アンダンテ・アマービレ

 1
 登校したばかりの教室は、いつもと何ら変わらないのに、何故かよそよそしく感じたが、それはきっと、俺の思い込みだ。ここにいるみんなは、昨晩俺が歳上の女性と抱き合った事は知らない。知っていたら怖い。
 部活の朝練は休んだ。気分的にとても行く気にはなれなかったので、サボったのだ。ただ、後ろめたい気持ちもあった。夏のインターハイを控えたこの時期に部活をサボるなどとは言語道断だと、チームメイトから怒られるのは予想している。
 いつもより早い俺の登場に、ほんの一瞬クラスメイト達は驚いたような顔で俺を見たが、気にしないふりをして席についた。
 「左海、部活は?」
 鞄を机にかけた途端、背後からクラスメイトの刈屋の声がした。派手な格好が好きな彼は、制服のボタンを開け、少しでも格好良く見せようとしている。いつの間にこちらへやって来たのだろうなどと思いながら、俺は顔を上げた。
 「なんかダルくてさ、休んだ」
 俺が答えると、刈屋は「お前がサボりかよ!」などと大袈裟に驚いてみせた。
 「奏太君がサボったから明日は大雨だねえ」
 刈屋の後ろからひょっこりと顔を出したのは、大塚という、俺よりも小柄な少年だ。彼は呑気な性格で、しゃべり方もどこかのんびりとしている。
 どうやら俺は、他人からは真面目な人間だと思われているらしい。影では、「バスケ馬鹿」などと囁かれているのかもしれない。
 否定はしない。元々、与えられた物事をおろそかにするのは嫌いだ。
 普段の俺なら、部活の練習でも勉強でも、中途半端に投げ出さず、どうせやるなら最後までやり抜こうと心に決めている。でも、何故だろう。今日はそんな気も起きなかった。
 学校に足を運んだものの、いつものようにみんなと戯れて、真面目に授業や部活をやろうなどという気はわいてこなかったのだ。
 余韻だ。うつつの中の夢一夜の余韻が、俺の体に残っているのだ。こういう気分も、悪くないなと思った。
 俺の望み通り、少しだけ大人の世界に足を踏み込んだ気がした。ただそれは、今だからこそ抱ける高揚感であって、日が経つにつれ、そしてあの行為を重ねていくにつれ、こんな気持ちは忘れてしまうのかもしれない。
 だったら尚更、俺はこの余韻に浸りたい。学校なんて、普段と変わらない日常を送るなんて億劫だ。自分の好きな人と過ごす時間の方が、余程豊潤で美しい。そんなことを思う俺はもう、悲しいほどにあの人が好きなんだろう。
 「左海、なんか今日ボーッとしてるよな」
 「そうだね~」
 目の前で刈屋と大塚が俺の心配をしているのを、ろくに聞いていなかったというのに、教室の入口にサバクと梓の姿が見えた時には、とっさに反応してしまった。向こうも俺に気付いたようで、目が合った途端、一目散にこちらへやって来た。
 「おい奏太!お前朝練何で来なかったんだよ!!」
 案の定、周りにいる人達が会話をやめてこちらを見るほどの剣幕でサバクが怒鳴った。俺はサバクと梓の顔を交互に見た後、素直に「ごめん」と謝った。
 「ごめんっつったてなぁ、今がどれだけ大事な時期なのか、お前も分かってんだろ?俺達は、一秒も時間を無駄になんか出来ないって言ったの、どこの誰だよ!」
 感情的になるサバクを、大塚と梓が「まあまあ」と宥める。
 「サバクくん、落ち着いてよお! 今日の奏太君はなんか疲れてるみたいだからさ、許してあげなよ」
 「そうよ。あたしのラインも返さないから、左海君はとっっっても疲れてるのよ」
 俺の立場が危ういときに、ねちねちと攻撃をしてくるのが好きなのか、こんな時にまで呪いの言葉を会話に織り混ぜる梓に、苛立つ。いっそ「お前の顔が見たくないからだ」と、言ってやろうかとほんの一瞬だけ思った。
 「ごめん。午後の部活は、ちゃんと出るから」
 俺はサバクにそう言うしかなかった。まだ納得していない様子のサバクは、チッと舌打ちをすると、肩をいからせながら自分の席へと歩いていった。刈屋や大塚も、サバクを宥めるために後についていく。
 「左海君、本当は何かあったんでしょ? あたしにだけ教えてほしいな」
 後に残ったのは梓で、甘えたような声を出して俺にそう言ってきた。こんなときに女の勘というものははたらくのだろうか。
 「なんでもない。大したことじゃないから。気にしないで」
 「マジ?」
 「う、うん、マジだよ」
 「ふぅーん。へえー」
 梓が疑わしげな目をして探ってきたので、俺は「ほぉー」と言って誤魔化しておいた。
 「まぁ、あたしは別に左海君が何しようといいと思うけどさ、サバクの奴がうるさいから、なるべく練習サボらないでよね。見たところ、病気じゃなさそうだし、放課後は絶対出てよ」
 「はいはい」
 ぶっきらぼうに答えながら、俺は内心ドキッとした。梓は何気なく言ったのかもしれないが、彼女は「練習を休んだ」とは言わずに「サボった」と言った。彼女は何気なく言ったのかもしれないが、俺にはやましい気持ちがあるからか、その言葉がやけに引っ掛かってしまう。もしかすると梓は全てを知っているんじゃないか。そんな風に考えてしまった。

