を覚えていた。母に聞かされたこの曲に関するエピソードと共に、どんどんと頭に音符が浮かぶ。
ベートーベンがこの曲を作曲したのは、一八一〇年、彼が四十歳の時だった。しかし、楽譜が見つかったのは彼が亡くなった後の一八六七年で、「エリーゼ」とは一体誰なのかと大いに話題になったらしい。何故なら、ベートーベンの周囲には「エリーゼ」という名の女性はいなかったからだ。
しかし、答えはこの楽譜が見つかった、テレーゼ・フォン・ドロスディックという夫人の手紙箱にあった。この夫人は、ベートーベンが四十歳になる直前にプロポーズをした、テレーゼ・マルファッティと同一人物なのだという。
ベートーベンは字が汚く、本人は「テレーゼ」と書いたつもりのタイトルが、第三者から見れば「エリーゼ」に見えてしまったのだ。ベートーベンがテレーゼに恋をした時、テレーゼはまだ十八歳。その恋は実らなかったが、歳の差の恋というのが俺と伊織さんと同じだと思った。
「エリーゼのために」は、いわば失恋ソングなのだ。
言われてみればそんな気もした。後半の左手の「ラ」周辺の音の連打。不安定に揺れるようなメロディー。
そして、一気に高音へとかけ上ったかと思うと、またすぐに戻っていって、最後に有名な旋律で終わる一連の流れは、失恋のショックから立ち直ろうとするが、それでもまだテレーゼが忘れられないというような感情が込められている気がする。
母にエピソードを聞かされた時は何も思わなかったのに、俺も少しは成長したのかなと思った。
曲を弾き終わり、くるりと振り返ると、すぐ後ろに伊織さんが立っていた。
「うわ! びっくりした!」
俺は思わず叫んでしまった。
「ご、ごめんなさい。勝手に触って……」
「そんなの、いいのよ。奏太くんってピアノ弾けたんだ」
「昔、母から習ってました」
「お母様から?」
伊織さんの問いかけに、俺は無言でうなずいた。
「いいお母様ね。もうちょっとでケーキが焼き上がるから、私にもう一曲、聞かせてよ」
俺はほんの一瞬迷ったが、伊織さんが望むのならと思って、頷いた。
「何か、聞きたい曲、ありますか? そんなに上手くないですけど」
伊織さんは考え込むように部屋の壁を見つめた後、口を開いた。
「じゃあ、『ラ・カンパネラ』なんて弾けるかしら」
「あまり上手くないです」
「でも、弾けるんだ」
「……はい」
俺の返事を聞いて、伊織さんは満足そうに微笑んだ。もしかすると伊織さんはピアノが大得意で、俺の下手くそな演奏を聞いて、嘲笑するつもりなのかもしれないと思って、少し怖くなった。
それでも弾けると言った以上、俺は、弾かなきゃならない。鍵盤に指を置いて一息置くと、慎重な手つき音を奏で始めた。
演奏が終わるまでの約五分間、俺はこの曲でピアノを挫折しかけた過去の自分を思い出していた。上級者向けの難曲だ。
この曲を弾きたいと言い出したのは俺なのに、複雑な旋律とそのテンポのせいで、なかなか弾けるようにならなかった。
自棄になった俺は母に当たり散らし、ピアノの鍵盤をむちゃくちゃに叩いた。今になって思えば、「情けない」の一言しか出ない。
ピアノからしばらく離れた俺に、母が言った言葉がなければ、今も俺はこの曲が弾けないままだっただろう。
「あんたの力量って、こんなものだったのね」
辛辣な言葉に、俺は泣いた。そして、ピアノなんかに、負けてたまるかと思ったのだ。当時の俺は、母を喜ばせるためにピアノを弾いていた。
俺が曲を弾けるようになれば、母さんは笑ってくれるんだ。母さんの笑顔が、見たい。
今となっては面映ゆい、そんな気持ちを抱いていた。だから「ラ・カンパネラ」を弾けるようになれた時、その喜びもひとしおだった。
