2
伊織さんと俺の出会いは、ごく些細な事がきっかけだった。俺が学校帰りに立ち寄った書店で、店員に本の注文をしたら、その店員が伊織さんだったのだ。
「あの、『ブザービートの最果て』っていうマンガ、ありますか?」
おずおずと聞いた俺を、伊織さんはにこやかな表情で対応してくれた。綺麗な人だな、と思った。二十代前半ぐらいかな。こんな綺麗な人が彼女だったらいいのにな、と思いながら待っていると、しばらくして伊織さんがお目当てのマンガを持ってきてくれた。
「お客様、お待たせ致しました」
そう言って本を差し出した伊織さんに、俺はなぜか笑顔になって「ありがとうございます」と言っていた。
一目惚れだった。俺は、伊織さんの姿を見るために、欲しい本は全てその書店で買うことにした。だが、そんなことを続けていても、あの時の二人は、まだ男子高校生の客と、香坂さんという名の店員にすぎなかった。
俺が想いを伝えないと、伊織さんには何も分かってもらえない。そんな事は、気付いていた。
初めて伊織さんと会った時からの気持ちは、上っ面だけの興味じゃないと分かった時、偶然学校帰りに伊織さんと鉢合わせした。
「あ」
思わず声を出した俺を、一緒に帰っていた二人の友人が見る。向こうから歩いてきた伊織さんも、俺に気付いて「こんにちは」と言ってきてくれた。
「こ、こんにちは」
友人達が、何メートルか先の電信柱の側で待ってくれているのを確認しながら、俺は挨拶を返した。
「学校の帰り?」
「はい」
接客用語を使わない伊織さんが新鮮だった。
「そうそう。この間注文してくれた本、今日入荷してたわよ。後で店から電話あると思うけど」
「あ、ありがとうございます」
この時の俺は、伊織さんの書店のかなりの常連客となっていて、伊織さんとは少しだけ世間話をする関係になっていた。気持ち悪い奴だとか思われていないかが心配で、その反面、なにも気にしていないというふりを装うのは結構大変だった。
「あの、また、本について色々聞かせてください」
俺がそう言った後、前方から「もう行くぞー」という声がした。友人達が痺れを切らして、先に帰ろうとしているのだ。
「あ、待てよ」
今良いところなのに、話の途中なのにと慌てていると、伊織さんがいきなり口を開いた。
「ちょっと待って」
そして、伊織さんは自分のハンドバッグから紙とペンを取り出して何かをサラサラ書くと、「後でなら話を聞いてあげられるから」と言って俺にその紙を渡してきた。
そこに書かれていたのは、メールアドレスだった。驚いて紙と伊織さんの顔を交互に見つめる俺に微笑みかけると、伊織さんは立ち去っていった。
呆然とする間もなく、友人に急かされ、俺はその場を後にしたのだけれど、心臓は激しく波打っていた。
「今の人、誰?」
俺が二人に追い付くと、宮田洋平という名の、二人のうち背の低い方の友人が聞いてきた。
それでも俺よりは、大きい。もう一人の佐原真琴も、興味深いなと言いたげな眼差しを向けてくる。ちなみに真琴は、名字のせいか「サバク」というあだ名で呼ばれている。
将来の夢は裁判官だと言っていたから、その意味でもピッタリなあだ名だ。
「本屋の店員」
一目惚れをしたことを知られたくなくて、俺はわざとぶっきらぼうな口調で答えた。伊織さんからもらった紙は、二人に見つからないように、こっそりポケットに入れた。
「へえ。お前、本屋の店員さんと面識なんかあったんだ!」
サバクが驚いたように言った。
「でもさ、いくら面識があるって言っても、相手は店員で、しかも歳上だろ? 親戚とか友達の姉ちゃんってわけでもなさそうだし。なんか、不思議な関係だよな」
この時の洋平の言葉に、俺は平静を装って「そうか?」と返すのに必死だった。俺の演技が上手かったからか、伊織さんと恋仲になった今でも、まだその関係は気付かれていない。
それどころか、恋愛の話なんて、話題にも上がらないから、俺は少し安心している。男たちのあいだでする話といえば、部活の話題や、最近ハマっているマンガの感想、進路のことくらいで、あとは無駄話ばかりしているだけなのだ。
