5
「サバク、伊織さんがいなくなった」
「はあ?」
呟いてから、サバクが聞き返してくるのも無理はないなと思った。唐突に自分は、何を言っているのだ。
「マンションに、伊織さんがいないんだ。表札もカーテンも、何もないんだ」
混乱していた。相談する相手は、サバクしかいなかったから、部活が終わってからわざわざ呼び出したものの、どう説明すればいいのか分からなかった。
「連絡はなかったのか? その、引っ越すとかよ」
「うん。俺、伊織さんに結婚したいって言ったんだ……だから、嫌われちゃったのかな」
「それは違うと思うけどな」
そう言ったサバクの顔を、見る。目が合ったが思わずそらしてしまった。いつものサバクが見せるような表情ではない。テスト期間に、ふと見せるような真剣な表情だった。
「どうして」
続く言葉は、自分の中に押し止める。
どうしてお前にわかるんだよ。
サバクにそんな粗暴な口は利けなかった。
「バイトならともかく、ちゃんとした職に就いているような人が、いきなりどっかに行くはずないだろ。隣町に出来た書店に転勤になったとか、そんなとこだな」
「だけど、そんな話、伊織さんからは一言もなかった!」
「馬鹿だなーお前。どうせお前が変なことばっかり言うから、なかなか話を切り出せなかったんだろ。つくづくイオリさんが不憫に思えてくるぜ」
サバクは、俺なんかじゃ考えられない推測を思いつくのがうまいなと思った。もしかするとそれはサバクの戯れ事かもしれないのに、妙に信憑性があって、納得してしまうのだ。
思い当たる節はあった。俺が、同棲をしたいとか、結婚したいなどと口にしたから、伊織さんはあのマンションを離れるつもりだってことを言えなかったのではないか。
だけどそうだとしても、なぜメールや電話を返してくれないのだろう。何度も「伊織さんどうかしたの?」などとメッセージを送った。
「どうしたの?」
「どこに行っちゃったの?」
「また返事ください」
「伊織さん、俺、伊織さんに会いたい」
そんなような言葉を、何度も送った。相手の迷惑も省みず、昼夜問わず電話も鳴らした。
今も続けている。それでも伊織さんからの返事はなかった。
まるで俺から逃げているかのように、俺の言葉から目を背けているかのように、ことごとく伊織さんは無言だった。
「逃げるなんて、卑怯な女よね。言いたい事があるなら、左海君にはっきり言えばいいのに」
どこから聞いていたのだろう、そして、どうしてここにいるのだろう。目の前に、梓が現れた。
サバクがギョッとして梓を見上げたのを見て、俺は不覚にも笑いそうになった。
「左海君がこんなに困ってるなんて、あの女は分からないのかしら。やっぱり歳を取ると、頭の働きが鈍る人もいるのね。あたしはそんなのになりたくないわ」
「梓、言いすぎだぞ」
「あらいけない、あたしは思ったことをすぐ言っちゃうから。ごめんね左海君」
必ずしもそうじゃないよなと、俺は心の中で思った。梓が他人の悪口をずけずけと言うのは、伊織さんの話をしている時だけだ。
「なんだったら、お前が直接新しい書店に行って、イオリさんがいるかどうか確かめてきたらいいじゃん」
「サバクって勉強は出来るみたいだけど、ほんっと、デリカシーないわね! 左海君がそんな大胆な事出来るわけないでしょ!」
「須藤さんこえー……須藤さんこそ、そんな事言ってこのオレが傷つくんじゃないかとか、思わないのかよ」
「サバクは、そんなにデリケートじゃないでしょ。嫌味を言っても気付かないような性格」
「ひでーなー。なぁ奏太!」
前言撤回。どうやら梓は、本当に思ったことをすぐ口にするらしい。
サバクに同意を求められたけれど、「わかんない」とごまかしておいて、「別にデリケートじゃなくても、多分裁判官になれるよ」と言ってやると、サバクは「そうだよな」と笑顔になっていた。
「お前も、いろいろ悩んでんだな、奏太」
サバクはそう言って、俺の顔をまじまじと見てきた。
目が合う。彼は、どこか関心したような眼差しを俺に向けていて、それに気圧されたせいか、すぐに目をそらしてしまった。
「どうせ左海君の悩み事といえば、九割くらいがあの女の事なんだから、サバクが驚く必要もないんじゃない?」
梓の鋭い物言いに対して、「おいおい、そりゃねえだろ」とサバクは苦笑しながら言ったが、俺は「そうかもしれない」と呟いた。
「マジかよ!?」
「……う、うん」
顔が赤くなる。サバクの今のマジかよは、本気で俺に対して驚いている。悩み事が少ない奴だと心の中で揶揄されていてもおかしくない。
「一見、気楽でいいよなって思うけど、恋の悩みって案外厄介だもんな。……そうだ、どうせなら、イオリさん本人に今の気持ちを聞いちゃえよ。……ちょっと、きつめの言葉を使えば、嫌々でも返事はくれるんじゃねえか」
サバクが言う。なるほど、と思った。伊織さんに同じ事を何度もしつこく問うのは、何の効果もない気がする。現に今、俺は無視をきめられているのだ。
オブラートに包んだ言葉を何回も言うより、一度ガツンとありのままの気持ちを叫んだ方がよほど効果があるかもしれないなと、俺はその時思った。
「ありがとう、サバク……あっ、梓も」
「あたしはついでなのね」
梓が残念そうにそう言ったので、「ゴメン」と謝ると、「いいのよ~、気にしてないら」と、気にしている表情を隠さないまま梓は続けた。
「俺、一度ガツンと言ってみるよ」
そう言って、俺はすぐに鞄からスマホを取り出した。アプリを開き、しばらく空を見つめ、思い付いた文章を打ち込む。
「このまま逃げるんですか?」
ただ一言、絵文字も顔文字も入れずにその言葉を送信した。
「こわいな」
のぞき見をしていたらしいサバクが、隣でぼそりと呟いた。
「み、見ないでよ」