ご褒美にと、母はケーキを焼いてくれた。そう、今の伊織さんのように。だから、俺にとっての「ラ・カンパネラ」は、「ケーキの曲」でもあるのだ。
やがて香ばしいケーキの香りが漂ってきて、俺はついついそっちの方に気を取られてしまった。ピアノから目を離し、台所にいる伊織さんを見る。
まだかな、まだかなと、はやる気持ちを抑えるので精一杯で、伊織さんに話しかけることも忘れていた。あの伊織さんが、俺のためだけにケーキを作ってくれている。それが凄く贅沢な事のように思えてくる。
多分、母が作ってくれた「ラ・カンパネラ」のケーキの味には、遠く及ばないかもしれないけれど、でもやっぱり美味しいはずだ。あのケーキのように、今日がいつか思い出になった時、もしも伊織さんのケーキが不味かったとしても、その味も美化されて「すごく美味しかったな」と思えるのだろう。
「出来たわよ」
伊織さんの声に、俺は思わず立ち上がってケーキを見に行った。全体に生クリームが塗られ、ケーキの上にはブルーベリーが乗っていた。
「奏太くんがいきなり来るから、苺が用意出来てなかったの」
伊織さんはそう言って、ケーキを持ち上げると、一人暮らしには少し大きな冷蔵庫にそれを入れた。
「もしかして、すぐに食べられると思った? ちゃんと冷やさないと、美味しくないわよ」
俺が驚いた顔をしたせいか、伊織さんは笑って言った。
「少し話そっか」
そして伊織さんは、居間へ行き、テーブルの前に腰を下ろした。俺も伊織さんに向かい合う形で、先程座っていた場所に戻る。
「あ、あの、明日来てくれますよね?……試合」
「勿論よ。頑張ってね。そうだ、カメラでも持っていこうかしら」
「それは……」
口ごもる俺を見て、「ん?」というふうに伊織さんはこちらを見たが、俺は「何でもないです」と慌てて言った。本当は試合をしている姿なんて、写真に撮られるのは恥ずかしいけれど、伊織さんがそうしたいのならすればいいと思ったのだ。
「で、でも、あまり期待しないでください。俺、あんまり上手くないから……」
「よく分からないけど、あんまり上手くない人が試合のメンバーにはなれないと思うわ」
そう言って伊織さんは笑った。やっぱり綺麗だなと、笑顔に見とれてしまった。
「この間、仁くんが奏太くんのこと、褒めてたわよ」
その一言に、俺はドキッとした。あの人、伊織さんに言ったんだ……。
「とても良い奴だって。でも、何で教えてくれなかったのかしら、仁くんに会ったこと」
「それは……」
仁田さんに、俺達の関係がバレたからです、とは言えなかった。伊織さんとの関係に不安が出来てしまって、泣いてしまいましたなんて言ったら、どう思われるだろう。
自分が泣いた事も認めたくないのに、そんなの伊織さんに言えるわけがない。
「……ごめんなさい」
伊織さんに聞こえたかどうか分からないほどの声で、俺は呟いた。
「別に良いのよ。気にしていないから」
伊織さんが優しく諭すように言った。
俺、伊織さんに心を開いていないって思われたかな。本来なら、包み隠さずありのままを伝えるべきだ。それが出来ないのは、俺がまだ二人の関係に戸惑いがあるからなのだろう。
俺の言葉遣いには、それが顕著に現れている。付き合っているのに敬語を使うなんて、すごくちぐはぐな気がする。
い・お・り。
声に出さず、伊織さんを呼び捨てで呼んでみる。顔が火照るのを感じて、別に名前まで呼び捨てで呼ばなくてもいいかなと思い直した。
「そろそろいいかしら」
伊織さんが壁の時計を見上げて言ったのは、それから一時間ほど経った時だった。音楽の話や、それぞれの近況など、色んな話をしていたので、俺は一瞬何のことか分からなかった。
