アンダンテ・アマービレ

 1

 日曜日の夕方、俺は伊織さんの書店に行った。途中で出会ったティッシュ配りの人から貰ったティッシュの中に、飴玉がひとつ入っていたので、それを口にして、店内に入る。
 本の香りと葡萄の味が、同時に体を駆け巡る。薄暗い店内は、今日もお客さんがいっぱいいた。
 俺は飴をコロコロ口の中で転がしながら、学習参考書のコーナーを目指した。古文の単語を覚えるための本を探しにきたのだ。
 自分より背の高い棚を見上げ、左から右、上から下というふうに、お目当ての本を探していく。
 品揃えが豊富なこの店では、該当の本を見つけても、またその中から自分に合ったものを厳選しなければならない。俺は一冊ずつ手に取って、パラパラと中身を確かめていった。
 「お客様」
 突然男の人の声がして、俺はビクッとした。聞いたことのある、どこかふざけているかのような声色だった。手に持っていた本を取り落としそうになりながらもそれをキャッチし、振り返ると、仁田さんがそこにいた。
 「あ、こんにちは……」
 躊躇しながら俺が言うと、仁田さんは「いらっしゃいませ」と笑った。
 「お客様、困ります。店内での飲食はご遠慮下さい」
 「あ、すみません」
 俺は慌てて飴を噛み砕いて、飲み込んだ。仁田さんはそんな俺を見てニヤリとした後に、不意に近付いてきて、俺に耳打ちをした。
 「今日これから暇か?」
 「は?」
 聞き返す。戸惑いの感情が飛び出してきて、乱暴な口調になっていたかもしれない。じっと、仁田さんはこちらを見ている。
 ああ、この人は、話している相手の目をちゃんと見ることのできる人なんだなとか思っていると、「どうなんだよ」と返事をせまられた。
 「あ、大丈夫です……少しなら」
 俺は、仁田さんの胸元にある「じんだ」と書かれた名札を見ながら答えた。
 「そうかそうか。じゃ、ちょっと待ってろよ」
 仁田さんはそう言って、俺の返事も待たずに踵をかえし、去っていった。
 ぽかんとしたまま立ち尽くしていると、遠くの方から「おつかれさまでしたー!!」という仁田さんの大きな声が聞こえてきた。

