3
何かが唇に触れたような感覚がして、俺は目が覚めた。
「おはよう」
声が、意識の彼方から聞こえてくる。目を開けると、誰かが俺を見ているような気がして、しばらくの間、その誰かを見つめていた。
「まだ早い時間だけど、奏太くん学校あるでしょう?制服洗って乾かしてあげるから、シャワーでも浴びてきたら?」
「お、おはようございます」
今しがた声を発したのが伊織さんだと気付き、俺は慌てて挨拶をした。
「朝ご飯作るわね」
「は、はい。シャワー浴びます」
そう言った後、意識がはっきりしてきていて、俺は自分を見た。伊織さんはもう服を着ているというのに、俺はまだズボンしか履いていない。
そう思った時、伊織さんがそっと口を開いた。
「下着も洗った方がいいんじゃない?」
顔が火照るのを感じた。身ぐるみをはがされるなどと変なことを考えた俺は、慌てて布団を体に巻き付けて叫んだ。
「い、い、いいです!全然平気ですから!」
制服ならともかく、今まで自分が履いていた下着を洗われるのは、恥ずかしすぎる。
伊織さんはまだ、身内じゃない。体を重ね合わせたとはいえ、まだ他人同士なのだ。だから、そんなことは絶対にされたくなかった。
クスクスと笑う伊織さんを見て、俺は身体中が熱くなった。
俺はまだ子供だからからかわれているんだ。そんな気がした。
「和食と洋食、どっちがいい?」
「……和食」
朝食の事を聞かれているのだと、しばらくしてから分かった。目を擦りながら俺はそう言って、とぼとぼとバスルームへと向かった。
まだ頭がぼんやりとしている。寝覚めが悪いのはさることながら、それよりも一晩、俺は好きな人の隣で眠り、体を重ね合わせたという事実が受け入れがたかった。夢の中にいるようで、だけどここは現実で、伊織さんの家なのだ。
脱衣場で服を脱ぎ、バスルームの中に入る。朝にシャワーを浴びるのは、いつ以来だろう。
初めて出場した試合があった日、疲れきったせいで家に帰るなりすぐに寝てしまって、目覚めたら朝になっていた中学二年の時以来だろうか。
俺はそんなことを考えながら、そっとシャワーの蛇口をひねった。シャワーから流れ落ちる温かなお湯が、俺の体を這うように落ちていく。
俺は昨日、伊織さんと体を重ね合わせた。俺は、俺の体は、伊織さんと共にシーツの上を泳ぐ魚になったのだ。二人で同じベッドに横になっているという事実を実感していくにつれて、羞恥などはかなぐり捨てたはずだ。それなのに、朝になってみれば、伊織さんに体を見られるのが恥ずかしいと思っていた。
裸になるというのは、海やプールや、部活の後などでしているような格好と変わらないのに、この家で服を脱げば、恥ずかしさを感じるのは何故だろう。
俺がそこまで伊織さんを意識しているという証拠なのだろうか。
うん、きっとそうだ。自分の心や体など、まだまだ未熟だ。内面的にも、表面的にもだ。
俺は背も低いし、体重も軽いから、もし伊織さんが大柄の男に襲われた時、対応に困るかもしれない。格闘技をやっているわけじゃないし、秀でて身体能力が凄いというわけでもない。でも伊織さんが危ない目にあったら、俺は死んでも彼女を守るつもりだ。彼女が襲われているのに、俺まで逃げ腰になるような無様な真似をするつもりは毛頭無い。だけど全力で闘って、それでも勝てなかったら。いくら俺が未熟で弱い男だとはいっても、そんなのじゃ伊織さんにあわせる顔がない。
だから、強くなろう。今はまだ未熟だけど、伊織さんを守ると胸を張って言えるような男になろう。
俺はそう心に決めて、シャワーを止めた。
風呂から上がると、着替えの服は伊織さんに預けたままだということに気付いた。用意されていたバスタオルで体を拭き、そこで俺が着ていた服は全て伊織さんに回収されて、洗濯機の中で回っていることに気づく。あれほど拒んだのにとまた顔が赤くなる。仕方なくタオルを腰に巻いて、俺は脱衣場を出た。
伊織さんが台所に立っている間、俺は居間のテーブルの前に座っていた。改めて見ると、綺麗なインテリアの部屋だと思う。他の人の家の中をまじまじと見たことはないけれど、ここがドラマに出てきそうな雰囲気であることは間違いない。
高級なマンションだということは、この建物の外観や設備から察することができるが、書店員の給料で住めるような場所なのかなと、妙に現実的な事を考えたりした。