 一限目の体育は、柔道だった。投げ技の練習や乱取りでは、いつものようにサバクとペアを組んだが、必要以上に投げられた。俺は、彼はまだ怒っているんだと気まずくなって、「やりすぎだ」とは言えずに、受身をとってもじんじんと体に響く痛みを必死にこらえていた。
 おそらく今日の授業は、二クラスいる男子の中で、俺が一番畳に投げつけられただろう。
 先生が授業の終わりを告げた後も、汗まみれになった俺は畳から起き上がれずに大の字にはいつくばっていた。そんな俺の顔に、パサリとタオルが落とされる。サバクが持ってきてくれたのだ。
 「……ありがとう」
 俺は寝転がったまま、そのタオルで汗を拭いた。
 「ちょっとやりすぎた」
 ぶっきらぼうにサバクが言った。
 「うん、やりすぎ」
 「お前が悪いんだ」
 「うん」
 「今回は許すけど、次無断で休んだら、コレだからな」
 サバクは俺の鼻の寸前まで拳を振り下ろしてきた。
 「……わかった」
 「早く教室戻るぞ。次の授業遅れる」
 サバクは肩を貸してくれたが、恥ずかしくなった俺は「そんな大袈裟な」と苦笑して、それを拒んだ。道着から制服に着替え、教室に戻る間に、サバクの機嫌は直っていた。
 次の授業が始まるぎりぎりの時間に、教室に入る。ガヤガヤと騒がしい中を歩き、自分の席について、ふと鞄を見た時だった。
 俺は、ふいに伊織さんにメッセージを送りたくなった。確か今日は午後からの出勤だと言っていたから、それまでに送ればすぐに返事が来るかもしれない。
 そう思った時、チャイムが鳴った。次の授業は「古文」だから、ちょっとくらいスマホをいじっていてもバレないだろう。
 窓際の一番後ろという、恵まれた席に座っている俺は、すかさず先生の目を盗んで鞄からスマホを取り出し、机の中に隠した。教科書は、今日習う「徒然草」のページを開き、一昨日予習しておいたノートをその横にセットする。作品を教科書に提供してくれた吉田兼好さんには申し訳ないけれど、今日の俺は授業を聞くつもりなんてない。
 俺は今から、徒然なるままに伊織さんへのメッセージを打たせてもらうからだ。
 バイブも着信音も鳴らないようにしておいたから、いつ伊織さんから返信が来てもいい。
 教壇ではもうすでに、定年間近の先生の演説が始まっている。先生は五十分間ひたすら喋り続け、さらには黒板と教科書しか見ない人だから、今の俺にとっては都合が良かった。
 有頂天になった俺は、伊織さんへのメッセージをふざけて書いてみようと思った。
 すぐに頭に文章が浮かぶ。

