アンダンテ・アマービレ


 木曜日になったのはいいけれど、前日の夜から降り始めた雨は、朝になってもやむことはなかった。
 そんなにいっぱいの雨量でもない、しとしとと降る雨は、優しい雰囲気すら漂っていた。
 眺める雨は、嫌いじゃない。暴風雨を眺めるのは、恐ろしくもあり、面白い。反対に、優しい雨は、心なしか落ち着く。
 ショパンの曲に、「雨だれのプレリュード」というものがあるけれど、彼も優しい雨が好きだったのかもしれない。
 昼前に、家を出た。水色の傘をさし、伊織さんのマンションを目指す。遠慮がちに、しかし、堂々と落ちてくる雨の音を聞きながら、俺はゆっくりと歩いた。
 夏休み最初の雨の日は、子供達の姿も外にはない。家で宿題や、ゲームでもしているのだろうか。
 たまに通り過ぎるのは、部活動に行くのであろう中高生達だった。
 いつもなら俺もあの中に混じって学校へ行くけど、今日は違う。俺は今から伊織さんに会いに行くのだ。
 そんなふうに、分かりきった事を自分に言い聞かせながら、俺は歩く。
 靴が水を撥ねる音。車が水溜まりの上を滑るように走り去っていく音。傘に雨がぶつかる音。
 雨の日は、普段よりも音の種類が多い。それはまるで、単調なオーケストラ。自然と触れ合うその音を、俺達は奏でているのだ。
 やがて、伊織さんのマンションが見えてくる。雨のせいで白んだその建物は、いつもより輝いているようにも見える。
 エントランスに入り、エレベーターに乗る。
 静寂。俺の心臓の音が聞こえそうだ。
 インターホンを押すと、伊織さんはすぐに出てきた。
 「こんにちは」
 「いらっしゃい奏太くん。さあ、入って」
 いつもの声。伊織さんは、笑顔で俺を招き入れてくれる。リビングに入ると、この間と何かが違うように感じて、すぐにそれはカーテンを変えたせいなんだと分かった。
 「カーテン、変えたんだ」
 俺が尋ねるともなしに呟くと、伊織さんは頷いた。
 「ええ。奏太くんをイメージした色にしてみたの。どうかしら」
 「ええっ? お、俺!?」
 俺の取り乱しようが可笑しかったのか、伊織さんは笑いながら「そうよ」と答えた。
 「そっか……俺か……」
 伊織さんはもしかしたら、この間俺が送ったメッセージを見て、衝動的にカーテンを変えたのかもしれない。そう思って、つい俺はにやけてしまった。
 「紅茶を淹れてあげるから、座って待っててね」
 伊織さんはそう言って、テーブルに置いてあったリモコンを手に取ると、コンポのスイッチをいれた。
 やがて流れ始めたのは「子犬のワルツ」で、伊織さんは「ショパンのCDよ」と言いながら、キッチンに立った。
 「伊織さんはショパンが好きなんだ」
 「そうよ。奏太くんみたいなのよ、彼は」
 伊織さんは、俺っぽいものや人が好きなのかな。嬉しい……というよりは、照れ臭かった。
 それほど伊織さんは、俺を意識してくれているのだと思うと、面映ゆくて、彼女の顔が見られなかった。
 やがて伊織さんは、カップを二つ持ってきて俺の前に置いたが、そのカップはこの間のペアカップではなかった。
 「やっぱりあのカップ、俺のためのやつじゃなかったんだ」
 呟いた言葉は、伊織さんにも聞こえたらしい。いや、あえて聞こえるように言ったのだ。どうしてあのとき、「貴方のためのものじゃない」と言ってくれなかったのだろう。
 「ごめんなさい、奏太くん」
 伊織さんが言った。別に怒っているわけじゃない。だから、そんなに落ち込んだそぶりを見せないでほしい。ただ、伊織さんの口から、真実を聞きたかっただけだ。
 「ごめんなさい。私、奏太くんと出会う前に、付き合っていた男の人がいたの」
 伊織さんが俺の前に座る。両手でカップを包み込み、その視線は中の紅茶の揺らめきを見ていた。
 「そうなんだ。もしかしてそれは、カラスジュウゾウジキョウイチっていう人?」
 伊織さんがハッとした表情をする。その表情のまま、俺の顔を見る。目は、そらさなかった。何も偽る必要はない。過去の出来事だ。隠すような事ではないはずだ。
 「どうして、彼の名前を?」
 伊織さんは、少し狼狽えているようだった。そりゃそうだ。今まで伊織さんの口から出たことのない男の名前を、なぜか俺が知っているのだ。冷静でいられる方がおかしい。