 その後、俺が仁田さんに連れられてやってきたのは、一軒のこじんまりとした喫茶店だった。騒がしい仁田さんのイメージには似つかわしくない佇まいの店で、どちらかといえば伊織さんが通っていそうな感じだ。店内に入ると、ショパンの「ノクターン遺作」がかかっていた。
 「好きなものを頼め」
 店の一番奥の席に陣取った仁田さんに、メニューを押し付けられる。
 「え」
 俺が躊躇すると、仁田さんは「心配すんな。奢ってやるから」と言って笑った。いや、むしろその方が躊躇ってしまうんだけど……なんて言っても、きっと聞き入ってはもらえない。しばらく迷ったあと、俺はチョコレートパフェを注文した。
 「下の名前は」
 店員が立ち去っていった後、仁田さんが出し抜けに言った。
 「奏太……です」
 取り調べを受けているような気分になる。本物の取り調べなんて受けたことないから、想像でしかないけれど。
 「ふーん」
 仁田さんは自分で聞いておきながら、さほど関心はない様子で、カランカランと音を立てながらお冷やを一口飲んだ。
 「あの……今日はどういったつもりで、お……僕を誘ったんですか?」
 沈黙が流れるのに堪えられず、俺から話題をふってみた。
 「パフェ食ってからな」
 だけど、そう言ってはぐらかされた。
 何か企んでいるんだ。きっとそうだ。そう思った途端、書店で誘われた時に断っておくべきだったと後悔した。
 「今、聞きたいんです」
 早く帰りたくなって、俺はそう言った。
 「お前って、意外と自分の言い分を貫き通すタイプなんだな」
 仁田さんの目が丸くなる。怒らせたわけでも、皮肉で言ったわけでもないだろう。
 ちょうどその時、見計らったかのようにパフェと仁田さんが頼んだコーヒーが運ばれてきた。
 「まあ、食えよ」
 仁田さんに急かされて、俺はひとまずパフェを食べた。甘いアイスを口に含みながら、自分は完全に仁田さんのペースにはまっていると感じた。でも、甘くて美味しいパフェが食べられるのならば、別にいいかななどと思ったりして、慌てて心の中でそれを否定する。これから何を問われるのか、ずっと身構えていなければならない。でも、身構えているのを相手に悟られるのも嫌だから、仁田さんの口車に乗せられたふりをしよう。
 「香坂さんとお前って、どんな関係なんだ?」
 パフェを半分ぐらい食べた時、不意に仁田さんが聞いてきた。
 「え?」
 心臓がドクンと波打つ。スプーンを運ぶ手が止まった。
 「どんな関係って……」
 店内のBGMが「子犬のワルツ」に変わる。この店の店主はショパンが好きなんだなとは、思う余裕も無く、俺の心は曲のテンポに急かされるように激しく動揺していた。
 「誰にも言わねぇからさ」
 ありきたりで信用の出来ないその言葉に、俺はカチンと来た。とりあえず残りのパフェを全て食べ終え、スプーンを置く。
 「なんで仁田さんにそんなこと言わなきゃいけないんですか?」
 自然と口調がきつくなる。それでも、仁田さんは動じることなく、表情ひとつ変えずに、俺を見ている。まるで俺が、こういう態度に出る事を前もって予測していたかのようだ。
 「こないだの香坂さんは、お前が現れた時だけ、やけに動揺していた。それはお前と香坂さんが、ただの店員と客じゃないって言っているようなもんだろ?」
 「……俺は、あの店で万引きしたんです」
 イライラして、さらりと口から嘘がこぼれた。すると、思考が滑らかになり、どんどん嘘が浮かんでくる。俺は仁田さんにそれをぶつけて、出し抜いてやろうと考えた。
 「はあ?」
 仁田さんが眉を潜める。
 「で、俺が店に行く度にあの人にマークされてて、いつしか話すようになりました。あの人は俺を見たら万引きの事を思い出すから様子がおかしくなるんじゃないですか?」
 「おかしくなるんじゃないですか?……って聞かれても知らねぇよ。お前、オレをなめてんのか?そんな作り話に騙されるとでも思ってんのか?」
 仁田さんは冷たく言い放って俺を睨んだ。
 せっかく考えた嘘は、すぐに見破られてしまったらしい。
 「万引きする奴ってのはな、店員みんなで防犯カメラチェックして、『こいつに注意しましょう』って全員に情報が回るんだよ。嘘をつくなら、もうちょっとマシな嘘にしろ」
 それに、自分を貶めるような嘘はつくなと、親みたいな言葉を付け加える。
 俺が黙ったままでいると、仁田さんは「何で嘘ついたんだよ」と聞いてきた。
 「仁田さんが信用出来ないからです」
 即答する。
 「仁田さんは『誰にも言わない』って言ったけど、そういう人に限ってベラベラ喋ったりするんです。俺が『誰にも言いませんか』って聞いたならまだしも、仁田さんは突然そう言ったから怪しいです。まるで何も聞いてないのに、『俺はやってない』って言ってる容疑者みたいだ」
 俺の言い分に、仁田さんは少したじろいだ様子で聞いていたが、何を思ったのかしばらくして口を開いた。
 「じゃあ、もしオレが誰かに言いふらしたらどうする?」
 俺はまたイライラしてきて、フンと鼻で笑ってしまった。駄目だ。仁田さんは、何がしたいのか一向に分からない。俺と伊織さんの関係を聞いて、どうするつもりなんだろう。
 俺を伊織さんから離そうとしているのかな。そんなこと、させてたまるか。
 「誰かに言ったら、ぶっとばします。いくら仁田さんが年上でも、それとこれとは話が別です」
 そう言って、もし仁田さんが空手とかボクシングとかやってたらどうしようと、後になって思った。だけど、もう引けない。心の中で、俺は、秘密をばらされたら、本当に仁田さんをぶっとばしてやろうと決意した。
 足の震えが全身に伝わりませんようにと願いながら、口をぎゅっと閉じて仁田さんの鼻の辺りを見つめた。
 気分を紛らわせるために、パフェをもう一つ食べたいと思ったが、それはあまりにも図々しいので我慢した。
 またしばらく黙っていた仁田さんが、今度は笑い始めた。大丈夫かな、この人。
 「わかった。オレがもし喋ったら、煮るなり焼くなり好きにしていいから」
 笑いながら仁田さんはそう言った。
 「でも多分、仁田さんの想像通りの関係だと思いますよ。だから俺がわざわざ喋るような事じゃないし、なんなら伊織さん本人に聞いてみたらどうですか?」
 仁田さんが俺をこんなところに呼び出したということは、なにか確証があって、それを確かめようとしているのだ。この人は、俺と伊織さんの関係に気づいている。
 足の震えが止まらない。動揺を隠すために、俺は出まかせのように強い口調で話している。しまいには仁田さんがキレて、殴られるかもしれない。だけど、同じ殴られるなら言いたい事を言っておこうと思った。その方が、気持ちが楽だ。
 「あくまでもお前の口から言わないつもりなんだな」
 仁田さんが笑うのをやめてそう言った。
 「……はい。伊織さんに迷惑がかかるかもしれませんから」
 「この後でオレがお前を引きずって行って、言うまで殴るって言ってもか?」
 「そんなことしたら、警察呼びます。それに仁田さんにそんなことをする度胸があるとは思えません」
 喉がカラカラだ。もし仁田さんがヤクザや不良だったら、俺はこんな口を利けるはずがない。
 「気に入った!!」
 突然、仁田さんが叫んだ。
 「え?」
 「そのずる賢さ、気に入った。そんな面も無いと、年上の女とは付き合えないよな!」
 仁田さんの発言に、やっぱりバレていたのかと確信する。否定はしなかった。だって、事実だから。
 自分から言うのは嫌だけど、相手に気付かれていたのなら仕方ないと思った。
 「オレ、応援してやるよ。だけど、香坂さんを不幸にするような事があったら、オレがお前をぶっとばしてやるからな!」
 仁田さんの言葉を聞いて、彼も伊織さんが好きなんだということに気付いた。伊織さんが俺と付き合っている事を知ったとき、仁田さんはどんなことを思ったのだろう。
 人間的にも、経済的にも、俺なんかよりもきっと仁田さんの方がしっかりしている。二人がその気になれば、すぐに結婚なんてのも出来るだろう。
 伊織さんは、言っちゃ悪いけどもうすぐ三十路だ。俺のせいで、結婚をしたくとも出来ないのであれば、それはそれで伊織さんを苦しめていることになる。
 伊織さん、どうなんだよ。俺と付き合ってて、本当にそれでいいのかよ。
 今のところ伊織さんは何も言ってこないし、俺も何も聞かない。考えてみれば、俺がひとつでも伊織さんの役に立つ事なんてした覚えがない。だからといって、自分は伊織さんにふさわしくないんだと認める、潔さも無い。
 俺みたいな奴でも「彼氏」がいると分かってすんなりと身を引いた仁田さんのようには、なれない。俺はこの時初めて、伊織さんとの関係に関する将来への不安を抱いた。
 伊織さんが嫌なら、別れるしかない。だけど、俺から別れを切り出す勇気は無いし。
 互いに思い合っていれば、全てが上手くいくと思っていた。だけどその考えは、将来の事を見据えていなかっただけの、薄っぺらく浅はかなものだったのだ。