 「伊織様 こんにちは
 朝飯。いと美し……けり?
 また、会いましょう。今は古文の授業中です」

 俺の乏しい古文の知識では、全てを文語体で表すのは難しかった。これでいいやと妥協し、含み笑いをしながら送信した。
 しばらくすると、すぐに伊織さんから返事が来た。こそこそと画面を開いて、アプリを開く。

 「こんにちは 奏太様
 メールありがとう。でも授業中にするのは良くないわよ
 朝食、たくさん食べてくれて、嬉しかったです。
 またいつでもいらっしゃいね。
 奏太くんの好きな料理を作ってあげたいと思います」

 「奏太様」と書かれていて、思わず笑いそうになった。だけど突然授業中に一人だけ笑ったら、周りから白い目で見られるし、流石に先生に咎められるだろう。
 俺は必死になって笑いをこらえ、画面を閉じた。すぐに返事をしたかったが、授業中にラインをすれば伊織さんに怒られてしまう。でも、注意をした本人が返信してきたんじゃ、説得力も無くなるよなと、苦笑した。

 昼休みは、サバクや大塚達を誘って、学食に行った。大盛りの定食を食べたら、「その食欲なら、心配なさそうだねえ」と大塚に笑われた。そう言った大塚も、俺と同じものを食べたが、サバクと刈屋はラーメンだけだったので、体の大きさと食事の量は反比例するのかななどとみんなで言い合った。
 「なあ、勇輝」
 刈屋が大塚を呼ぶ。
 「なあに?」
 「お前、須藤さん好きだろ?」
 「な、なんだよ、唐突に……」
 大塚が耳まで真っ赤になる。へえ、そうなのかと、俺はニヤニヤしながら大塚を見た。
 「須藤さんには奏太君がいるからだめだよ。ねー奏太君!」
 「馬鹿、みんな誤解するだろ! あいつとは付き合ってなんかないから」
 「ふうん。もったいない。せっかくあんな綺麗な人に好かれてるのにね。ちょっと派手だけど」
 「大塚、世界は広いんだ。あいつよりも綺麗な人はいる」
 俺はそう言って、ハッと口をつぐんだ。これじゃあ、自分で「誰かと付き合っています」と言ったようなものだ。
 「……と、俺は思うぞ」
 かなり不自然な間の後、俺は慌てて付け足した。
 「ふうん」
 一瞬、探るような目で見た大塚達が、納得したように頷いたので、俺はほっと胸を撫で下ろした。
 「それに、俺が須藤さんに好かれてるって、何で分かるんだよ!」
 「なんか奏太、ムキになってねぇか?」
 サバクが意地悪っぽく笑う。
 「怪しいね~。でも、見てたらわかるよ。須藤さんが奏太君と話してる時、なんか楽しそうだし。ラインもしてるんでしょ? いいなぁ」
 「じゃあ、お前らもすればいいじゃん」
 俺は冷たく言って立ち上がる。返却口に食器を返したあと、慌ててついてくるサバク達を無視して、さっさと食堂を出た。
 「てかさ、須藤さん」
 「……うっさいなぁ」
 刈屋の言葉を途中で遮って、俺は呟いた。
 「須藤さん須藤さん須藤さんって、お前らキモすぎ。そんなに好きならマジで告ればいいだろ」
 刈屋が驚いたように目を丸くしたので、自分でも不自然なほどムキになって言ってしまったと思い直したが、気にしないふりをした。
 教室に戻ると、まだ昼休みの真っ只中で騒がしい。俺は席につくと、サバク達の話を聞き流しながら、伊織さんにメッセージを送ることにした。
 誰にも画面を見られないように、授業中でもないのに机の影で画面を打つ。

