2
目覚めたのは、外が明るくなったばかりの時だった。天気予報では、今日は確か雨のはずだ。相変わらず梅雨は鬱陶しい。雨が降らないと水不足になって大変なんだよと言われても、鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。
ふと思い立って、スマホを手に取る。通知は来ていなかったが、何となくアプリを開いてみる。
「あれ?」
俺は思わず声を出していた。俺がメッセージを送ったあとに、伊織さんからの返信が来ていて、さらには送った覚えのないスタンプを相手に送っている。
伊織さんがメッセージを送ってきたのは昨日の夕方。ちょうど、授業が終わって部活に行こうとしていた時だ。
画面を見直してみて、メッセージをよく読み返してみる。
「こんにちは、奏太くん。
今は休憩時間です。
今日は十二時から二十時までの勤務なので、出勤前に軽くサンドイッチを食べました。
奏太くんの一番の好物は何?」
文章を見て、やはり見覚えのないものだと気付く。ただ、俺がサバクに扱かれているはずの時間にスタンプを送った形跡もあるし、アプリの誤作動だろうかと思う反面、伊織さんからのメッセージに一晩中気付かないでいた自分に腹が立った。
———なんでなんだろう……。分からない。朝から気分が悪い。
サバク達からのメッセージだったら、きっとこんなにも不審に思わないだろう。だけど、相手は伊織さんだ。アプリのアドレス帳にも、「伊織さん」と、ちゃんと名前で登録されている。
もしこれを、誰かが見ていたとしたら……。そう思った時、昨日の部活の帰りの事を思い出した。
あの時、鞄のいつもとは違う場所に携帯電話が入っていた。
「誰かが見たんだ」
声に出して呟いた。それが事実だと、それしか考えられないと、自分に言い聞かせるために。
———じゃあ誰がそんなことを……。
当たり前のように次に浮かぶのは、そんな疑問。心当たりはあるし、そんなことをしそうな奴は一人しかいない。
須藤梓。あの女だ。
確か昨日、梓は部活の途中から姿を消した。あの時、部室に忍び込んで俺のスマホを見ることなど、造作もなかったはずだ。スマホの認証ロックは、単純に俺の誕生日にしているから、梓がそれを知っていて、あるいは知らなくとも、当てずっぽうに数字を打ち込めば画面は開いてしまう。
証拠はないから、梓だと決めつけることは出来ない。だから、むやみに攻められない。
俺は考えた。もう梓とはラインをやめようと。どのみち疑心を抱いてしまった相手とは、普通にメッセージのやり取りなんて出来るわけがない。
いい機会だ。今日、梓と話をしよう。
「伊織さんおはようございます
返信遅くなってすみません
昨日のジンダって人、何回か見たことあります
元気な人だなと思いました
あ、俺の好物は、ケーキです。誕生日に食べるような、莓のケーキ。
伊織さんに作れますか?」
俺はとりあえず、伊織さんにメールを送った。仁田さんは、伊織さんと同じ職場に勤めているだけの書店員だ。伊織さんと何か特別な関係ってわけじゃない。それは、昨日の事を冷静に思い出すと分かる。そうでなくとも、伊織さんは浮気をするような人じゃないと、信じたい。
俺が朝練に行く頃には、雨が降り出していた。
「気をつけていくのよ」と、何故か朝からリビングの隅にあるグランドピアノの拭き掃除をしていた母が、玄関まで見送りにくる。
「分かったよ、幼稚園児じゃないんだから」
苦笑して答え、俺は家を出た。
俺の家にグランドピアノがあるのは、母がどうしても欲しいと我が儘を言って購入したからだ。自分の家にグランドピアノを置くのが、母のささやかな夢だったらしい。ピアノは、ただの飾り物じゃない。今でも母は暇を見つけて弾いているし、そんな母の息子である俺も、多少は弾ける。
俺は小さい頃から、中学生の頃まで、母にピアノを習っていた。だから自分の部屋の本棚には、「こどものバイエル」なんていう楽譜教本が今でも並んであるし、ショパンやブルクミュラーや、モーツァルトなどの楽譜も置いてある。
「奏太」という名前は、音楽好きの母がつけたらしい。生まれてくる子供が男の子だったら「奏太」、女の子だったら「奏(かなで)」という名前にするつもりだったのよと、いつか母が言っていた。
今はバスケで忙しいから、以前のように演奏している暇はないけれど、鍵盤を前にすれば、旋律を奏でることはできる。
俺が最初に弾けるようになった曲は、何だったかな……。傘に当たる雨のリズムを聞きながら、考える。