 喫茶店を出る時、すっかり落ち込んだ俺を見かねてか、仁田さんは持ち帰りでミルクティーを買って、俺に渡してくれた。
 「さっきの勢いはどこにいったんだよ」
 そう言って仁田さんは笑ったが、俺は一緒に笑うことも出来なかった。
 ———仁田さん、伊織さん、ごめんなさい。
 俺は、もしかしたら、二人の幸せを奪ってしまったかもしれません———
 考えれば考えるほど、卑屈になる。本当にさっきまでの勢いは、どこに行ってしまったのだろうかと、自分でも呆れた。
 仁田さんとは別れ際に、電話番号とラインを交換した。すごく良い人だなと、立ち去っていく彼の背中を呆然と見つめていた。仁田さんの存在が大きく見えた。自分の好きな人が、年下の学生と付き合っている事実を知っても、彼は取り乱すことなく、余裕をみせていた。あれが、大人になるということなのだろうか。
 帰り道。今日は伊織さんとメッセージのやりとりをする気分にはなれないなと思った。
 買う予定だった参考書は、伊織さんの影がちらつくあの書店では買わず、遠回りをして別の店で買った。
 俺って、ちっぽけだな。自嘲気味に笑うと、なぜか目の端から涙がこぼれて、薄暗い初更の中へと消えていった。

 夜、寝ようとしていた俺の元に一通のメールが届いた。
 「こんばんは、奏太くん。遅くにごめんなさい。おやすみ、を言っておきたかったの。
 誰よりあなたが大切です。
 おやすみなさい」
 伊織さんからだった。文面を見て、驚く。俺が不安になっていたのを、見られたのかと思ってしまうような内容だ。
 同時に、再び胸と鼻の奥が温かくなる。枕に顔を埋めて、泣きたいのをグッとこらえる。

 伊織さん、俺も貴方が好きだ。
 世界中のどこを探しても、貴方のような人はいない。

 そんな歯の浮くような台詞は、自分の胸の内に秘めておこうと思ったら、小さな笑いがこぼれた。泣いたり笑ったり忙しいなと自分で思いながら、やがて俺は眠りについたのだった。