ただ、伊織さんと歩いているところを知り合いに見られたわけじゃないから、今は大丈夫だけど、それでも気が気じゃない。
今はまだ、伊織さんとの関係が周りにバレていないから、話題に挙がらないだけで、俺たちの仲が周知されれば、当然冷やかされるし、興味深けに聞いてくるやつもいるだろう。
サバクや洋平と別れて家に帰った俺は、勉強机の上にぽつんとスマホを置いて、それに向かい合うように座っていた。
「左海奏太です。今日はありがとうございました」と文章を打ったはいいものの、送信をタップできずにいたのだ。今どき、メールでのやり取りなんて殆どしないから、何だか自分の知らない昔の人になったような気分になる。
本当に送っていいのだろうかと、不安になっていた。メールアドレスを教えてくれたのだから、メールをしてもいいんだという結論に達したのは結局翌日で、文章も「昨日はありがとうございました」に変更した。
伊織さんは、メールでのやり取りも上手な人だった。
梓と違って、送ったらすぐに返事が来たというような煩わしいこともなく、真夜中に着信音で目が覚めるなんてこともなかった。
それでも俺は、伊織さんなら、梓のようなしつこいメールを送ってきても許せると思っていた。むしろ、頻繁にやり取りがしたかった。
俺は学校や部活があるし、伊織さんは仕事がある。自分の立ち位置に縛られたあの時の俺達には、メールしか、交流の場はなかったのだ。
伊織さんとのメールなら、一晩中でもしていたい気持ちにかられた時、これが恋するということなんだろうか、と思った。伊織さんとのメールのやり取りは、梓とのラインをますます鬱陶しいと思わせていき、また、学校での梓との関係も、今ほどではないが陰りが見え始めていた。
伊織さんと初めてプライベートで会ったのは、メールを始めて一ヶ月後だった。その頃になると、俺たちは書店の片隅でこっそりラインを交換して、メールは卒業していた。
「ちょっと遠いけど美味しいパスタの店があるの。奏太くん、パスタ好き?」
そんなメッセージが来て、「大好きです!!」と返したら、「じゃあ行きましょう」と言われたのだ。
店が遠いことは、俺にしてみれば逆に好都合だった。
「お金は私が出すわ」と言った伊織さんに、最初は引け目を感じたものの、「あなたは学生だから」と言われて、なぜか妙に納得した。
そんなこんなで、約束の当日は、普段の俺では絶対にしないようなお洒落をし(「女か」と、自分に突っ込みたい)、待ち合わせ場所にした本屋の駐車場で待っていた伊織さんの車に乗って、目的地へと行ったのだった。
伊織さんが「美味しいパスタの店」と言うから、高級なレストランかと思っていたら、着いたのは洒落た食べ放題の店だった。そのせいか、初めてのデート(今だからそう言える)で、俺はひたすら食べ物を食べていたと思う。
勿論話もしたが、何を話したのか覚えていない。
「よく食べるわね」と伊織さんに笑われて、恥ずかしくなった俺は、気が動転して、とんでもないことを口走っていた。
その場面だけは、今でも覚えている。
「好きですから」
そう言った俺の顔を、伊織さんはぽかんとした表情で見た。
それに気付かずに、俺は生春巻きをかじっていた。
「何言ってるの?左海くん」
「え?」
「冗談はよしなさい」
伊織さんの顔が赤くなっているのを見て、俺はどうしたんだろうと思っていた。
「え、マジですけど。生春巻きって美味しいですね」
「左海くん、私はね、私は……」
伊織さんは、口ごもって俯いたあと、急に立ち上がってどこかに行ってしまった。そして、その後すぐに戻ってきた彼女の手にはジュースの入ったグラスが握られていた。
席についた伊織さんは、それを一口飲むと、再び口を開いた。
「左海くん、私も勿論好きよ。でもね、あなたは未成年でしょ?」
生春巻きは、未成年が食べちゃいけないものなのかなと思った俺は、きょとんとした顔で伊織さんを見つめた。
「ごめんなさい。でも、好きなんです……この事、二人だけの秘密にしちゃ駄目ですか?」
俺は言いながら生春巻きにはお酒が入っているのかなと考えた。それなら、バイキングのコーナーにことわりの文言でも書いてくれればいいのに。おかげで恥ずかしい想いをしたじゃないか。