ブルクミュラーの「アラベスク」だ。その次に「貴婦人の乗馬」を覚えて、「エリーゼのために」で苦戦して、だけど次の「紡ぎ歌」は結構簡単に弾けたっけ。
過去の自分を思い出して、ちょっと切なくなる。プロのピアニストになるなんて夢はないけれど、真面目に弾き続けていれば良かったなと思った。
今日家に帰ったら、久しぶりに弾いてみよう。きっと母も喜ぶはずだ。
俺はそう決めて、傘をくるくると回した。通りがかった自転車の人に飛び散った水滴がかかってしまったが、幸いなことに気付かれることはなかった。
梓に声をかけて「話がある」と持ちかけたのは、昼休みだった。
サバク達がまた学食に行くと言うから「先に行ってて」と促して、友達と教室を出ようとしていた梓を呼び止めたのだ。
「なに?」
もし、俺のスマホを勝手に見たのが梓だったとしたら、こいつは凄い度胸だ。いつもと何ら変わりない態度で、他の男子が見たら心を奪われるであろう笑みを顔に張り付けて尋ねてきた。
「部活が終わった後、梓に話したい事があるから、待ってて」
そう言った俺に、梓は「分かった」と笑って背を向けた。
———人間って怖いな。
梓の態度を見て、ほんの一瞬、スマホを触ったは別にいて、梓は全く関係ないのかもしれないと思った。
———甘いぞ、俺。
そう自分に言い聞かせる。人間なんて、いくらでも人を騙すし、騙される。全ての女は女優だ。
今日も部活が一時間延長されて、結局梓と話せるようになったのは、夜の七時すぎだった。
「はい、お待たせ」
長いこと待たせたのも悪いし、どうせ最後だからと思って、俺は学食の外に設置されている自販機で、梓の分のミルクティーを買った。
「ありがとう」
梓はそう言ってミルクティーを受け取ると、早速ブルタブを開けた。
「何? 話って」
「俺、お前とのラインやめる」
変な間が空かないうちに、そう言った。だけど俺が言い終わった後に、間が空いた。
「……そう」
かなりの沈黙の後、梓がやっと口を開いた。ミルクティーに接着剤が入っていて、口が開かなかったんじゃないのかと思うほどの長い時間だった。
「ごめん」
一応、謝った。俺は何も悪くないけれど、謝った。
「そう言うと思ってた。あたしの気を誤魔化そうとして、飲み物なんか買ってくれたんだ」
そうかもしれないなと思った。逆上されるのかと思いきや、梓の声は怖いくらいに落ち着いていた。
俺と目を合わそうともしない。二人のあいだに流れている空気が痛い。
「あたしはまだ、左海君の事好きだから。あきらめていないから」
「ごめん……俺はもう」
「いいのよ」
俺は、悲しそうな顔をする梓を初めて見た気がする。それが表面上の演技なのか、本当の心模様を表しているのかはわからなかったけれど、やっぱり可哀想だったかなと、少し後悔する。
スマホを見たのは、梓じゃなかったのではないかと、また思った。さっき同じことを思った時よりも強く。
「話って、それだけ?」
「うん」
「じゃああたし帰る。これでお互いに、思う存分好きなことが出来るでしょ?」
梓はフッと微笑んだ後、「ミルクティーありがと」と言い残して走り去っていった。
———これでお互いに思う存分好きなことが出来るでしょ。
梓が最後に言った言葉が引っ掛かる。実は梓には彼氏がいて、そして俺にも彼女がいることを察して、気兼ねなく付き合えると言っているのだろうか。
それともやっぱり梓はスマホを見て、伊織さんの存在を知ったのだろうか。
分からない。もう少し話を掘り下げていれば良かった。梓を呼び止めて、「どういう意味?」と聞くべきだった。だけど、ラインをやめると言えただけでいい気もした。
もうこれで梓とは、単なるバスケ部員と、マネージャーという関係だ。あきらめないと言われても、俺が梓を好きになることは無い。
帰り道、書店の前を通ったが、伊織さんとは会わなかった。毎日鉢合わせする方がおかしいかと、苦笑する。まだ開店中の店の明かりが眩しい。
今日はあの中に伊織さんもいるのだろうか。店の中に入ろうとは思わなかった。
早く家に帰りたい。お腹も空いたし、何よりピアノが弾きたい。帰ったらモーツァルトの楽譜を引っ張り出してきて、「トルコ行進曲」を弾こう。
久しぶりだから、絶対に失敗する。すると母がとんできて、「何やってんのよ」とクスクス笑う。
数十分先の事を想像して、笑みがこぼれる。
早く家に帰ろう。
俺の足取りは、自然と小走りになっていた。