伊織さんが立ち上がって冷蔵庫に向かうのを見て、ケーキのことを思い出した。伊織さんはケーキを包丁で食べやすい大きさに切って、小皿に取り分けて俺にくれた。
思わず笑みがこぼれる。
「いただきます」
俺は早速フォークを突き刺して、一口食べた。
「おいしい」
冷えたケーキは、すごく美味しかった。甘い味が口の中に広がって、顔が綻ぶ。ああ、幸せだななんて、思ったりした。
「伊織さん、これ凄く美味しいです!」
「喜んでくれて嬉しいわ」
俺は次々とケーキを口に入れ、その甘美な味を堪能した。どんな高級なケーキよりも俺に合うのは、やはり好きな人が作ってくれたケーキなのだ。
伊織さんが作ってくれたケーキなら、一切れ一万円でも買ってしまうかもしれない。いや、やはり、この味はお金なんかじゃ計れない。
俺の舌が感じる、俺だけの「美味しさ」だ。きっとその味は、他の誰にも分からないだろう。
「そんなに急がなくても、誰も取らないわよ。ほら、クリームついてる」
伊織さんがクスクス笑って、俺の頬についていた生クリームを指ですくった。そして、舐めた。
俺は無言のまま、フォークをお皿の上に置いた。カチャンと、静かな部屋に音が響く。
そして、俺は立ち上がると、伊織さんの前に立った。不思議そうな顔をして、伊織さんは俺を見つめる。
おそらく「どうしたの?」と言おうとしたであろう唇を、俺は自分の唇でふさいだ。
ほんの一瞬の事だった。すぐに唇を放し、驚いた顔の伊織さんを見つめる。
「……お礼です」
俺はただ一言そう呟くと、席に戻って再びケーキを口に入れた。
「奏太くん……嫌だ、からかわないでよ」
「からかってなんかない。俺は、自分の気持ちを伝えたかっただけ……だ」
いつものような敬語は使わなかったせいか、たどたどしい口調になった。
自分がいま何をしたのかは、よく分かっている。無意識のうちに、なんて言ってむざむざと逃げ出したりはしない。
「今まで俺は、伊織さんに恋人らしい事なんてしたことがないから、今度こそって思ったんだ。なんか変質者みたいだけど、伊織さんを驚かせたくて」
そうやってカッコつけてみたけれど、俺の頬についたクリームを舐めた伊織さんに欲情しただけだ。
自分の行動の理由が分かっていると、意外と冷静にいられるんだなと思った。
驚きを隠せないのは、伊織さんの方だった。何も言わず、ただ俺を見ている。
「それから俺、もう伊織さんに敬語で話すのやめる。なんか、付き合ってるのに不自然だったし、さっきので吹っ切れた」
棒読みのような台詞だったけど、伊織さんに追い討ちをかけたつもりでいた。それなのに、伊織さんは突然笑い出した。
「奏太くんも、ちょっとは言うようになったじゃない」
伊織さんはきっと、精一杯大人を演じようとして、そう言ったのだ。予想にしかすぎないけれど、そんな気がした。
「俺、もう帰ります。ケーキ持って帰っていいですか?」
しばらくして、俺はそう言った。自分が押しかけておいて、いきなり帰るなんて、自分勝手にも程があるなと思ったけど、これ以上ここに居たら、朝まで居続けそうな気がする。
試合前日なのに、多分それはいけないだろう。
「言ったそばから敬語になってるじゃない」
「あ……」
恥ずかしくなって、俯く。そのあいだに伊織さんは、ケーキを一切れずつラップに包んで、俺が持ち帰られるようにと、小さな紙袋に入れてくれた。
「じゃあ、また明日」
伊織さんはそう言って俺に紙袋を渡してくれた。心なしかその顔が、何だか寂しそうに見えたが、俺はどうすることも出来ず、ただ頷いて伊織さんの家を出た。
歩くたびに紙袋がガサガサと音を立てる。改めてありがとうと言うのを忘れていた。そう思った俺は、スマホを取り出して、伊織さんに「ありがとう」とただ一言、メッセージを送った。明日は頑張ろうと、それだけを思った。