「ちぇっ、せっかくオレが提案してやったのに、冷たい奴だな」
ひどい屁理屈だ。アドバイスをあげたから、やりとりを見させてくれなんて、笑えない冗談だ。
「サバクだって、人にこんなところ見られるのは嫌だろ?」
「まあ、な」
曖昧に頷くサバクを見て、俺は苦笑した。サバクは多分、今の俺のような出来事を経験した事はないのだろう。それでも彼は俺の気持ちを理解してくれようとしている。
優しすぎる親友だ。メッセージを送って、サバク達と別れた後、俺の頭に突然、後悔の二文字が現れた。
あんなメール、伊織さんが見たらどう思うだろう。
俺は一体、何様のつもりなんだろう。伊織さんが俺から離れた原因は多分、俺にあるのに、どうして上から目線の文章を送ってしまったのだろう。
サバクが隣にいないと、俺はどんどん悪い方向へと物事を持っていってしまう。サバクはああ言っていたけど、伊織さんが俺の「きつい言葉」に反応してくれるとは限らない。
一人でいると、折角抱いた自信も喪失してしまう。俺はどうしてこうなんだろう。
そう思っていても、自分の性格が嫌でも、直そうという考えが頭をよぎっても、そう簡単に性格は変えられない。
人間とは、そういうものだ。
哲学の本なんかを書けるかもしれないなどと馬鹿げたことを考える。今の俺には、どうでもいいことなのだと気付き、鳴らないスマホを握りしめる。
サバクや梓がいたら、雑談でもして気がまぎれるのに、今は一人だ。こんなときに、俺は一人じゃ生きられないんだと、痛感させられるのだ。
伊織さんがいるであろう、隣町の新しい書店に行こうか。いや、ダメだ。
怖い。
仮に行ったとして、会ってもらえなかったらどうするのだ。それ以前に、書店に伊織さんがいなかったら……。
部屋を出る。家の中には誰もいない。母さんは、買い物に行っているのかもしれない。
ピアノのある部屋に行き、ピアノの前に座る。蓋を開ける時、ちょっとだけ重く感じた。ふと思い立って、蓋を開けたまま俺は立ち上がった。
部屋の隅には本棚があって、そこには母さんが集めた楽譜が並んでいる。作曲家の五十音順に並んだその楽譜を眺めていると、母さんの几帳面さがうかがえる。
整然とした楽譜の中から、俺は一冊を手に取って眺めた。伊織さんが好きな、ショパンだ。
ピアノの詩人と言われている彼が、伊織さんによれば俺に似ているらしい。
何が似ているのか、俺にはちっとも分からないけれど、伊織さんが言うのだから、つい「そうなんだ」と思ってしまう。
幸い、俺は母さんからピアノを習っていたから、ショパンの曲もいくつかは弾ける。楽譜を開き、譜面台に置く。それから、両手をそっと鍵盤にのせた。
———子犬のワルツ。
それは伊織さんとの、思い出の曲だ。
たとえ俺達が別れることになってしまったとしても、俺はこの曲を耳にする度に伊織さんのことを思い出すだろう。
そのとき、俺はどんな気持ちになるのか。足元で跳ね回る子犬の楽しげな様子を表現したかのようなワルツを聴いて、曲の印象とは正反対の感情を抱いてしまうのだろうか。
いや、俺達が勝手に楽しいと想像しているだけで、「子犬のワルツ」という曲は、悲しさを紛らわせるためにわざと軽快に作った曲なのかもしれない。
反対に「別れの曲」は、本当は「別れの曲」なんかじゃないといえるかもしれない。
だいたい「別れの曲」なんて題名はショパン本人がつけたものではなく、日本人が勝手にそう呼んでいるだけなのだ。
「奏太、この曲はね、別れをうたった曲じゃないのよ。ショパンが、自分の故国であるポーランドへの愛を表現するために作られたと言われているわ。現にショパンは、彼の弟子のアドルフ・ゲートマンとの練習の時、国を思って泣き叫んだって話も残っているの」
俺は不意に、小さい頃に母さんから聞いたその逸話を聞いた事を思い出した。
そうか、この曲は悲しい歌なんかじゃないんだ。それならば俺は、この曲を弾こう。
今は一人だ。誰も聞いてくれる人はいない。
だけど、それがどうしたというのだ。
離れ離れになったとしても、伊織さんへの思いは変わらない。
愛を、うたおう。
「練習曲第三番ホ長調」と書かれたページを開くと、楽譜の隅にこんな言葉を見つけた。
「一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないでしょう」
母さんが書いたのであろうその言葉は、ショパンがこの曲に対して遺した言葉だという。それを再び見た今、俺の目から涙が零れた。
透明な液体が、白い鍵盤の上に落ちる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。ぽた、ぽた、ぽた。
動じないつもりだった。サバクや梓に励まされて、いつかまた会えるから大丈夫だと、自分に言い聞かせていた。だけどそれは所詮、強がりでしかなかったのだ。
伊織さんが再び俺と会ってくれる保障なんて、どこにもない。避けられているんだと少なからず思っているから、いざ会いに行くとなっても、足がすくんでしまうに違いない。
伊織さんに会いに行くために、勇気を振り絞ればいいというような生半可な行動をすればいいというほど、簡単なものではない。
じゃあ、どうすればいい。
わからない。今の俺じゃ、この状況を打破する方法が分からないのだ。
くじけそうだ。鍵盤が、滲んで見えない。俺にはどうすることも出来ないのだろうか。
蝉の声が聞こえる。夏の色に溶け込んで、普段なら気にも留めないというのに、今はただ、煩わしい。
手のひらで目頭を抑える。少しだけ濡れた。
俺は、今、泣いているんだ。
愛しい人を想って、泣いているんだ。気付かなかった。自分がこんなにも伊織さんとの恋に溺れていたなんて。