 「お疲れ様です。
 今は仕事でしょうか
 俺は昼にとんかつを食べました。伊織さんは何を食べましたか?」

 夜には返事が来るだろう。俺はメッセージを打ち終わると、すぐにスマホをしまった。
 「最近、左海君、よくスマホ触ってるよね。あたしのライン無視して何してんの?」
 鞄のチャックを閉めた次の瞬間、俺の耳元で梓が囁いた。
 心臓が止まりそうになる。顔を上げると、ほくそ笑むような表情を浮かべた梓と、彼女を嬉々とした表情で見つめるサバク達が目に入って、少しうんざりした。
 「何でもいいだろ……」
 「ひっどぉい!」
 傷ついたふりをするのは、サバク達の同情をかうためだろうなと思って、俺は冷ややかな目で梓を見た。
 「須藤さんごめんね、奏太の奴機嫌悪くてさ」
 「空気読めって感じだよね~」
 単純なサバク達は、俺の思った通りに梓を慰めていた。そんな彼らに梓は「いいのよ~。左海君はあたしを困らせるのが好きみたいだしね」と言った。
 それは、こっちの台詞だ。
 「きっと照れ隠しなんだよ」
 刈屋が余計な事を言う。お前に何が分かるんだと睨み付けてみたが、本人には気付かれなかった。
 「奏太君はシャイだから、照れてラインを返す勇気も無いんだねぇ」
 うひゃひゃと小馬鹿にしたように笑う大塚。
 「そうなの? なら、そう言ってくれればいいのに。なんか嬉しいなぁ」
 梓はまんざらでもない笑みを浮かべた。
 結局どうでもよくなった俺は、梓に返信をしないのは照れ隠しだということにしておいた。これでもう、とやかく言われないと思うと、少しだけ気が楽になった。
 放課後になると、サバクに俺が逃げ出さないようにと見張られながら部活に向かったので、伊織さんからのメールが来ていないかチェックする暇はなかった。さらには、サボったペナルティーとして、夜の八時まで居残り練習をさせられるらしい。
 全部、サバクに決められた。練習にも付き合ってくれるというから、つい俺は関心してしまった。
 「次期キャプテンはサバクだな」と言ったのは、まんざら冗談でもなかった。

 居残り練習を終えて俺が学校を出た時には、すでに八時半を過ぎていた。試合前だからと、居残りの許可をもらったのに、「いつまでやってるんだ」と見回りに来た先生に呆れられた。
 本当は制服に着替えて下校する決まりなのだけれど、着替えるのが面倒くさかったため、俺とサバクはジャージのまま下校することにした。
 他の部員達は、とっくに帰った。梓などは、マネージャーだというのに夕方の練習の途中からいなくなっていた。
 きっと女友達と共に、帰ってしまったのだろう。
 「さすがにきついな」
 弱々しい笑みを浮かべながら、サバクが言った。
 「うん。練習付き合ってくれてありがとう」
 「お前ってさ、そういう恥ずかしい台詞、サラッと言うよな」
 「……そうかな」
 「自分では気付いてないんだな。お前面白いな」
 そう言って静かに笑うサバクの肩を、意味もなく小突く。
 「やることがガキだな」
 今度は大きな声で笑われた。街灯の明かりだけを頼りに歩いていく住宅街を抜けると、大通りに出る。
 大通りの歩道を歩くと、伊織さんの書店がある。やけに広い駐車場には、一台も車が無かった。もう閉店したんだなと思って、スマホで時間を確かめようと鞄を開けた。
 「あれ?」
 「どうした?」
 突然発した俺の声に、サバクがすかさず反応する。
 「いや、何でもない」
 いつもスマホを入れている場所に手を突っ込んでみたら、手が空を掴んだのだ。おかしいな。無意識のうちに違う場所に入れたのかな。
 そう思って逆のポケットを探ると、そこにスマホはあった。
 時間を確かめる。もうすぐ九時になろうとしていた。
 「いいじゃないっすかぁ! 帰り道一緒なんだから、一緒に帰りましょうよ!」
 スマホを鞄にしまった時、書店の駐車場の方から大きな声が聞こえた。
 それだけなら俺も知らぬふりをして通りすぎるのだけれど、その後に聞こえてきた声に反応してしまった。
 「悪いけど、私は一人で帰りたいの」
 伊織さんの声だった。
 「ハハッ、あの男、フラれてやんの」
 横でサバクが鼻で笑う。
 「あ」
 伊織さんがこちらに気付いたらしく、俺の顔を見るなりそんな呟きを漏らした。
 「こんばんは」
 近付いてくる伊織さんに向かって、俺は挨拶をした。
 「お前の知り合いの書店員のおばさんじゃん」
 サバクが小声で囁いてきた。
 「おばさんじゃない」
 俺はサバクの頭をはたいた。
 「奏太くん、今帰り?」
 「香坂さん、誰っすか、こいつ」
 俺が答えるより先に、伊織さんの横にいた茶髪の男の人が、俺を指差して伊織さんに聞いた。
 「仁くん、常連のお客様の顔くらい覚えてなさい」
 「ははっ、香坂さんジョーダンきついっすよ。一日にどんだけ客が来ると思ってるんすか?こんな高校生ならうじゃうじゃ来るから、いちいち覚えてられないっす」
 「仁くん」と呼ばれたその人は、賑やかにそう言った。伊織さんと並んでいると、けっこう似合っている。
 そう思ったとき、ずきりと胸が疼くのを感じた。
 「奏太くん、この人はアルバイトの仁田くん」
 言われなくても分かっているけれど。仁田さんと並んでいるほうが、カップルに見える気がする。俺より背が高いし、何より不自然じゃない、年相応のカップルに見える。だけどちょっと暑苦しい気もする……なんて仁田さんの粗探しをする俺は、彼に妬いているのだ。
 自分よりも伊織さんに相応しいと思う一方で、仁田さんのことを嫉み、俺の方が伊織さんを大切にしてやれるなどと考えてしまう。
 「学校の帰りなので。伊織さん、さようなら」
 だから、俺はわざとそっけない素振りを見せて、その場を立ち去った。
 仁田さんが何か言っていたのが聞こえたけど、何も聞こえないふりをした。
 「お前、なんかあの人の事が好きみたいな態度してるよな」
 「……ま、まさか」
 そうなんだ。俺は伊織さんが好きだ。だから、仁田さんに嫉妬したんだ。それなのにまだ俺は、胸を張って好きだと言えない。
 無二の親友にさえ、口をつぐんでしまう。俺はそれから何も話さずに、サバクと別れた。