インターハイ予選を二週間後に控えた時期は、部活の空気が変わる。いつもは笑い合い、和気藹々と練習をしている俺達は、最後の仕上げと言わんばかりに真剣に練習をするようになる。
今年、俺はサバクと一緒にレギュラーメンバーの座をあてがわれた。もともと人数が少ないせいなのか、俺の実力(そんなものがあればの話だけど)を認められたからなのかは分からないが、とにかく初っぱなから試合に出るのだという。
ベンチに座る先輩や、レギュラーメンバーではない人達には申し訳ないと言ったら、「お前アホか」とサバクに叩かれた。
梅雨明け間近のこの時期の体育館は、蒸し風呂のようだ。どれだけ軽装をしていても動けば汗だくになるし、あまりの暑さに気分が悪くなって、嘔吐する人もいた。
練習中、何も言わず突然トイレに向かって走り出す人を見ると、あーあと思ったりする。
俺は、梓の作ったクエン酸入りの必要以上にすっぱいドリンクを、顔をしかめながら飲んでいるせいか、一度もトイレに走った事はない。
梓はというと、俺がドリンクを飲むのをほくそ笑みながら見ているから、きっとドリンクが酸っぱすぎるのは梓のささやかな復讐なのだろう。昨日、そのうち青酸カリやら、ヒ素やらを入れられそうだとサバクに冗談を言ったら、梓にチクられてしまった。
今度の試合は、父兄達も見に来るらしいから、伊織さんを誘ってみようと思った。隣の市にある市民体育館で試合をやるんだけど、都合さえあえば伊織さんも来られるはずだ。
俺だって、ちょっとカッコいいところがあるんだぞと、伊織さんに伝えたかった。本当にカッコいいかどうかは別として。
伊織さんにメッセージを送ると、「ちょうどその日は休みだから、観に行くわ」と返事が来たので、俺は布団の中で思わずガッツポーズをした。
そして、ある事を思い付いた。
試合の前日は、翌日に負担がかからないようにと、部活は休みだ。その日は土曜日で学校も無いし、どうやら伊織さんも書店が休みのようだから、伊織さんの家を訪ねてみようと思った。
連絡もせず、突然お邪魔するのだ。伊織さんの驚く顔が目に浮かぶ。
「試合前に、どうしても会っておきたくて」とでも言ってみよう。本当は、仁田さんに会った日から一度も会っていない伊織さんの様子を探るためだ。仁田さんが伊織さんと何かを話したのかは知らないが、俺と伊織さんがお互いにまだ「好き」なのかどうかをそれとなく調べようと思ったのだ。
不安だった。いつか伊織さんが心変わりしてしまうんじゃないだろうかと考えれば考えるほど、不安だった。本人に、そんな心配はいらないのよと言われたとしても、その気持ちは拭えない。
俺達はまだ、将来を約束した仲じゃないし、そんな事をするような立ち位置にいるわけでもない。
だからこそ、時として不安が押し寄せ、俺は翻弄されてしまう。恋は良いことばかりじゃない。俺はそう学んだ気がした。最近、変な事ばかり考えているなと、苦笑する。
体を重ね合わせた仲が、そう簡単に壊れるものかと言い聞かせてみた。
伊織さんの家に行くと決めた日、俺が目覚めたのは昼過ぎだった。前日までの疲れがたまり、死んだように眠っていたらしい。
「なんで起こしてくれなかったんだよ」と母に八つ当たりをして、野菜たっぷりのコンソメスープとパンの昼食を食べると、俺は家を飛び出した。
別に伊織さんと約束をしているわけでもないが、なるべく早く彼女の家に行きたかったのだ。
途中の信号待ちや、踏切が疎ましい。こんなところで足止めを喰らっていなければもっと早く着いてるのにと、心の中で地団駄を踏む。
伊織さんの部屋の前に立った時には、すでに午後一時半を回っていた。