日常生活に支障をきたすような恋愛なんて、しないほうがいい。そう思って、伊織さんは俺から離れたのかもしれない。そんな考えは俺の勘違いであってほしいけれど、それ以外に理由が見つからない。
でも、何も言わずに去るなんて、あんまりだ。せめて一言、さようならくらいは言ってほしかった。そう思ったところで、俺はあることに気付いた。
———また、いつかね。
伊織さんとの別れ際、彼女は確かにそう言った。普通に聞き流していたけれど、あの言葉は、しばしの別れを告げるためのものだったのではないか。
そうだとしたら、伊織さんはちゃんと別れの言葉を俺に投げかけていたのだ。
大人は、卑怯だ。俺達、子供よりも頭がいい分、人を出し抜き、逃げるあざとさを持っている。逃げるのや誤魔化すのが上手い。思わず舌を巻くほどに、だ。
誰かから欺かれる度に、自分もその術を学ぶ。そして再び同じような状況に陥った時、その手口を真似、逃げようとするのだ。
伊織さんはかつて、好きだった人に逃げられた。
不倫という関係であった二人だけど、伊織さんは本気で男のことを好きだったのだろう。だから、別れを告げられたとき、激しい悲しみに襲われた。俺にはとても想像できないけれど、とても辛かったのだろう。そして今回、同じような状況になった中で、伊織さんは自分から身を引いたのだ。
自分へのダメージを、少しでも和らげるために。
でも、普通の大人と伊織さんが違うのは、俺に別れを気付かせないように去っていったことだ。
俺が浅はかなせいかもしれないけど、普通は「また、いつかね」なんて言われても、「ああ、この人は俺と別れるつもりなんだ」とは気付かないんじゃないだろうか。
ずるいな、伊織さん。あなたは俺が出会ってきた人達の中で、一番ずるい。
それなのに、嫌いにはなれない。
そのずるさを逆手にとれば、優しさだから。紙一重。
苦笑する。俺はとんでもない恋をしてしまったみたいだと、今更ながらに気付く。でも、だからこそ手放したくない。
伊織さんと本当に別れなければならない未来など、想像すらしたくない。
夜が来ても、伊織さんからメッセージなり電話が来ることはなかった。
最近、暗くなると、ほんの少しだけ涼しくなる。秋の気配だ。時の流れは止まることなく、それに乗るように季節もやがて移り変わっていく。
俺達も、歳を重ねていく。どうあがいても、この世の輪廻からは逃れられない。
永遠など、存在しない。それでも人は、生きるために自分の中から湧き出てくる欲を満たそうとする。
誰かを求め、何かを感じ、身の回りのものすべてに感情を左右される。独りで生きている人など、どこにもいない。
俺はただ、窓の外を眺めていた。
月が綺麗だ。いつか見た三日月と、よく似ていた。
目を伏せる。
ベッドの上のスマホがメッセージの通知をしらせてきたのは、そのときだった。
とびつくように俺はスマホを握った。着信相手の名前は、伊織さんだった。
待ち侘びていた彼女からのメッセージだと知った俺は、何も考えずにアプリの画面を開いた。
「何も言わずにあなたの前から姿を消した事は謝ります。ごめんなさい。
奏太くんからのプロポーズ、本当に嬉しかったわ。と、同時に恐いとも思いました。
あなたのこれから先の未来を私だけに縛られてしまうと思ったからです。
そういえば、あなたの将来の夢を聞いた事はありませんでしたね。まだ十七歳のあなたです。無限の可能性があると言っていいでしょう。
その可能性を私が妨げになっている気がしてならないのです。
恋はしても溺れてはいけないの。私もあなたに溺れていました。きっと奏太くんも同じでしょう。
あなたのプロポーズには焦りも感じました。
急いで大人にならなくてもいいの。今しか経験出来ない事が、未来への糧となるのだから。
だから今は会えません。会うつもりもありません。
ごめんなさい」
何だよ、これ……。思考が止まる。
会うつもりもありません。
れっきとした伊織さんの今の心境を読んで、俺は何も考えたくないと思ってしまった。嫌だ、逃げたい、伊織さん本人から突き付けられた事実から、背を向けたい。だが、たとえ俺がそうしたとしても、現実が変わるわけではないのだ。
ずっと幸せが続けばいいと思っていた。だが、そんな戯れ事は所詮妄想でしかなく、よかれと思った行動が、一歩履き違えば、事態は急転してしまうということを、如実に思い知らされた。
伊織さんは、もう俺のこと、嫌いなのかな。俺は、もう二度と、伊織さんには会えないのかな。スマホを布団の上に投げつける。
返信も、電話も、怖くて出来ない。もう、何をすればいいのか、分からなかった。
仁田さんが校門の前にいたのは、翌日の事だった。
「あ、あの人見たことあるぞ」というサバクの声に反応して顔を上げると、そこにいたのだ。
「奏太!!」
仁田さんは、俺の姿を見つけると、大きな声で呼びかけてきた。
「知り合いか?」
「うん、書店の人」
俺はサバクに返事をしながら、仁田さんに駆け寄った。
「こんにちは、どうしたんですか?」
「お前を待ってたんだよ。このくそ暑い中、三十分も待たせやがって。ここの教師は、部活の予定も把握してないのかよ」
「それは俺の支度が遅かっただけだと思います。……連絡してくれれば、すぐ出て来たのに」
「過ぎたことはどうでもいい。奏太、ちょっとだけ話がある。ついて来い」
相変わらず仁田さんは、俺に有無を言わせる隙を与えてくれない。俺は後ろで戸惑った表情をしていたサバクに「ごめん、先に帰ってて」と詫びると、仁田さんの後に着いて行った。
「すぐ終わるから、友達に待っててもらったら良かったのに」
今更言うなよと思った。仁田さんが立ち止まったのは、人通りの少ない住宅地の一角だった。
「お前、香坂さんにプロポーズしたんだってな!」