目覚めたのは、外が明るくなったばかりの時だった。天気予報では、今日は確か雨のはずだ。相変わらず梅雨は鬱陶しい。雨が降らないと水不足になって大変なんだよと言われても、鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。
ふと思い立って、スマホを手に取る。通知は来ていなかったが、何となくアプリを開いてみる。
「あれ?」
俺は思わず声を出していた。俺がメッセージを送ったあとに、伊織さんからの返信が来ていて、さらには送った覚えのないスタンプを相手に送っている。
伊織さんがメッセージを送ってきたのは昨日の夕方。ちょうど、授業が終わって部活に行こうとしていた時だ。
画面を見直してみて、メッセージをよく読み返してみる。
「こんにちは、奏太くん。
今は休憩時間です。
今日は十二時から二十時までの勤務なので、出勤前に軽くサンドイッチを食べました。
奏太くんの一番の好物は何?」
文章を見て、やはり見覚えのないものだと気付く。ただ、俺がサバクに扱かれているはずの時間にスタンプを送った形跡もあるし、アプリの誤作動だろうかと思う反面、伊織さんからのメッセージに一晩中気付かないでいた自分に腹が立った。
———なんでなんだろう……。分からない。朝から気分が悪い。
サバク達からのメッセージだったら、きっとこんなにも不審に思わないだろう。だけど、相手は伊織さんだ。アプリのアドレス帳にも、「伊織さん」と、ちゃんと名前で登録されている。
もしこれを、誰かが見ていたとしたら……。そう思った時、昨日の部活の帰りの事を思い出した。
あの時、鞄のいつもとは違う場所に携帯電話が入っていた。
「誰かが見たんだ」
声に出して呟いた。それが事実だと、それしか考えられないと、自分に言い聞かせるために。
———じゃあ誰がそんなことを……。
当たり前のように次に浮かぶのは、そんな疑問。心当たりはあるし、そんなことをしそうな奴は一人しかいない。
須藤梓。あの女だ。
確か昨日、梓は部活の途中から姿を消した。あの時、部室に忍び込んで俺のスマホを見ることなど、造作もなかったはずだ。スマホの認証ロックは、単純に俺の誕生日にしているから、梓がそれを知っていて、あるいは知らなくとも、当てずっぽうに数字を打ち込めば画面は開いてしまう。
証拠はないから、梓だと決めつけることは出来ない。だから、むやみに攻められない。
俺は考えた。もう梓とはラインをやめようと。どのみち疑心を抱いてしまった相手とは、普通にメッセージのやり取りなんて出来るわけがない。
いい機会だ。今日、梓と話をしよう。
「伊織さんおはようございます
返信遅くなってすみません
昨日のジンダって人、何回か見たことあります
元気な人だなと思いました
あ、俺の好物は、ケーキです。誕生日に食べるような、莓のケーキ。
伊織さんに作れますか?」
俺はとりあえず、伊織さんにメールを送った。仁田さんは、伊織さんと同じ職場に勤めているだけの書店員だ。伊織さんと何か特別な関係ってわけじゃない。それは、昨日の事を冷静に思い出すと分かる。そうでなくとも、伊織さんは浮気をするような人じゃないと、信じたい。
俺が朝練に行く頃には、雨が降り出していた。
「気をつけていくのよ」と、何故か朝からリビングの隅にあるグランドピアノの拭き掃除をしていた母が、玄関まで見送りにくる。
「分かったよ、幼稚園児じゃないんだから」
苦笑して答え、俺は家を出た。
俺の家にグランドピアノがあるのは、母がどうしても欲しいと我が儘を言って購入したからだ。自分の家にグランドピアノを置くのが、母のささやかな夢だったらしい。ピアノは、ただの飾り物じゃない。今でも母は暇を見つけて弾いているし、そんな母の息子である俺も、多少は弾ける。
俺は小さい頃から、中学生の頃まで、母にピアノを習っていた。だから自分の部屋の本棚には、「こどものバイエル」なんていう楽譜教本が今でも並んであるし、ショパンやブルクミュラーや、モーツァルトなどの楽譜も置いてある。
「奏太」という名前は、音楽好きの母がつけたらしい。生まれてくる子供が男の子だったら「奏太」、女の子だったら「奏(かなで)」という名前にするつもりだったのよと、いつか母が言っていた。
今はバスケで忙しいから、以前のように演奏している暇はないけれど、鍵盤を前にすれば、旋律を奏でることはできる。
俺が最初に弾けるようになった曲は、何だったかな……。傘に当たる雨のリズムを聞きながら、考える。