インターホンを鳴らすと、扉の向こうから足音が近付いてきた。ゴンッという鈍い音がして扉が開き、伊織さんが膝をさすりながら俺を迎え入れてくれた。
伊織さんが動揺して、扉に膝をぶつけたのだろうか。
「こんにちは!」
笑顔でそう言う傍ら、ふと思った。
「なあに?突然」
「伊織さんの顔がどうしても見たくて。迷惑かなと思ったけど、来ちゃいました」
伊織さんの後をついていきながら、俺は言った。あの扉の向こうが、俺達がセックスをした寝室で、あそこが風呂場……。伊織さんに気付かれないようにキョロキョロと周りを見渡してみる。一度来たことがあるのに、妙によそよそしく感じた。
伊織さんは居間に俺を入れると、自分はキッチンへ向かっていった。
「ケーキを焼いてあげるとは言ったけど、急に来るなんて奏太くんもやるわね」
「やるだろ」
俺が悪戯っぽく笑うと、伊織さんは「奏太くんって思ってたよりお茶目なのね」と言った。
そうか。俺がこうして驚かせようと思っていきなり訪ねた事は、伊織さんにとっては「お茶目な行動」にすぎないのか。だけど、俺がもっと歳を重ねていたらどうなのだろう。
「お茶目なのね」の一言で簡単に済ませられるような感情を、伊織さんは抱くのだろうか。
きっと、「何か裏があるんだわ」とか「どういう風の吹き回しかしら」とか、多少の疑念を持つのではないだろうか。
伊織さんにとっては、俺はまだまだ子供なのだろう。それも、汚れの知らない無垢な子供だと思われているのだろう。
甘いな、伊織さん。冷蔵庫を探っている、彼女の後ろ姿を見つめる。その隙だらけの背中に、俺が抱きついたとしたら、どうする。俺が押し倒して、台所だというのに欲情したら、どうする。それでも伊織さんは、俺を「無垢な子供」だと思い続けるのか。そう考えたところで自分で笑い出しそうになった。
何故だろう。ここに来ると、普段は姿を見せない自分の一面が現れる。欲にまみれた狡猾な獣のような感情だ。
伊織さんと体を重ね、共に一夜を過ごした。ただ一度だけ。それも、あの夜は緊張で我を忘れていたはずなのに。
俺の体を這っていた伊織さんの手の感触を思い出す。あの時と同じ手で、何を思うこともなく、伊織さんは今調理をしている。
不思議だ。すごく、不思議だ。何も思わないのか。
「私はこの手で奏太くんの全身を撫で回しました。そんな手でこれからケーキを作ります」
そうやって、意識なんてしないのか。手を洗ったから、何ともないのだろうか。それとも、何も思わないのが普通で、俺が異常なのだろうか。
先程、少し調子に乗った自分を反省する。
調子に乗っていた自分も、今こうして戸惑っている自分も、他人からみたらまだ幼いなと思われる要因なのだろう。
きっと、大人たちは、こんな馬鹿みたいなことは思わないし、一度きりのセックスでいちいち日常生活に疑問を抱いたりはしない。もしかすると、昼と夜は別ですなんて思っているのかもしれない。
伊織さんから視線をそらした俺は、ふと部屋の端に置いてある電子キーボードを見つけた。
確かこの間は、無かったはずだと思い、俺はそっとそれに近付いた。八十八個の鍵盤が、規則正しく並んでいる。
こんなものがあるということは、伊織さんはピアノを習っていたのだろうか。
勝手に電源を入れる。このままボーッと待っているのも退屈だし、伊織さんを驚かせたいから、少し演奏をしようと思ったのだ。
チラリと台所を見る。伊織さんはこちらには気付いていない。俺はニヤリと笑って鍵盤に向き直ると、そっと指を置いた。
俺が弾き始めたのは、誰もが知っているベートーベンの名曲、「エリーゼのために」だ。
体が旋律を覚えていた。母に聞かされたこの曲に関するエピソードと共に、どんどんと頭に音符が浮かぶ。