予想はしてたものの、唐突に始まった話題に、俺は焦って周りを見渡した。幸い、誰もいなかった。
「伊織さんから、聞いたんですか?」
「当たり前だろ。それ以外に何がある?」
「……仁田さんがストーカーだったとか、そんな可能性もあるかなと思いましたけど、そうじゃないならよかったです」
「まあ、何とでも思ってればいいけどよ、あんまりそういうの口にするんじゃねえぞ。お前がオレの事を嫌いだったとしてもな」
そんなつもりはないですと、口を挟む隙もなく、仁田さんはがらりと話題を変えた。
「お前、えらいな!」
水がお湯に変わる時のようなもたもたした感じではなく、水を垂らされた火が瞬時に消える———そんな現象にも似た潔い話題の変え方だった。
「自分の気持ちを、ごまかすことなく伝えられるなんて、すげーよ」
手放しにすげーよと言われても、俺はそれがきっかけで伊織さんに離れられたのだ。素直に喜べるはずがない。
「そんなえらいお前に、オレからのプレゼントだ」
紙が、突き付けられる。視界が白くなって、仁田さんの顔が見えなくなった。手を上げて、紙を受け取る。四つに折り畳まれたそれを広げると、住所が書かれていた。
顔を上げ、仁田さんを見る。「香坂さんの新しい勤務先だ」と、彼は言った。
サバクの推測通り、そこには隣町の住所が記されていた。ここからあまり遠くない。会いに行こうと思えば、いつでも会いに行ける距離だ。
「会いにいってやるのも、いいんじゃないか?」
仁田さんが言う。その瞬間、俺は紙を八つ裂きにしていた。
衝動的な行動だった。仁田さんが「ああ! お前、何やってんだよ」と慌てたのを見てから、自分のした事に気付いた。
「せっかく書いてきてやったのに、破くならせめてオレと別れてからにしろよ」
咎めるように仁田さんは言ったが、怒っているわけではないようだった。
「メールで伊織さんに、『会うつもりはない』って言われました。だから、俺も伊織さんに会おうとは思いません。所在地を教えてくれたのには、感謝しています」
「じゃあ、お前、香坂さんとは別れるつもりなのか?」
「いえ、それは違います」
仁田さんが怪訝そうに顔をしかめる。こいつは一体何を言っているのだと、思っているに違いない。
そりゃそうだ。別れるつもりもないのに、会うつもりもない。そんな俺の言い分は、まるで矛盾している。
「じゃあ、どうするんだよ」
じれったそうに、仁田さんが尋ねてくる。
「伊織さんに言われました。俺にはいっぱい可能性があるって。俺は、友達とは違って、将来の夢なんてまた無いけれど、これから探して行こうと思っています。伊織さんの言った事が本当なら、俺は何にだってなれるはずだから」
「若いって、いいよなぁ」
仁田さんが、物憂げな表情で言った。今の俺にはわからないけど、いつか同じような事を思う時が来るのだろう。
「俺には、よく分かりません」
「うん。そりゃそうだ。真面目な顔してそんなこと言われても、困るぞ」
「……すみません」
「奏太、人間って奴はな、人やものを失って初めて、その大事さに気付くんだ。今まで散々聞いてきた言葉だろうが、それでもまだ実感がわかねぇだろ?……何でも経験しなきゃ、その時の気持ちなんて分からないんだよ」
「はあ……」
「だからな奏太、今を楽しめ。もう戻れないと気付いた時に、後悔しないようにな」
「……はい」
じゃあなと言って去っていく仁田さんを無言のまま見つめる。仁田さんに言われた言葉の意味は分かるけど、実感がなかった。
俺にもいつか、この高校時代を懐かしみ、そしていろいろと悔やむ日がやって来るのだろうか。
小学生や中学生だった時の自分を、思い出す事は多々ある。懐かしいとは思っても、自分が歩いてきた道に後悔することはなかった。もし、俺のプロポーズを伊織さんがすんなりと受け入れてくれたとしたら、どんな未来が待っていたのだろう。
伊織さんと生活しながらも、後悔を重ねる日々が続いていたとしたら、嫌だ。伊織さんに感謝しなきゃな。
俺の中で芽吹こうとしているたくさんの可能性とやらを、摘み取らずにいてくれたのだから。
風が吹く。暑い暑い夏の一日を、そっと和らげてくれるかのような、優しい風だ。
少し湿っぽくはあるけれど、汗ばんだ体には冷たく感じる。
この町に、伊織さんはもういない。今、俺たちは同じ風を浴びることはない。
だけど、二人は別れたわけじゃない。今は、溺れすぎた恋の、浮上期間だ。
そっと歩き出す。
どこかの家から、たどたどしいピアノの音が聞こえてくる。道端では、小さな少年達がサッカーボールと戯れている。
伊織さんと出会い、通い続けた書店は、今日もたくさんの車が停まっている。
いつもと、何も変わらない。
明日は雨だと、誰かが話している。ああ、だから風が湿っぽいのか。
伊織さん。俺は、貴方に出会えて本当に良かった。
だからこそ、もっと、この町で頑張ろうと思う。勉強もスポーツも、もっともっと出来るようになりたい。
近すぎる将来の夢。そんなのでもいいかな。
サバクのように、立派なもんじゃないけど。
「奏太くん、久しぶりね。見違えたわ。すっかり大人になって。……でも性格は変わってない。あの頃のままよ」
「伊織さんだって、三十歳超えても、あまり変わらないじゃん。皺が増えたくらいだよ」
「失礼ね! 私だってロボットじゃないんだから、老けてもいくわ」
「でも、俺は、いまも伊織さんが好きだ。愛してる」
「私もよ、奏太くん」
夢を見た。目を開けると、部屋の天井があった。
起き上がる。随分と鮮明な夢だった。窓を開けて、夜空の果てに呼びかける。
ねえ伊織さん、いつか再び会える日まで、俺、頑張るよ。
空には星が無く、明日の雨にそなえてか、雲が闇を埋めつくしていた。