伊織さんは黙っている。すごく困ったような顔をしている。しばらくの沈黙の後、伊織さんが口を開いたのは、それから五分ほど後の事だった。
「左海……奏太くんがそう言うなら」
伊織さんがなぜ、俺を名前で呼び直したのか分からなかった。
「こんなオバサンでよければ、よろしくお願いいたします」
「は?」
そこで俺は気づいた。何を言ってるんだ。話が噛み合ってないぞ。慌てて伊織さんの顔を見た。
「え?」
伊織さんもまた、俺を見る。俺は、どうして伊織さんがそう言ったのだろうかと、話の始まりを辿ってみた。そして、気付いた。俺はとんでもないことを口走ったのだと。
青ざめる。全身に電流でも走ったかのような衝撃を受けて、食べたものが全部逆流しそうになった。
「好きですけど」の前に、「生春巻きは」と付け加えるべきだった。だけど伊織さんが捉えた「好きです」の意味も、俺の正直な気持ちだった。
そして伊織さんは俺の気持ちを汲み取ってくれた。知らず知らずのうちに、俺は告白をして、それが受け入れられていたのだ。
無自覚だったとはいえ、俺は伊織さんに告白した。その事実が信じられなかった。
いや、告白した事より、それを伊織さんが受け入れた事の方がよほど信じられない。だけど、嬉しかった。
世間には、白い目で見られるかもしれない。俺たちのあいだには、未成年と成人という隔たりがある。互いが同意の上での交際であっても、二人の関係は世間的に見れば、非常識なものなのだ。
俺自身にも、伊織さんと交際することに対して、後ろめたいような不安がある。だけど、それよりも伊織さんに惹かれる気持ちの方が強かった。二人だけの秘密の恋というのも、なんだか神秘的でゾクッとした。
俺は人生初めてのデートで、伊織さんという女性を手に入れた。
その後も伊織さんとは何度か一緒にデートをした。その度にビクビクするのは、普通の恋では味わえない感情なので良い気もしたが、やはり周りの目が怖かった。
その気持ちを、拭い去ることが出来る日は、くるのだろうか。未だに、心は変わらないのだった。
伊織さんと俺の出会いは、ごく些細な事がきっかけだった。俺が学校帰りに立ち寄った書店で、店員に本の注文をしたら、その店員が伊織さんだったのだ。
「あの、『ブザービートの最果て』っていうマンガ、ありますか?」
おずおずと聞いた俺を、伊織さんはにこやかな表情で対応してくれた。綺麗な人だな、と思った。二十代前半ぐらいかな。こんな綺麗な人が彼女だったらいいのにな、と思いながら待っていると、しばらくして伊織さんがお目当てのマンガを持ってきてくれた。
「お客様、お待たせ致しました」
そう言って本を差し出した伊織さんに、俺はなぜか笑顔になって「ありがとうございます」と言っていた。
一目惚れだった。俺は、伊織さんの姿を見るために、欲しい本は全てその書店で買うことにした。だが、そんなことを続けていても、あの時の二人は、まだ男子高校生の客と、香坂さんという名の店員にすぎなかった。
俺が想いを伝えないと、伊織さんには何も分かってもらえない。そんな事は、気付いていた。
初めて伊織さんと会った時からの気持ちは、上っ面だけの興味じゃないと分かった時、偶然学校帰りに伊織さんと鉢合わせした。
「あ」
思わず声を出した俺を、一緒に帰っていた二人の友人が見る。向こうから歩いてきた伊織さんも、俺に気付いて「こんにちは」と言ってきてくれた。
「こ、こんにちは」
友人達が、何メートルか先の電信柱の側で待ってくれているのを確認しながら、俺は挨拶を返した。
「学校の帰り?」
「はい」
接客用語を使わない伊織さんが新鮮だった。
「そうそう。この間注文してくれた本、今日入荷してたわよ。後で店から電話あると思うけど」
「あ、ありがとうございます」
この時の俺は、伊織さんの書店のかなりの常連客となっていて、伊織さんとは少しだけ世間話をする関係になっていた。気持ち悪い奴だとか思われていないかが心配で、その反面、なにも気にしていないというふりを装うのは結構大変だった。
「あの、また、本について色々聞かせてください」