ベートーベンがこの曲を作曲したのは、一八一〇年、彼が四十歳の時だった。しかし、楽譜が見つかったのは彼が亡くなった後の一八六七年で、「エリーゼ」とは一体誰なのかと大いに話題になったらしい。何故なら、ベートーベンの周囲には「エリーゼ」という名の女性はいなかったからだ。
しかし、答えはこの楽譜が見つかった、テレーゼ・フォン・ドロスディックという夫人の手紙箱にあった。この夫人は、ベートーベンが四十歳になる直前にプロポーズをした、テレーゼ・マルファッティと同一人物なのだという。
ベートーベンは字が汚く、本人は「テレーゼ」と書いたつもりのタイトルが、第三者から見れば「エリーゼ」に見えてしまったのだ。ベートーベンがテレーゼに恋をした時、テレーゼはまだ十八歳。その恋は実らなかったが、歳の差の恋というのが俺と伊織さんと同じだと思った。
「エリーゼのために」は、いわば失恋ソングなのだ。
言われてみればそんな気もした。後半の左手の「ラ」周辺の音の連打。不安定に揺れるようなメロディー。
そして、一気に高音へとかけ上ったかと思うと、またすぐに戻っていって、最後に有名な旋律で終わる一連の流れは、失恋のショックから立ち直ろうとするが、それでもまだテレーゼが忘れられないというような感情が込められている気がする。
母にエピソードを聞かされた時は何も思わなかったのに、俺も少しは成長したのかなと思った。
曲を弾き終わり、くるりと振り返ると、すぐ後ろに伊織さんが立っていた。
「うわ! びっくりした!」
俺は思わず叫んでしまった。
「ご、ごめんなさい。勝手に触って……」
「そんなの、いいのよ。奏太くんってピアノ弾けたんだ」
「昔、母から習ってました」
「お母様から?」
伊織さんの問いかけに、俺は無言でうなずいた。
「いいお母様ね。もうちょっとでケーキが焼き上がるから、私にもう一曲、聞かせてよ」
俺はほんの一瞬迷ったが、伊織さんが望むのならと思って、頷いた。
「何か、聞きたい曲、ありますか? そんなに上手くないですけど」
伊織さんは考え込むように部屋の壁を見つめた後、口を開いた。
「じゃあ、『ラ・カンパネラ』なんて弾けるかしら」
「あまり上手くないです」
「でも、弾けるんだ」
「……はい」
俺の返事を聞いて、伊織さんは満足そうに微笑んだ。もしかすると伊織さんはピアノが大得意で、俺の下手くそな演奏を聞いて、嘲笑するつもりなのかもしれないと思って、少し怖くなった。
それでも弾けると言った以上、俺は、弾かなきゃならない。鍵盤に指を置いて一息置くと、慎重な手つき音を奏で始めた。
演奏が終わるまでの約五分間、俺はこの曲でピアノを挫折しかけた過去の自分を思い出していた。上級者向けの難曲だ。
この曲を弾きたいと言い出したのは俺なのに、複雑な旋律とそのテンポのせいで、なかなか弾けるようにならなかった。
自棄になった俺は母に当たり散らし、ピアノの鍵盤をむちゃくちゃに叩いた。今になって思えば、「情けない」の一言しか出ない。
ピアノからしばらく離れた俺に、母が言った言葉がなければ、今も俺はこの曲が弾けないままだっただろう。
「あんたの力量って、こんなものだったのね」
辛辣な言葉に、俺は泣いた。そして、ピアノなんかに、負けてたまるかと思ったのだ。当時の俺は、母を喜ばせるためにピアノを弾いていた。
俺が曲を弾けるようになれば、母さんは笑ってくれるんだ。母さんの笑顔が、見たい。
今となっては面映ゆい、そんな気持ちを抱いていた。だから「ラ・カンパネラ」を弾けるようになれた時、その喜びもひとしおだった。
ご褒美にと、母はケーキを焼いてくれた。そう、今の伊織さんのように。だから、俺にとっての「ラ・カンパネラ」は、「ケーキの曲」でもあるのだ。