「サバク、伊織さんがいなくなった」
「はあ?」
呟いてから、サバクが聞き返してくるのも無理はないなと思った。唐突に自分は、何を言っているのだ。
「マンションに、伊織さんがいないんだ。表札もカーテンも、何もないんだ」
混乱していた。相談する相手は、サバクしかいなかったから、部活が終わってからわざわざ呼び出したものの、どう説明すればいいのか分からなかった。
「連絡はなかったのか? その、引っ越すとかよ」
「うん。俺、伊織さんに結婚したいって言ったんだ……だから、嫌われちゃったのかな」
「それは違うと思うけどな」
そう言ったサバクの顔を、見る。目が合ったが思わずそらしてしまった。いつものサバクが見せるような表情ではない。テスト期間に、ふと見せるような真剣な表情だった。
「どうして」
続く言葉は、自分の中に押し止める。
どうしてお前にわかるんだよ。
サバクにそんな粗暴な口は利けなかった。
「バイトならともかく、ちゃんとした職に就いているような人が、いきなりどっかに行くはずないだろ。隣町に出来た書店に転勤になったとか、そんなとこだな」
「だけど、そんな話、伊織さんからは一言もなかった!」
「馬鹿だなーお前。どうせお前が変なことばっかり言うから、なかなか話を切り出せなかったんだろ。つくづくイオリさんが不憫に思えてくるぜ」
サバクは、俺なんかじゃ考えられない推測を思いつくのがうまいなと思った。もしかするとそれはサバクの戯れ事かもしれないのに、妙に信憑性があって、納得してしまうのだ。
思い当たる節はあった。俺が、同棲をしたいとか、結婚したいなどと口にしたから、伊織さんはあのマンションを離れるつもりだってことを言えなかったのではないか。
だけどそうだとしても、なぜメールや電話を返してくれないのだろう。何度も「伊織さんどうかしたの?」などとメッセージを送った。
「どうしたの?」
「どこに行っちゃったの?」
「また返事ください」
「伊織さん、俺、伊織さんに会いたい」
そんなような言葉を、何度も送った。相手の迷惑も省みず、昼夜問わず電話も鳴らした。
今も続けている。それでも伊織さんからの返事はなかった。
まるで俺から逃げているかのように、俺の言葉から目を背けているかのように、ことごとく伊織さんは無言だった。
「逃げるなんて、卑怯な女よね。言いたい事があるなら、左海君にはっきり言えばいいのに」
どこから聞いていたのだろう、そして、どうしてここにいるのだろう。目の前に、梓が現れた。
サバクがギョッとして梓を見上げたのを見て、俺は不覚にも笑いそうになった。
「左海君がこんなに困ってるなんて、あの女は分からないのかしら。やっぱり歳を取ると、頭の働きが鈍る人もいるのね。あたしはそんなのになりたくないわ」
「梓、言いすぎだぞ」
「あらいけない、あたしは思ったことをすぐ言っちゃうから。ごめんね左海君」
必ずしもそうじゃないよなと、俺は心の中で思った。梓が他人の悪口をずけずけと言うのは、伊織さんの話をしている時だけだ。
「なんだったら、お前が直接新しい書店に行って、イオリさんがいるかどうか確かめてきたらいいじゃん」
「サバクって勉強は出来るみたいだけど、ほんっと、デリカシーないわね! 左海君がそんな大胆な事出来るわけないでしょ!」
「須藤さんこえー……須藤さんこそ、そんな事言ってこのオレが傷つくんじゃないかとか、思わないのかよ」
「サバクは、そんなにデリケートじゃないでしょ。嫌味を言っても気付かないような性格」
「ひでーなー。なぁ奏太!」
前言撤回。どうやら梓は、本当に思ったことをすぐ口にするらしい。
サバクに同意を求められたけれど、「わかんない」とごまかしておいて、「別にデリケートじゃなくても、多分裁判官になれるよ」と言ってやると、サバクは「そうだよな」と笑顔になっていた。
「お前も、いろいろ悩んでんだな、奏太」
サバクはそう言って、俺の顔をまじまじと見てきた。
目が合う。彼は、どこか関心したような眼差しを俺に向けていて、それに気圧されたせいか、すぐに目をそらしてしまった。
「どうせ左海君の悩み事といえば、九割くらいがあの女の事なんだから、サバクが驚く必要もないんじゃない?」
梓の鋭い物言いに対して、「おいおい、そりゃねえだろ」とサバクは苦笑しながら言ったが、俺は「そうかもしれない」と呟いた。
「マジかよ!?」
「……う、うん」
顔が赤くなる。サバクの今のマジかよは、本気で俺に対して驚いている。悩み事が少ない奴だと心の中で揶揄されていてもおかしくない。
「一見、気楽でいいよなって思うけど、恋の悩みって案外厄介だもんな。……そうだ、どうせなら、イオリさん本人に今の気持ちを聞いちゃえよ。……ちょっと、きつめの言葉を使えば、嫌々でも返事はくれるんじゃねえか」
サバクが言う。なるほど、と思った。伊織さんに同じ事を何度もしつこく問うのは、何の効果もない気がする。現に今、俺は無視をきめられているのだ。
オブラートに包んだ言葉を何回も言うより、一度ガツンとありのままの気持ちを叫んだ方がよほど効果があるかもしれないなと、俺はその時思った。
「ありがとう、サバク……あっ、梓も」
「あたしはついでなのね」
梓が残念そうにそう言ったので、「ゴメン」と謝ると、「いいのよ~、気にしてないら」と、気にしている表情を隠さないまま梓は続けた。
「俺、一度ガツンと言ってみるよ」
そう言って、俺はすぐに鞄からスマホを取り出した。アプリを開き、しばらく空を見つめ、思い付いた文章を打ち込む。
「このまま逃げるんですか?」
ただ一言、絵文字も顔文字も入れずにその言葉を送信した。
「こわいな」
のぞき見をしていたらしいサバクが、隣でぼそりと呟いた。
「み、見ないでよ」