ブルクミュラーの「アラベスク」だ。その次に「貴婦人の乗馬」を覚えて、「エリーゼのために」で苦戦して、だけど次の「紡ぎ歌」は結構簡単に弾けたっけ。
過去の自分を思い出して、ちょっと切なくなる。プロのピアニストになるなんて夢はないけれど、真面目に弾き続けていれば良かったなと思った。
今日家に帰ったら、久しぶりに弾いてみよう。きっと母も喜ぶはずだ。
俺はそう決めて、傘をくるくると回した。通りがかった自転車の人に飛び散った水滴がかかってしまったが、幸いなことに気付かれることはなかった。
梓に声をかけて「話がある」と持ちかけたのは、昼休みだった。
サバク達がまた学食に行くと言うから「先に行ってて」と促して、友達と教室を出ようとしていた梓を呼び止めたのだ。
「なに?」
もし、俺のスマホを勝手に見たのが梓だったとしたら、こいつは凄い度胸だ。いつもと何ら変わりない態度で、他の男子が見たら心を奪われるであろう笑みを顔に張り付けて尋ねてきた。
「部活が終わった後、梓に話したい事があるから、待ってて」
そう言った俺に、梓は「分かった」と笑って背を向けた。
———人間って怖いな。
梓の態度を見て、ほんの一瞬、スマホを触ったは別にいて、梓は全く関係ないのかもしれないと思った。
———甘いぞ、俺。
そう自分に言い聞かせる。人間なんて、いくらでも人を騙すし、騙される。全ての女は女優だ。
今日も部活が一時間延長されて、結局梓と話せるようになったのは、夜の七時すぎだった。
「はい、お待たせ」
長いこと待たせたのも悪いし、どうせ最後だからと思って、俺は学食の外に設置されている自販機で、梓の分のミルクティーを買った。
「ありがとう」
梓はそう言ってミルクティーを受け取ると、早速ブルタブを開けた。
「何? 話って」
「俺、お前とのラインやめる」
変な間が空かないうちに、そう言った。だけど俺が言い終わった後に、間が空いた。
「……そう」
かなりの沈黙の後、梓がやっと口を開いた。ミルクティーに接着剤が入っていて、口が開かなかったんじゃないのかと思うほどの長い時間だった。
「ごめん」
一応、謝った。俺は何も悪くないけれど、謝った。
「そう言うと思ってた。あたしの気を誤魔化そうとして、飲み物なんか買ってくれたんだ」
そうかもしれないなと思った。逆上されるのかと思いきや、梓の声は怖いくらいに落ち着いていた。
俺と目を合わそうともしない。二人のあいだに流れている空気が痛い。
「あたしはまだ、左海君の事好きだから。あきらめていないから」
「ごめん……俺はもう」
「いいのよ」
俺は、悲しそうな顔をする梓を初めて見た気がする。それが表面上の演技なのか、本当の心模様を表しているのかはわからなかったけれど、やっぱり可哀想だったかなと、少し後悔する。
スマホを見たのは、梓じゃなかったのではないかと、また思った。さっき同じことを思った時よりも強く。
「話って、それだけ?」
「うん」
「じゃああたし帰る。これでお互いに、思う存分好きなことが出来るでしょ?」
梓はフッと微笑んだ後、「ミルクティーありがと」と言い残して走り去っていった。
———これでお互いに思う存分好きなことが出来るでしょ。
梓が最後に言った言葉が引っ掛かる。実は梓には彼氏がいて、そして俺にも彼女がいることを察して、気兼ねなく付き合えると言っているのだろうか。
それともやっぱり梓はスマホを見て、伊織さんの存在を知ったのだろうか。
分からない。もう少し話を掘り下げていれば良かった。梓を呼び止めて、「どういう意味?」と聞くべきだった。だけど、ラインをやめると言えただけでいい気もした。
もうこれで梓とは、単なるバスケ部員と、マネージャーという関係だ。あきらめないと言われても、俺が梓を好きになることは無い。
帰り道、書店の前を通ったが、伊織さんとは会わなかった。毎日鉢合わせする方がおかしいかと、苦笑する。まだ開店中の店の明かりが眩しい。
今日はあの中に伊織さんもいるのだろうか。店の中に入ろうとは思わなかった。
早く家に帰りたい。お腹も空いたし、何よりピアノが弾きたい。帰ったらモーツァルトの楽譜を引っ張り出してきて、「トルコ行進曲」を弾こう。
久しぶりだから、絶対に失敗する。すると母がとんできて、「何やってんのよ」とクスクス笑う。
数十分先の事を想像して、笑みがこぼれる。
早く家に帰ろう。
俺の足取りは、自然と小走りになっていた。