俺がそう言った後、前方から「もう行くぞー」という声がした。友人達が痺れを切らして、先に帰ろうとしているのだ。
「あ、待てよ」
今良いところなのに、話の途中なのにと慌てていると、伊織さんがいきなり口を開いた。
「ちょっと待って」
そして、伊織さんは自分のハンドバッグから紙とペンを取り出して何かをサラサラ書くと、「後でなら話を聞いてあげられるから」と言って俺にその紙を渡してきた。
そこに書かれていたのは、メールアドレスだった。驚いて紙と伊織さんの顔を交互に見つめる俺に微笑みかけると、伊織さんは立ち去っていった。
呆然とする間もなく、友人に急かされ、俺はその場を後にしたのだけれど、心臓は激しく波打っていた。
「今の人、誰?」
俺が二人に追い付くと、宮田洋平という名の、二人のうち背の低い方の友人が聞いてきた。
それでも俺よりは、大きい。もう一人の佐原真琴も、興味深いなと言いたげな眼差しを向けてくる。ちなみに真琴は、名字のせいか「サバク」というあだ名で呼ばれている。
将来の夢は裁判官だと言っていたから、その意味でもピッタリなあだ名だ。
「本屋の店員」
一目惚れをしたことを知られたくなくて、俺はわざとぶっきらぼうな口調で答えた。伊織さんからもらった紙は、二人に見つからないように、こっそりポケットに入れた。
「へえ。お前、本屋の店員さんと面識なんかあったんだ!」
サバクが驚いたように言った。
「でもさ、いくら面識があるって言っても、相手は店員で、しかも歳上だろ? 親戚とか友達の姉ちゃんってわけでもなさそうだし。なんか、不思議な関係だよな」
この時の洋平の言葉に、俺は平静を装って「そうか?」と返すのに必死だった。俺の演技が上手かったからか、伊織さんと恋仲になった今でも、まだその関係は気付かれていない。
それどころか、恋愛の話なんて、話題にも上がらないから、俺は少し安心している。男たちのあいだでする話といえば、部活の話題や、最近ハマっているマンガの感想、進路のことくらいで、あとは無駄話ばかりしているだけなのだ。
ただ、伊織さんと歩いているところを知り合いに見られたわけじゃないから、今は大丈夫だけど、それでも気が気じゃない。
今はまだ、伊織さんとの関係が周りにバレていないから、話題に挙がらないだけで、俺たちの仲が周知されれば、当然冷やかされるし、興味深けに聞いてくるやつもいるだろう。
サバクや洋平と別れて家に帰った俺は、勉強机の上にぽつんとスマホを置いて、それに向かい合うように座っていた。
「左海奏太です。今日はありがとうございました」と文章を打ったはいいものの、送信をタップできずにいたのだ。今どき、メールでのやり取りなんて殆どしないから、何だか自分の知らない昔の人になったような気分になる。
本当に送っていいのだろうかと、不安になっていた。メールアドレスを教えてくれたのだから、メールをしてもいいんだという結論に達したのは結局翌日で、文章も「昨日はありがとうございました」に変更した。
伊織さんは、メールでのやり取りも上手な人だった。
梓と違って、送ったらすぐに返事が来たというような煩わしいこともなく、真夜中に着信音で目が覚めるなんてこともなかった。
それでも俺は、伊織さんなら、梓のようなしつこいメールを送ってきても許せると思っていた。むしろ、頻繁にやり取りがしたかった。
俺は学校や部活があるし、伊織さんは仕事がある。自分の立ち位置に縛られたあの時の俺達には、メールしか、交流の場はなかったのだ。
伊織さんとのメールなら、一晩中でもしていたい気持ちにかられた時、これが恋するということなんだろうか、と思った。伊織さんとのメールのやり取りは、梓とのラインをますます鬱陶しいと思わせていき、また、学校での梓との関係も、今ほどではないが陰りが見え始めていた。
伊織さんと初めてプライベートで会ったのは、メールを始めて一ヶ月後だった。その頃になると、俺たちは書店の片隅でこっそりラインを交換して、メールは卒業していた。
「ちょっと遠いけど美味しいパスタの店があるの。奏太くん、パスタ好き?」
そんなメッセージが来て、「大好きです!!」と返したら、「じゃあ行きましょう」と言われたのだ。