「ちぇっ、せっかくオレが提案してやったのに、冷たい奴だな」
ひどい屁理屈だ。アドバイスをあげたから、やりとりを見させてくれなんて、笑えない冗談だ。
「サバクだって、人にこんなところ見られるのは嫌だろ?」
「まあ、な」
曖昧に頷くサバクを見て、俺は苦笑した。サバクは多分、今の俺のような出来事を経験した事はないのだろう。それでも彼は俺の気持ちを理解してくれようとしている。
優しすぎる親友だ。メッセージを送って、サバク達と別れた後、俺の頭に突然、後悔の二文字が現れた。
あんなメール、伊織さんが見たらどう思うだろう。
俺は一体、何様のつもりなんだろう。伊織さんが俺から離れた原因は多分、俺にあるのに、どうして上から目線の文章を送ってしまったのだろう。
サバクが隣にいないと、俺はどんどん悪い方向へと物事を持っていってしまう。サバクはああ言っていたけど、伊織さんが俺の「きつい言葉」に反応してくれるとは限らない。
一人でいると、折角抱いた自信も喪失してしまう。俺はどうしてこうなんだろう。
そう思っていても、自分の性格が嫌でも、直そうという考えが頭をよぎっても、そう簡単に性格は変えられない。
人間とは、そういうものだ。
哲学の本なんかを書けるかもしれないなどと馬鹿げたことを考える。今の俺には、どうでもいいことなのだと気付き、鳴らないスマホを握りしめる。
サバクや梓がいたら、雑談でもして気がまぎれるのに、今は一人だ。こんなときに、俺は一人じゃ生きられないんだと、痛感させられるのだ。
伊織さんがいるであろう、隣町の新しい書店に行こうか。いや、ダメだ。
怖い。
仮に行ったとして、会ってもらえなかったらどうするのだ。それ以前に、書店に伊織さんがいなかったら……。
部屋を出る。家の中には誰もいない。母さんは、買い物に行っているのかもしれない。
ピアノのある部屋に行き、ピアノの前に座る。蓋を開ける時、ちょっとだけ重く感じた。ふと思い立って、蓋を開けたまま俺は立ち上がった。
部屋の隅には本棚があって、そこには母さんが集めた楽譜が並んでいる。作曲家の五十音順に並んだその楽譜を眺めていると、母さんの几帳面さがうかがえる。
整然とした楽譜の中から、俺は一冊を手に取って眺めた。伊織さんが好きな、ショパンだ。
ピアノの詩人と言われている彼が、伊織さんによれば俺に似ているらしい。
何が似ているのか、俺にはちっとも分からないけれど、伊織さんが言うのだから、つい「そうなんだ」と思ってしまう。
幸い、俺は母さんからピアノを習っていたから、ショパンの曲もいくつかは弾ける。楽譜を開き、譜面台に置く。それから、両手をそっと鍵盤にのせた。
———子犬のワルツ。
それは伊織さんとの、思い出の曲だ。
たとえ俺達が別れることになってしまったとしても、俺はこの曲を耳にする度に伊織さんのことを思い出すだろう。
そのとき、俺はどんな気持ちになるのか。足元で跳ね回る子犬の楽しげな様子を表現したかのようなワルツを聴いて、曲の印象とは正反対の感情を抱いてしまうのだろうか。
いや、俺達が勝手に楽しいと想像しているだけで、「子犬のワルツ」という曲は、悲しさを紛らわせるためにわざと軽快に作った曲なのかもしれない。
反対に「別れの曲」は、本当は「別れの曲」なんかじゃないといえるかもしれない。
だいたい「別れの曲」なんて題名はショパン本人がつけたものではなく、日本人が勝手にそう呼んでいるだけなのだ。
「奏太、この曲はね、別れをうたった曲じゃないのよ。ショパンが、自分の故国であるポーランドへの愛を表現するために作られたと言われているわ。現にショパンは、彼の弟子のアドルフ・ゲートマンとの練習の時、国を思って泣き叫んだって話も残っているの」
俺は不意に、小さい頃に母さんから聞いたその逸話を聞いた事を思い出した。
そうか、この曲は悲しい歌なんかじゃないんだ。それならば俺は、この曲を弾こう。
今は一人だ。誰も聞いてくれる人はいない。
だけど、それがどうしたというのだ。
離れ離れになったとしても、伊織さんへの思いは変わらない。
愛を、うたおう。
「練習曲第三番ホ長調」と書かれたページを開くと、楽譜の隅にこんな言葉を見つけた。
「一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないでしょう」
母さんが書いたのであろうその言葉は、ショパンがこの曲に対して遺した言葉だという。それを再び見た今、俺の目から涙が零れた。
透明な液体が、白い鍵盤の上に落ちる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。ぽた、ぽた、ぽた。
動じないつもりだった。サバクや梓に励まされて、いつかまた会えるから大丈夫だと、自分に言い聞かせていた。だけどそれは所詮、強がりでしかなかったのだ。
伊織さんが再び俺と会ってくれる保障なんて、どこにもない。避けられているんだと少なからず思っているから、いざ会いに行くとなっても、足がすくんでしまうに違いない。
伊織さんに会いに行くために、勇気を振り絞ればいいというような生半可な行動をすればいいというほど、簡単なものではない。
じゃあ、どうすればいい。
わからない。今の俺じゃ、この状況を打破する方法が分からないのだ。
くじけそうだ。鍵盤が、滲んで見えない。俺にはどうすることも出来ないのだろうか。
蝉の声が聞こえる。夏の色に溶け込んで、普段なら気にも留めないというのに、今はただ、煩わしい。
手のひらで目頭を抑える。少しだけ濡れた。
俺は、今、泣いているんだ。
愛しい人を想って、泣いているんだ。気付かなかった。自分がこんなにも伊織さんとの恋に溺れていたなんて。