 一人になった時、ホッとした。妬みが渦巻く心を、落ち着かせるには、一人になるしかなかった。
 「お帰りなさい、遅かったのね」
 玄関を開けるなり、母が声をかけてくる。俺は部活が長引いて……と、適当に返事をして、足早に自室へと引っ込んだ。
 電灯はつけずに、暗闇の中で、ベッドに倒れ込む。疲れきった体が、布団の包容を求めていたようで、ほんの一瞬、そこに吸い込まれそうな感覚がした。
 静かだ。
 耳をすませば、階下の音が微かに聞こえてくる。
 食器の触れ合う音。リビングから漏れてくるくぐもったテレビの音声。一日ぶりに帰ってきた我が家は、やはり住み慣れているおかげで、いつもより余計に気分を落ち着かせることができた。
 やがて、カレーの匂いが漂ってきて、俺はハッと飛び起きた。晩御飯をまだ食べていなかった。そう思った途端に、嫉妬心や疲れよりも空腹感がドッと押し寄せてきて、俺は慌てて一階に降りた。
 リビングは、香辛料の香りで充満していた。
 「はいどうぞ」
 俺がダイニングテ―ブルの前に腰を下ろすと、すぐに母がカレーを持ってきてくれた。大皿いっぱいに盛られたそれは湯気を立て、俺の食欲をそそる。
 分かってるな、母さん。さすがだ。食べ盛りの息子が、どれだけ食べるのか、ちゃんと分かってくれている。
 そんな些細な事だけど、嬉しくなる。きっとこれは伊織さんには真似出来ないんだろうなと思うと、ちょっと可笑しくなった。
 食事の後は、風呂に入って部屋に戻り、数学の宿題をした。眠いのをこらえてちょっとだけ明日の予習もした。予習を怠れば、自分の能力ではきっと授業についていけなくなる。
 頭が悪いと揶揄されるのは、それが事実だったとしても、いや、事実だったとしたら余計に嫌だった。
 日付が変わった頃、予習内容に満足した俺は、真っ先に布団へ飛び込んだ。
 今日は結局、伊織さんからの返信は来なかったな。そんなことを考えながら、枕に顔を埋めているうちに、やがて俺は眠りについたのだった。