やがて香ばしいケーキの香りが漂ってきて、俺はついついそっちの方に気を取られてしまった。ピアノから目を離し、台所にいる伊織さんを見る。
まだかな、まだかなと、はやる気持ちを抑えるので精一杯で、伊織さんに話しかけることも忘れていた。あの伊織さんが、俺のためだけにケーキを作ってくれている。それが凄く贅沢な事のように思えてくる。
多分、母が作ってくれた「ラ・カンパネラ」のケーキの味には、遠く及ばないかもしれないけれど、でもやっぱり美味しいはずだ。あのケーキのように、今日がいつか思い出になった時、もしも伊織さんのケーキが不味かったとしても、その味も美化されて「すごく美味しかったな」と思えるのだろう。
「出来たわよ」
伊織さんの声に、俺は思わず立ち上がってケーキを見に行った。全体に生クリームが塗られ、ケーキの上にはブルーベリーが乗っていた。
「奏太くんがいきなり来るから、苺が用意出来てなかったの」
伊織さんはそう言って、ケーキを持ち上げると、一人暮らしには少し大きな冷蔵庫にそれを入れた。
「もしかして、すぐに食べられると思った? ちゃんと冷やさないと、美味しくないわよ」
俺が驚いた顔をしたせいか、伊織さんは笑って言った。
「少し話そっか」
そして伊織さんは、居間へ行き、テーブルの前に腰を下ろした。俺も伊織さんに向かい合う形で、先程座っていた場所に戻る。
「あ、あの、明日来てくれますよね?……試合」
「勿論よ。頑張ってね。そうだ、カメラでも持っていこうかしら」
「それは……」
口ごもる俺を見て、「ん?」というふうに伊織さんはこちらを見たが、俺は「何でもないです」と慌てて言った。本当は試合をしている姿なんて、写真に撮られるのは恥ずかしいけれど、伊織さんがそうしたいのならすればいいと思ったのだ。
「で、でも、あまり期待しないでください。俺、あんまり上手くないから……」
「よく分からないけど、あんまり上手くない人が試合のメンバーにはなれないと思うわ」
そう言って伊織さんは笑った。やっぱり綺麗だなと、笑顔に見とれてしまった。
「この間、仁くんが奏太くんのこと、褒めてたわよ」
その一言に、俺はドキッとした。あの人、伊織さんに言ったんだ……。
「とても良い奴だって。でも、何で教えてくれなかったのかしら、仁くんに会ったこと」
「それは……」
仁田さんに、俺達の関係がバレたからです、とは言えなかった。伊織さんとの関係に不安が出来てしまって、泣いてしまいましたなんて言ったら、どう思われるだろう。
自分が泣いた事も認めたくないのに、そんなの伊織さんに言えるわけがない。
「……ごめんなさい」
伊織さんに聞こえたかどうか分からないほどの声で、俺は呟いた。
「別に良いのよ。気にしていないから」
伊織さんが優しく諭すように言った。
俺、伊織さんに心を開いていないって思われたかな。本来なら、包み隠さずありのままを伝えるべきだ。それが出来ないのは、俺がまだ二人の関係に戸惑いがあるからなのだろう。
俺の言葉遣いには、それが顕著に現れている。付き合っているのに敬語を使うなんて、すごくちぐはぐな気がする。
い・お・り。
声に出さず、伊織さんを呼び捨てで呼んでみる。顔が火照るのを感じて、別に名前まで呼び捨てで呼ばなくてもいいかなと思い直した。
「そろそろいいかしら」
伊織さんが壁の時計を見上げて言ったのは、それから一時間ほど経った時だった。音楽の話や、それぞれの近況など、色んな話をしていたので、俺は一瞬何のことか分からなかった。
伊織さんが立ち上がって冷蔵庫に向かうのを見て、ケーキのことを思い出した。伊織さんはケーキを包丁で食べやすい大きさに切って、小皿に取り分けて俺にくれた。