日常生活に支障をきたすような恋愛なんて、しないほうがいい。そう思って、伊織さんは俺から離れたのかもしれない。そんな考えは俺の勘違いであってほしいけれど、それ以外に理由が見つからない。
でも、何も言わずに去るなんて、あんまりだ。せめて一言、さようならくらいは言ってほしかった。そう思ったところで、俺はあることに気付いた。
———また、いつかね。
伊織さんとの別れ際、彼女は確かにそう言った。普通に聞き流していたけれど、あの言葉は、しばしの別れを告げるためのものだったのではないか。
そうだとしたら、伊織さんはちゃんと別れの言葉を俺に投げかけていたのだ。
大人は、卑怯だ。俺達、子供よりも頭がいい分、人を出し抜き、逃げるあざとさを持っている。逃げるのや誤魔化すのが上手い。思わず舌を巻くほどに、だ。
誰かから欺かれる度に、自分もその術を学ぶ。そして再び同じような状況に陥った時、その手口を真似、逃げようとするのだ。
伊織さんはかつて、好きだった人に逃げられた。
不倫という関係であった二人だけど、伊織さんは本気で男のことを好きだったのだろう。だから、別れを告げられたとき、激しい悲しみに襲われた。俺にはとても想像できないけれど、とても辛かったのだろう。そして今回、同じような状況になった中で、伊織さんは自分から身を引いたのだ。
自分へのダメージを、少しでも和らげるために。
でも、普通の大人と伊織さんが違うのは、俺に別れを気付かせないように去っていったことだ。
俺が浅はかなせいかもしれないけど、普通は「また、いつかね」なんて言われても、「ああ、この人は俺と別れるつもりなんだ」とは気付かないんじゃないだろうか。
ずるいな、伊織さん。あなたは俺が出会ってきた人達の中で、一番ずるい。
それなのに、嫌いにはなれない。
そのずるさを逆手にとれば、優しさだから。紙一重。
苦笑する。俺はとんでもない恋をしてしまったみたいだと、今更ながらに気付く。でも、だからこそ手放したくない。
伊織さんと本当に別れなければならない未来など、想像すらしたくない。
夜が来ても、伊織さんからメッセージなり電話が来ることはなかった。
最近、暗くなると、ほんの少しだけ涼しくなる。秋の気配だ。時の流れは止まることなく、それに乗るように季節もやがて移り変わっていく。
俺達も、歳を重ねていく。どうあがいても、この世の輪廻からは逃れられない。
永遠など、存在しない。それでも人は、生きるために自分の中から湧き出てくる欲を満たそうとする。
誰かを求め、何かを感じ、身の回りのものすべてに感情を左右される。独りで生きている人など、どこにもいない。
俺はただ、窓の外を眺めていた。
月が綺麗だ。いつか見た三日月と、よく似ていた。
目を伏せる。
ベッドの上のスマホがメッセージの通知をしらせてきたのは、そのときだった。
とびつくように俺はスマホを握った。着信相手の名前は、伊織さんだった。
待ち侘びていた彼女からのメッセージだと知った俺は、何も考えずにアプリの画面を開いた。
「何も言わずにあなたの前から姿を消した事は謝ります。ごめんなさい。
奏太くんからのプロポーズ、本当に嬉しかったわ。と、同時に恐いとも思いました。
あなたのこれから先の未来を私だけに縛られてしまうと思ったからです。
そういえば、あなたの将来の夢を聞いた事はありませんでしたね。まだ十七歳のあなたです。無限の可能性があると言っていいでしょう。
その可能性を私が妨げになっている気がしてならないのです。
恋はしても溺れてはいけないの。私もあなたに溺れていました。きっと奏太くんも同じでしょう。
あなたのプロポーズには焦りも感じました。
急いで大人にならなくてもいいの。今しか経験出来ない事が、未来への糧となるのだから。
だから今は会えません。会うつもりもありません。
ごめんなさい」
何だよ、これ……。思考が止まる。
会うつもりもありません。
れっきとした伊織さんの今の心境を読んで、俺は何も考えたくないと思ってしまった。嫌だ、逃げたい、伊織さん本人から突き付けられた事実から、背を向けたい。だが、たとえ俺がそうしたとしても、現実が変わるわけではないのだ。
ずっと幸せが続けばいいと思っていた。だが、そんな戯れ事は所詮妄想でしかなく、よかれと思った行動が、一歩履き違えば、事態は急転してしまうということを、如実に思い知らされた。
伊織さんは、もう俺のこと、嫌いなのかな。俺は、もう二度と、伊織さんには会えないのかな。スマホを布団の上に投げつける。
返信も、電話も、怖くて出来ない。もう、何をすればいいのか、分からなかった。
仁田さんが校門の前にいたのは、翌日の事だった。
「あ、あの人見たことあるぞ」というサバクの声に反応して顔を上げると、そこにいたのだ。
「奏太!!」
仁田さんは、俺の姿を見つけると、大きな声で呼びかけてきた。
「知り合いか?」
「うん、書店の人」
俺はサバクに返事をしながら、仁田さんに駆け寄った。
「こんにちは、どうしたんですか?」
「お前を待ってたんだよ。このくそ暑い中、三十分も待たせやがって。ここの教師は、部活の予定も把握してないのかよ」
「それは俺の支度が遅かっただけだと思います。……連絡してくれれば、すぐ出て来たのに」
「過ぎたことはどうでもいい。奏太、ちょっとだけ話がある。ついて来い」
相変わらず仁田さんは、俺に有無を言わせる隙を与えてくれない。俺は後ろで戸惑った表情をしていたサバクに「ごめん、先に帰ってて」と詫びると、仁田さんの後に着いて行った。
「すぐ終わるから、友達に待っててもらったら良かったのに」
今更言うなよと思った。仁田さんが立ち止まったのは、人通りの少ない住宅地の一角だった。
「お前、香坂さんにプロポーズしたんだってな!」