リビングに戻ると卵焼きの匂いが鼻をくすぐった。腹の虫が鳴いた。何ということはない、平凡な朝の光景だ。昼と夜の人間の理性は、それぞれ二面性でもあるのだろうか。
「お待たせ」
しばらくして、俺の前にはご飯に味噌汁、卵焼きに納豆と、大好きなメニューばかりが並んだ。
「いただきます」
手を合わせるなり、ご飯を思いっきりかき込んだ俺に、伊織さんは「奏太くんはホントに食べることが好きなのね」と笑って言った。
「俺、食べ盛りなんだから、しょうがないよ」
「羨ましいわ。食べても太らないなんて」
「スポーツしてるからだよ」
「私も何かやろうかしら」
「あ、じゃあバスケやりますか?」
俺の誘いを、伊織さんは笑って誤魔化した。俺も本気で誘ったわけじゃないからいいけれど。
「バスケって、奏太くんはどこのポジション?」
「あ、俺、チビだからポイントガードとして頑張ってます。パス回しには自信ありますよ」
へへっと笑って俺は言った。背の高いサバクと、俺はバスケ部の中では名コンビだと言われている。シューターが放ったシュートが外れると、サバクがリバウンドを取って俺にパスをする。俺は回ってきたボールをすかさずシューターに渡す。密集の中でのプレーは、得意だった。
「よく分からないけど、きっと奏太くんかっこいいんでしょうね」
「そんなこと、ない……」
おだてられて、顔が熱くなる。伊織さんとの語らいが楽しいと思った。
「じゃあ俺、学校行ってきます」
そう言って伊織さんの部屋を出る時、無性に寂しくなった。次はいつ会えるのだろう。
また、この部屋に来たいな。そう思った。懇願しなくとも、また会える。もう二人はそんな関係になったのだと思い直して、寂しさを振り払う。
昨日の雨は、やんでいた。梅雨の合間の晴れだ。
それでも空気は湿っぽく、すっきりとはしない。
マンションの出入口を出た後、俺はそっと伊織さんの部屋の辺りを見上げた。姿は見えないけど、窓のそばに立って見送ってくれているかもしれない。
また会える。近いうちに、笑ってまた会える。そう思うと、 不思議と幸せな気分になれた。
俺はほころびそうな表情をギュッとおさえながら、軽快な足取りで学校へと歩いていった。
何かが唇に触れたような感覚がして、俺は目が覚めた。
「おはよう」
声が、意識の彼方から聞こえてくる。目を開けると、誰かが俺を見ているような気がして、しばらくの間、その誰かを見つめていた。
「まだ早い時間だけど、奏太くん学校あるでしょう?制服洗って乾かしてあげるから、シャワーでも浴びてきたら?」
「お、おはようございます」
今しがた声を発したのが伊織さんだと気付き、俺は慌てて挨拶をした。
「朝ご飯作るわね」
「は、はい。シャワー浴びます」
そう言った後、意識がはっきりしてきていて、俺は自分を見た。伊織さんはもう服を着ているというのに、俺はまだズボンしか履いていない。
そう思った時、伊織さんがそっと口を開いた。
「下着も洗った方がいいんじゃない?」
顔が火照るのを感じた。身ぐるみをはがされるなどと変なことを考えた俺は、慌てて布団を体に巻き付けて叫んだ。
「い、い、いいです!全然平気ですから!」
制服ならともかく、今まで自分が履いていた下着を洗われるのは、恥ずかしすぎる。
伊織さんはまだ、身内じゃない。体を重ね合わせたとはいえ、まだ他人同士なのだ。だから、そんなことは絶対にされたくなかった。
クスクスと笑う伊織さんを見て、俺は身体中が熱くなった。
俺はまだ子供だからからかわれているんだ。そんな気がした。
「和食と洋食、どっちがいい?」
「……和食」
朝食の事を聞かれているのだと、しばらくしてから分かった。目を擦りながら俺はそう言って、とぼとぼとバスルームへと向かった。
まだ頭がぼんやりとしている。寝覚めが悪いのはさることながら、それよりも一晩、俺は好きな人の隣で眠り、体を重ね合わせたという事実が受け入れがたかった。夢の中にいるようで、だけどここは現実で、伊織さんの家なのだ。
脱衣場で服を脱ぎ、バスルームの中に入る。朝にシャワーを浴びるのは、いつ以来だろう。
初めて出場した試合があった日、疲れきったせいで家に帰るなりすぐに寝てしまって、目覚めたら朝になっていた中学二年の時以来だろうか。
俺はそんなことを考えながら、そっとシャワーの蛇口をひねった。シャワーから流れ落ちる温かなお湯が、俺の体を這うように落ちていく。