思わず笑みがこぼれる。
「いただきます」
俺は早速フォークを突き刺して、一口食べた。
「おいしい」
冷えたケーキは、すごく美味しかった。甘い味が口の中に広がって、顔が綻ぶ。ああ、幸せだななんて、思ったりした。
「伊織さん、これ凄く美味しいです!」
「喜んでくれて嬉しいわ」
俺は次々とケーキを口に入れ、その甘美な味を堪能した。どんな高級なケーキよりも俺に合うのは、やはり好きな人が作ってくれたケーキなのだ。
伊織さんが作ってくれたケーキなら、一切れ一万円でも買ってしまうかもしれない。いや、やはり、この味はお金なんかじゃ計れない。
俺の舌が感じる、俺だけの「美味しさ」だ。きっとその味は、他の誰にも分からないだろう。
「そんなに急がなくても、誰も取らないわよ。ほら、クリームついてる」
伊織さんがクスクス笑って、俺の頬についていた生クリームを指ですくった。そして、舐めた。
俺は無言のまま、フォークをお皿の上に置いた。カチャンと、静かな部屋に音が響く。
そして、俺は立ち上がると、伊織さんの前に立った。不思議そうな顔をして、伊織さんは俺を見つめる。
おそらく「どうしたの?」と言おうとしたであろう唇を、俺は自分の唇でふさいだ。
ほんの一瞬の事だった。すぐに唇を放し、驚いた顔の伊織さんを見つめる。
「……お礼です」
俺はただ一言そう呟くと、席に戻って再びケーキを口に入れた。
「奏太くん……嫌だ、からかわないでよ」
「からかってなんかない。俺は、自分の気持ちを伝えたかっただけ……だ」
いつものような敬語は使わなかったせいか、たどたどしい口調になった。
自分がいま何をしたのかは、よく分かっている。無意識のうちに、なんて言ってむざむざと逃げ出したりはしない。
「今まで俺は、伊織さんに恋人らしい事なんてしたことがないから、今度こそって思ったんだ。なんか変質者みたいだけど、伊織さんを驚かせたくて」
そうやってカッコつけてみたけれど、俺の頬についたクリームを舐めた伊織さんに欲情しただけだ。
自分の行動の理由が分かっていると、意外と冷静にいられるんだなと思った。
驚きを隠せないのは、伊織さんの方だった。何も言わず、ただ俺を見ている。
「それから俺、もう伊織さんに敬語で話すのやめる。なんか、付き合ってるのに不自然だったし、さっきので吹っ切れた」
棒読みのような台詞だったけど、伊織さんに追い討ちをかけたつもりでいた。それなのに、伊織さんは突然笑い出した。
「奏太くんも、ちょっとは言うようになったじゃない」
伊織さんはきっと、精一杯大人を演じようとして、そう言ったのだ。予想にしかすぎないけれど、そんな気がした。
「俺、もう帰ります。ケーキ持って帰っていいですか?」
しばらくして、俺はそう言った。自分が押しかけておいて、いきなり帰るなんて、自分勝手にも程があるなと思ったけど、これ以上ここに居たら、朝まで居続けそうな気がする。
試合前日なのに、多分それはいけないだろう。
「言ったそばから敬語になってるじゃない」
「あ……」
恥ずかしくなって、俯く。そのあいだに伊織さんは、ケーキを一切れずつラップに包んで、俺が持ち帰られるようにと、小さな紙袋に入れてくれた。
「じゃあ、また明日」
伊織さんはそう言って俺に紙袋を渡してくれた。心なしかその顔が、何だか寂しそうに見えたが、俺はどうすることも出来ず、ただ頷いて伊織さんの家を出た。
歩くたびに紙袋がガサガサと音を立てる。改めてありがとうと言うのを忘れていた。そう思った俺は、スマホを取り出して、伊織さんに「ありがとう」とただ一言、メッセージを送った。明日は頑張ろうと、それだけを思った。