予想はしてたものの、唐突に始まった話題に、俺は焦って周りを見渡した。幸い、誰もいなかった。
「伊織さんから、聞いたんですか?」
「当たり前だろ。それ以外に何がある?」
「……仁田さんがストーカーだったとか、そんな可能性もあるかなと思いましたけど、そうじゃないならよかったです」
「まあ、何とでも思ってればいいけどよ、あんまりそういうの口にするんじゃねえぞ。お前がオレの事を嫌いだったとしてもな」
そんなつもりはないですと、口を挟む隙もなく、仁田さんはがらりと話題を変えた。
「お前、えらいな!」
水がお湯に変わる時のようなもたもたした感じではなく、水を垂らされた火が瞬時に消える———そんな現象にも似た潔い話題の変え方だった。
「自分の気持ちを、ごまかすことなく伝えられるなんて、すげーよ」
手放しにすげーよと言われても、俺はそれがきっかけで伊織さんに離れられたのだ。素直に喜べるはずがない。
「そんなえらいお前に、オレからのプレゼントだ」
紙が、突き付けられる。視界が白くなって、仁田さんの顔が見えなくなった。手を上げて、紙を受け取る。四つに折り畳まれたそれを広げると、住所が書かれていた。
顔を上げ、仁田さんを見る。「香坂さんの新しい勤務先だ」と、彼は言った。
サバクの推測通り、そこには隣町の住所が記されていた。ここからあまり遠くない。会いに行こうと思えば、いつでも会いに行ける距離だ。
「会いにいってやるのも、いいんじゃないか?」
仁田さんが言う。その瞬間、俺は紙を八つ裂きにしていた。
衝動的な行動だった。仁田さんが「ああ! お前、何やってんだよ」と慌てたのを見てから、自分のした事に気付いた。
「せっかく書いてきてやったのに、破くならせめてオレと別れてからにしろよ」
咎めるように仁田さんは言ったが、怒っているわけではないようだった。
「メールで伊織さんに、『会うつもりはない』って言われました。だから、俺も伊織さんに会おうとは思いません。所在地を教えてくれたのには、感謝しています」
「じゃあ、お前、香坂さんとは別れるつもりなのか?」
「いえ、それは違います」
仁田さんが怪訝そうに顔をしかめる。こいつは一体何を言っているのだと、思っているに違いない。
そりゃそうだ。別れるつもりもないのに、会うつもりもない。そんな俺の言い分は、まるで矛盾している。
「じゃあ、どうするんだよ」
じれったそうに、仁田さんが尋ねてくる。
「伊織さんに言われました。俺にはいっぱい可能性があるって。俺は、友達とは違って、将来の夢なんてまた無いけれど、これから探して行こうと思っています。伊織さんの言った事が本当なら、俺は何にだってなれるはずだから」
「若いって、いいよなぁ」
仁田さんが、物憂げな表情で言った。今の俺にはわからないけど、いつか同じような事を思う時が来るのだろう。
「俺には、よく分かりません」
「うん。そりゃそうだ。真面目な顔してそんなこと言われても、困るぞ」
「……すみません」
「奏太、人間って奴はな、人やものを失って初めて、その大事さに気付くんだ。今まで散々聞いてきた言葉だろうが、それでもまだ実感がわかねぇだろ?……何でも経験しなきゃ、その時の気持ちなんて分からないんだよ」
「はあ……」
「だからな奏太、今を楽しめ。もう戻れないと気付いた時に、後悔しないようにな」
「……はい」
じゃあなと言って去っていく仁田さんを無言のまま見つめる。仁田さんに言われた言葉の意味は分かるけど、実感がなかった。
俺にもいつか、この高校時代を懐かしみ、そしていろいろと悔やむ日がやって来るのだろうか。
小学生や中学生だった時の自分を、思い出す事は多々ある。懐かしいとは思っても、自分が歩いてきた道に後悔することはなかった。もし、俺のプロポーズを伊織さんがすんなりと受け入れてくれたとしたら、どんな未来が待っていたのだろう。
伊織さんと生活しながらも、後悔を重ねる日々が続いていたとしたら、嫌だ。伊織さんに感謝しなきゃな。
俺の中で芽吹こうとしているたくさんの可能性とやらを、摘み取らずにいてくれたのだから。
風が吹く。暑い暑い夏の一日を、そっと和らげてくれるかのような、優しい風だ。
少し湿っぽくはあるけれど、汗ばんだ体には冷たく感じる。
この町に、伊織さんはもういない。今、俺たちは同じ風を浴びることはない。
だけど、二人は別れたわけじゃない。今は、溺れすぎた恋の、浮上期間だ。
そっと歩き出す。
どこかの家から、たどたどしいピアノの音が聞こえてくる。道端では、小さな少年達がサッカーボールと戯れている。
伊織さんと出会い、通い続けた書店は、今日もたくさんの車が停まっている。
いつもと、何も変わらない。
明日は雨だと、誰かが話している。ああ、だから風が湿っぽいのか。
伊織さん。俺は、貴方に出会えて本当に良かった。
だからこそ、もっと、この町で頑張ろうと思う。勉強もスポーツも、もっともっと出来るようになりたい。
近すぎる将来の夢。そんなのでもいいかな。
サバクのように、立派なもんじゃないけど。
「奏太くん、久しぶりね。見違えたわ。すっかり大人になって。……でも性格は変わってない。あの頃のままよ」
「伊織さんだって、三十歳超えても、あまり変わらないじゃん。皺が増えたくらいだよ」
「失礼ね! 私だってロボットじゃないんだから、老けてもいくわ」
「でも、俺は、いまも伊織さんが好きだ。愛してる」
「私もよ、奏太くん」
夢を見た。目を開けると、部屋の天井があった。
起き上がる。随分と鮮明な夢だった。窓を開けて、夜空の果てに呼びかける。
ねえ伊織さん、いつか再び会える日まで、俺、頑張るよ。
空には星が無く、明日の雨にそなえてか、雲が闇を埋めつくしていた。