店が遠いことは、俺にしてみれば逆に好都合だった。
「お金は私が出すわ」と言った伊織さんに、最初は引け目を感じたものの、「あなたは学生だから」と言われて、なぜか妙に納得した。
そんなこんなで、約束の当日は、普段の俺では絶対にしないようなお洒落をし(「女か」と、自分に突っ込みたい)、待ち合わせ場所にした本屋の駐車場で待っていた伊織さんの車に乗って、目的地へと行ったのだった。
伊織さんが「美味しいパスタの店」と言うから、高級なレストランかと思っていたら、着いたのは洒落た食べ放題の店だった。そのせいか、初めてのデート(今だからそう言える)で、俺はひたすら食べ物を食べていたと思う。
勿論話もしたが、何を話したのか覚えていない。
「よく食べるわね」と伊織さんに笑われて、恥ずかしくなった俺は、気が動転して、とんでもないことを口走っていた。
その場面だけは、今でも覚えている。
「好きですから」
そう言った俺の顔を、伊織さんはぽかんとした表情で見た。
それに気付かずに、俺は生春巻きをかじっていた。
「何言ってるの?左海くん」
「え?」
「冗談はよしなさい」
伊織さんの顔が赤くなっているのを見て、俺はどうしたんだろうと思っていた。
「え、マジですけど。生春巻きって美味しいですね」
「左海くん、私はね、私は……」
伊織さんは、口ごもって俯いたあと、急に立ち上がってどこかに行ってしまった。そして、その後すぐに戻ってきた彼女の手にはジュースの入ったグラスが握られていた。
席についた伊織さんは、それを一口飲むと、再び口を開いた。
「左海くん、私も勿論好きよ。でもね、あなたは未成年でしょ?」
生春巻きは、未成年が食べちゃいけないものなのかなと思った俺は、きょとんとした顔で伊織さんを見つめた。
「ごめんなさい。でも、好きなんです……この事、二人だけの秘密にしちゃ駄目ですか?」
俺は言いながら生春巻きにはお酒が入っているのかなと考えた。それなら、バイキングのコーナーにことわりの文言でも書いてくれればいいのに。おかげで恥ずかしい想いをしたじゃないか。
伊織さんは黙っている。すごく困ったような顔をしている。しばらくの沈黙の後、伊織さんが口を開いたのは、それから五分ほど後の事だった。
「左海……奏太くんがそう言うなら」
伊織さんがなぜ、俺を名前で呼び直したのか分からなかった。
「こんなオバサンでよければ、よろしくお願いいたします」
「は?」
そこで俺は気づいた。何を言ってるんだ。話が噛み合ってないぞ。慌てて伊織さんの顔を見た。
「え?」
伊織さんもまた、俺を見る。俺は、どうして伊織さんがそう言ったのだろうかと、話の始まりを辿ってみた。そして、気付いた。俺はとんでもないことを口走ったのだと。
青ざめる。全身に電流でも走ったかのような衝撃を受けて、食べたものが全部逆流しそうになった。
「好きですけど」の前に、「生春巻きは」と付け加えるべきだった。だけど伊織さんが捉えた「好きです」の意味も、俺の正直な気持ちだった。
そして伊織さんは俺の気持ちを汲み取ってくれた。知らず知らずのうちに、俺は告白をして、それが受け入れられていたのだ。
無自覚だったとはいえ、俺は伊織さんに告白した。その事実が信じられなかった。
いや、告白した事より、それを伊織さんが受け入れた事の方がよほど信じられない。だけど、嬉しかった。
世間には、白い目で見られるかもしれない。俺たちのあいだには、未成年と成人という隔たりがある。互いが同意の上での交際であっても、二人の関係は世間的に見れば、非常識なものなのだ。
俺自身にも、伊織さんと交際することに対して、後ろめたいような不安がある。だけど、それよりも伊織さんに惹かれる気持ちの方が強かった。二人だけの秘密の恋というのも、なんだか神秘的でゾクッとした。
俺は人生初めてのデートで、伊織さんという女性を手に入れた。
その後も伊織さんとは何度か一緒にデートをした。その度にビクビクするのは、普通の恋では味わえない感情なので良い気もしたが、やはり周りの目が怖かった。
その気持ちを、拭い去ることが出来る日は、くるのだろうか。未だに、心は変わらないのだった。