 「実は、俺の友達の梓の家が不動産屋で、このマンションの管理も梓の家がしてて、この部屋の契約者の名前をわざわざ調べたらしいんだ。それで、まさか伊織さんが見ず知らずの男の家に住むはずがないから、昔の彼氏かなって思ったんだ」
 「……そうだったの」
 緊張や、焦りを鎮めるためか、伊織さんはカップに口をつけた。彼女の喉が、こくりと動く。カチャン。カップがテーブルに置かれる。そのひとつひとつの動作を、俺は見ていた。
 「奏太くん……私は、最低な女よ」
 ぼそりと、伊織さんが言った。彼女が俺に初めて見せる、ひどく陰のある表情だった。
 「私は、三年前、不倫をしていたの。京一さんは、私の勤める書店の社長をしているわ。当時はまだ社長の息子で専務だった彼と私は、彼に妻子がいることを知っておきながら、互いに惹かれあった。そうね、いけない恋をしているという自覚を、むしろ楽しんでいたのかもしれない」
 伊織さんは言葉を切り、様子を伺うかのように俺を見た。だけど、俺は何も言わない。下手な事を言って、伊織さんを刺激しないようにと、黙っていた。
 「私は、彼との豊潤な関係に、溺れていたわ。この幸せな日々がずっと続けばいい。いっそ、京一さんが、彼の奥様と別れてくれればいいのにと思った事もあった。交遊の少なかった私にとって、京一さんは唯一の拠り所だった。今の、奏太くんのように」
 「俺……」
 言いかけた言葉を、遮られる。最後まで話させて。そんな気迫すら感じさせられた。
 「でも、悪い事は出来ないものね。私達の関係は、ある日突然崩れ去ったわ。別れを切り出した京一さんに、私は泣き縋った。この部屋で。激しい雨の降る夜だったわ。泣き縋っても、彼は去って行った。この部屋は好きに使っていいからと、彼はまるで慰謝料代わりだというように、私にここを残していったわ」
 「……じゃあ、まさか、今でも?」
 俺と付き合いながらも、伊織さんは未だカラスジュウゾウジキョウイチを想いつづけているのだろうか。そんな不安がよぎる。
 「いいえ」
 それは、しっかりとした、強い否定だった。嘘ではないと、俺にも分かった。
 「しばらくの間は、私も未練がましく彼が戻ってこないものかと思ってた。だから、あえて部屋のインテリアをいじらずに、ここに住み続けていたわ。だけど、いつからかそんな想いは消え去っていた。今は何の未練もないわ。彼とは、ただの上司と部下の関係よ」
 「ならよかった。俺も、安心。過去に何があったとしても、俺は今の伊織さんが好きなんだ。不倫と知っていて付き合うような女なんて、正直最低だけど、人間、誰だって間違いはあるよ。伊織さんはそれに気付けたから、別にいいじゃん」
 都合の良い戯言だ。矛盾している。不倫は最低だと豪語しておきながら、その直後に過去の過ちだから別にいいと正反対の事を言っている。
 たかが十七年しか生きていないクソガキが、調子に乗って十二も年上の女性を、てんで筋の通っていない戯言で励まそうとしている。間抜けな光景だ。
 それでも伊織さんは、ほっと安堵したかのように微笑んでくれた。
 「ありがとう、奏太くん」
 礼を言いたいのは、俺の方だよ、伊織さん。勘違いから始まった付き合いとはいえ、こんなにも俺を大切に想ってくれている。それだけでも充分だと思っていたのは、過去の事だ。今は違う。伊織さんを、俺だけのものにしたいと思っている。
 こんな独占欲、俺の中にもあったんだ。伊織さんに出会ってから知った、俺の内面。
 人間は、欲に忠実だ。
 「伊織さん……俺……」
 言うなら、今しかないと思った。俺にとっては自然な流れのつもりだ。伊織さんが見つめてくる。だけど実際、いざ言おうとすると、口が窄んでしまう。
 そんな状況に陥ってしまった自分に、今言わなきゃいつ言うんだよと何度も言い聞かせた後、すごく不自然で長い間をあけてもう一度口を開いた。
 「俺、卒業したら、い、伊織さんと結婚したいんだ!」
 ほとんど叫ぶように言った。言ってしまった。もう後戻りは出来ない。それを分かっているせいか、顔が上がらない。首がとても重い。
 「冗談でしょう? 奏太くんはまだ十七歳じゃないの。それに進学校に通っているんだから、大学に行くんでしょう?」
 伊織さんはすぐにそう言った。どうやら、本気で言ったわけじゃないと思われているみたいだ。