俺は昨日、伊織さんと体を重ね合わせた。俺は、俺の体は、伊織さんと共にシーツの上を泳ぐ魚になったのだ。二人で同じベッドに横になっているという事実を実感していくにつれて、羞恥などはかなぐり捨てたはずだ。それなのに、朝になってみれば、伊織さんに体を見られるのが恥ずかしいと思っていた。
裸になるというのは、海やプールや、部活の後などでしているような格好と変わらないのに、この家で服を脱げば、恥ずかしさを感じるのは何故だろう。
俺がそこまで伊織さんを意識しているという証拠なのだろうか。
うん、きっとそうだ。自分の心や体など、まだまだ未熟だ。内面的にも、表面的にもだ。
俺は背も低いし、体重も軽いから、もし伊織さんが大柄の男に襲われた時、対応に困るかもしれない。格闘技をやっているわけじゃないし、秀でて身体能力が凄いというわけでもない。でも伊織さんが危ない目にあったら、俺は死んでも彼女を守るつもりだ。彼女が襲われているのに、俺まで逃げ腰になるような無様な真似をするつもりは毛頭無い。だけど全力で闘って、それでも勝てなかったら。いくら俺が未熟で弱い男だとはいっても、そんなのじゃ伊織さんにあわせる顔がない。
だから、強くなろう。今はまだ未熟だけど、伊織さんを守ると胸を張って言えるような男になろう。
俺はそう心に決めて、シャワーを止めた。
風呂から上がると、着替えの服は伊織さんに預けたままだということに気付いた。用意されていたバスタオルで体を拭き、そこで俺が着ていた服は全て伊織さんに回収されて、洗濯機の中で回っていることに気づく。あれほど拒んだのにとまた顔が赤くなる。仕方なくタオルを腰に巻いて、俺は脱衣場を出た。
伊織さんが台所に立っている間、俺は居間のテーブルの前に座っていた。改めて見ると、綺麗なインテリアの部屋だと思う。他の人の家の中をまじまじと見たことはないけれど、ここがドラマに出てきそうな雰囲気であることは間違いない。
高級なマンションだということは、この建物の外観や設備から察することができるが、書店員の給料で住めるような場所なのかなと、妙に現実的な事を考えたりした。
リビングに戻ると卵焼きの匂いが鼻をくすぐった。腹の虫が鳴いた。何ということはない、平凡な朝の光景だ。昼と夜の人間の理性は、それぞれ二面性でもあるのだろうか。
「お待たせ」
しばらくして、俺の前にはご飯に味噌汁、卵焼きに納豆と、大好きなメニューばかりが並んだ。
「いただきます」
手を合わせるなり、ご飯を思いっきりかき込んだ俺に、伊織さんは「奏太くんはホントに食べることが好きなのね」と笑って言った。
「俺、食べ盛りなんだから、しょうがないよ」
「羨ましいわ。食べても太らないなんて」
「スポーツしてるからだよ」
「私も何かやろうかしら」
「あ、じゃあバスケやりますか?」
俺の誘いを、伊織さんは笑って誤魔化した。俺も本気で誘ったわけじゃないからいいけれど。
「バスケって、奏太くんはどこのポジション?」
「あ、俺、チビだからポイントガードとして頑張ってます。パス回しには自信ありますよ」
へへっと笑って俺は言った。背の高いサバクと、俺はバスケ部の中では名コンビだと言われている。シューターが放ったシュートが外れると、サバクがリバウンドを取って俺にパスをする。俺は回ってきたボールをすかさずシューターに渡す。密集の中でのプレーは、得意だった。
「よく分からないけど、きっと奏太くんかっこいいんでしょうね」
「そんなこと、ない……」
おだてられて、顔が熱くなる。伊織さんとの語らいが楽しいと思った。
「じゃあ俺、学校行ってきます」
そう言って伊織さんの部屋を出る時、無性に寂しくなった。次はいつ会えるのだろう。
また、この部屋に来たいな。そう思った。懇願しなくとも、また会える。もう二人はそんな関係になったのだと思い直して、寂しさを振り払う。
昨日の雨は、やんでいた。梅雨の合間の晴れだ。
それでも空気は湿っぽく、すっきりとはしない。
マンションの出入口を出た後、俺はそっと伊織さんの部屋の辺りを見上げた。姿は見えないけど、窓のそばに立って見送ってくれているかもしれない。
また会える。近いうちに、笑ってまた会える。そう思うと、 不思議と幸せな気分になれた。
俺はほころびそうな表情をギュッとおさえながら、軽快な足取りで学校へと歩いていった。