 「十七歳だから、卒業したらって言ってるんだ! ホントは今すぐにでも結婚したいのに」
 「……お母様をどうやって説得するつもり? 未成年の結婚には親の承諾も必要なのよ。奏太くんは何をそんなに焦っているの? 私がもうすぐで三十になるから? だったらそんな事気にしなくてもいいのに……。私は今のままでも十分だと思っているわ」
 「母さんなんか、すぐに説得する! もう伊織さんが俺の彼女だってこと、母さんは知ってるんだ。俺がちゃんと高校さえ卒業すれば、母さんはきっと許してくれる」
 「私はそうは思えないわ」
 俺の考えを、伊織さんはぴしゃりと否定した。
 どうして、そんなに渋っているんだよ。いまさら三十路だとか歳の差とか、そんな事を気にする必要はないだろ。
 「奏太くん。よく聞いて頂戴。目先の楽しみに目を眩ませるのはやめなさい。私は貴方との結婚が嫌なわけじゃない。むしろ、気持ちを聞かせてくれて、とても嬉しいわ。結婚なんて、いつでも出来る。貴方の想いが変わらなければ、たとえば私が五十代になっても出来るの。だけど、今しか出来ない事はそれ以上に沢山ある。貴方がそれを犠牲にする必要はないの。今しか出来ない事を、存分に楽しみなさい。奏太くん、私が一番嫌なのはね、私との付き合いのせいで、貴方が本来出来るはずの物事が犠牲になることなの。そうなるくらいなら、私は貴方と別れるわ」
 俺は、何も言い返せなかった。いろいろな想いが頭の中で渦巻いて、混乱していた。
 恋愛は、こんなにも難しい。俺は伊織さんの言う通り、目先の楽しみに目が眩んでいるのだろうか。今しか出来ない事など、本当にあるのだろうか。
 「嫌だ!俺は、伊織さんと別れたくない」
 やっとの事で搾り出した言葉は、今の自分の気持ちに最も忠実なものだった。俺は、一生伊織さんと一緒がいい。
 そう思う気持ちは、果たしていつか冷めてしまうものなのだろうか。今は想像もつかない。
 「私もよ、奏太くん。だからこそ、焦らないで。今のままの関係でも、私は充分だから」
 今のままの関係でも充分。それは、結婚したくないということなのだろうか。
 分からない。でも、これ以上伊織さんを困らせたくないから、深く追究はしないことにした。
 伊織さんに諭されて、少し冷静になった自分がいる。
 「突然、ごめんなさい」
 俯き、つぶやくように言葉を漏らす。目を合わせられなかった。
 「いいのよ。プロポーズなんて、大抵は突然だもの。少し驚いたけど、嬉しかったわ」
 「そっか……なら、良かったかな」
 俺はすっかり冷めてしまった紅茶を、一口飲んだ。ミルクティーだ。甘く、少しだけ渋い。伊織さんの言葉と同じだ。俺より長く生きているせいなのか、言うことが深いなと、今更になって思う。
 今はカラスジュウゾウジキョウイチの気配が残っているらしいこの部屋を、いつか俺と伊織さんのものに染め上げる日は来るのだろうか。
 今しか出来ないこと。それは多分、遠い未来の自分なら分かっているのだろう。
 あの時、こんなことをしていれば良かったと悔やむ日が来たとき、俺は今日の事を思い出すのかもしれない。
 今はまだ分からない未来の事をあれやこれやと語るのは、浅はかな行為だ。預言者ならともかく、俺はただの人間だ。所詮それを口にしたとして、都合の良い妄想だらけとなってしまう。そんなことはもう考えるのはやめようと、俺は思った。

 俺はその後、早めに帰った。明日が部活だからというのもあるけれど、何となく長居するのは気まずかったのだ。
 「今日はありがとう」
 伊織さんの家を出るとき、一度だけ彼女の顔を見た。何かを考えているかのような表情をとっさに消して、彼女は「また、いつかね」と言った。
 ———また、いつかね。
 妙な挨拶の仕方だと一瞬思ったが、言われた直後は気にも留めなかった。違和感を抱いたのは、家に着いてからだった。
 「また、いつかね」
 不鮮明な響きだと思った。まるで、次はいつ会えるか分からない、会えるとも決まっていないというようにも捉えられて、不安になる。
 そんなはずはない。毎日ラインもするし、電話も通じる。会えないはずはないんだと、一抹の不安を振り払ったつもりだったが、妙なわだかまりは消えなかった。
 そして、その不安は現実のものとなる。
 伊織さんが姿を消したのは、それから一週間後の事だった。