3
「伊織さんに会って、直接言いたいことがあります」
珍しく、俺は電話をかけた。空手少年の事をふと思い出した次の日、学校が終わった後のことだった。
「何かしらってここで尋ねても、答えてはくれないんでしょう? 月末になるけど、いいかしら」
「いつでもいいけど、なるべく早く」
月末だったら、もう学校は夏休みだなと思いながら、俺は答えた。
「分かったわ。シフトを見て、また連絡する」
「うん、楽しみにしてる」
俺はそう言って、伊織さんが「わた」と言いかけたのに、勢い余って電話を切ってしまった。
「私もよ」とでも言ってくれようとしたのだろうか。かけ直すのも気まずいと感じたので、俺はそのまま放置することにした。何か大切な事を言おうとしていたとしたら、メッセージが来るだろう。
何時間待っても(とはいえ、電話が終わった数分後には寝ていたのだけど)、伊織さんからの連絡は無かったので、やはり「わた」に続く用件は大したことではなかったのだと、自分の中で結論付けた。
目を開けると、朝日がカーテンの隙間から覗き込んでいた。いつの間にか、朝になっていたのだ。
今日も朝練か……と、ポリポリ頭をかいていたら、階下でキッチンの音がした。
時計は、六時をさしている。
「やばっ!」
寝坊していることに気づいた瞬間、一気に覚醒した。パジャマを脱ぎ捨て、制服に着替える。
今頃、伊織さんは寝ているだろう。夢で、俺の事を見てくれているかなと思ったけれど、もしかしたらカラスジュウゾウジ キョウイチの事を見ているかもしれない。夢は夢だ。気にするなと自分に言い聞かせる。
リビングに入るなり、「わ!」と言ったら、母さんに冷たい目で見られた。
「朝から、何言ってんの?」
母さんは、驚いた様子など微塵も見せず、むしろ呆れたように呟いた。
「べ、別に」
気まずくなった俺はモゴモゴと言うと、ダイニングの席について、母さんが作ってくれていた目玉焼きをつついた。
「ねえねえねえねえ奏太、ところであんた、彼女いるでしょ?」
ブハッと、危うく母さんに口の中の黄身をぶちまけるところだった。
「あ、動揺してる。バレバレよ。親の目をごまかせるとでも思ってるのかしら」
何も言えず、俺はただ、朝ごはんを黙々と食べ続けていた。
「今度紹介しなさいよ。家に連れて来なさい」
「い、いやだ」
「あら、どうしてよ」
伊織さんを見たら、母さん、びっくりするよ。母さんのほうが歳、近いもん。
俺はその言葉を、ぐっと飲み込んだ。
「嫌なものは嫌なんだ!母さんだって、俺ぐらいの歳の時、恋人を連れて来いって言われるのは嫌だったはずだ」
「あら、私は女だから、どちらかと言えば連れていかれる方だったけど。それともなあに? アンタは彼女のご両親に挨拶はしたのかしら」
「伊織さんの両親なんか、会ったことない!」
「いおりさんって言うのね、あんたの彼女」
しまったと思った。少し油断すれば、すぐ口を滑らせてしまうのは、俺の悪い癖だ。
でも、名前がばれたからといって、伊織さんが特定されるはずがない。ましてや母さんは、俺が十二歳も年上の女性と付き合っているとは、夢にも思っていないだろう。
「朝練遅れるからもう行く」
俺は、そう言って、話を強引に切り上げると、食器を流し台に置いて、そそくさと家を出た。
「左海くん、早くドリンク飲んじゃってよ」
「うおう、最近の須藤さんこわいな」
「馬鹿じゃないのサバク、アタシはいつもと同じよ」
「そして俺に冷たいのは、相変わらずだな」
サバクと梓がそんな会話をしている傍らで、俺はタオルを首からかけながらクエン酸入りのドリンクを飲んでいた。
「……すっぱい」
いっその事、床に捨ててやろうかと思ったけど、せっかくの水分を無駄にしたくない。俺の、悲しいほどにいやしい性に腹が立つ。
「いいな、奏太は。須藤さんはお前が疲れないように特別なドリンクを作ってくれてるみたいだな」
「梓は、俺をいじめたいだけだ……」
「あらあ! このあたしが、左海くんをいじめたいなんて考えると思ってるの? どうして? 左海くんが香坂伊織にとられたから?」
梓の発言に、サバクはギョッとしたように俺を見たので、「見つかっちゃったんだ」と言ったら、彼は大笑いした。
「お前、あれだけ隠してたのに、いとも簡単に須藤さんに知られてるんじゃん。馬鹿だなー」
「梓には、この間の試合の時にはもうばれてたよ」
「へえ、そりゃすげえや。須藤さん、こえーな」
一体何が「すげえ」のかはちっとも分からないけど、梓が「こえー」のは何となく共感出来た。
「失礼ね! サバク」
「はいはいはい、失礼いたしました!!」
サバクと梓のやりとりを聞いて、俺は笑った。この二人が付き合う事は、まずないだろう。
ようやく飲み干したドリンクのボトルを梓に返す。ひったくるように梓が受け取って、洗い場に行った後、俺達は着替えをすませ、教室に行く準備をした。
「奏太」
妙に静かな体育館のロッカールームで、俺はサバクに名を呼ばれた。やけに真剣な声だ。さっきまでのちゃらけた様子は、どこにもない。
「なに?」
「オレの母さんがさ、パートを始めるらしくて」
「うん」
唐突だな、と思った。どうしてサバクのお母さんの事を聞かされるんだろうと考えていたら、そのまま彼は言葉を続けた。
「で、一緒に求人情報を見てたんだ。そしたら、イオリさんが勤めてる書店と一緒の名前の書店が、隣の町に出来るらしくて、その求人が載ってた」
「へえ」
凄いなとは思ったが、それがどうしたというのか。例えば伊織さんがその新店舗に転勤するというなら大変だけど、まだそう決まっているわけではない。もし、すでに話がまとまっていたとしたら、伊織さんは俺に教えてくれるはずだ。
「奏太、お前、大丈夫なのか?」
「なにが?」
聞き返した俺をチラリと見て、サバクは大袈裟にため息をついた。お前、馬鹿だな。ホントに馬鹿だな。なぜか、そう言われたような気分になった。
「イオリさんだよ。あの人、社員なんだろ?……新店舗の従業員として、キャリアの長い社員が転勤なんて話、よくあるじゃん」
よくあるじゃんと言われても、知らない。でも、サバクまで同じような事を考えていると知り、やはりそんなこともあるのかもしれないと、心配になった。
「隣町だろ? もし転勤したとしても、もう会えないわけじゃないんだから、大丈夫だよ」
「ならいいけどな。あ、そうだ。今日、進路希望用紙の提出だったよな。お前、持ってきたか?」
「なにそれ」
俺の返答に、サバクの動きが止まった。
「お前、もう高二だぞ。高二の夏だぞ。しかもここは一応進学校だぞ。よくそんなくだらない冗談が言えるよな、奏太」
冗談のつもりで言ったわけではない。今の今まで、サバクに言われるまで、そんなものの存在はすっかり忘れていたのだ。
「……俺、進学はしない、かな」
「へえ、なんで?」
「サバクとは違って、夢があるわけじゃないし、大学行くってなったら、俺の成績だと国立は無理だし。何の目的もないのに大学行くくらいなら、働いたほうがいいかなって。……それに」
「それに?」
サバクが先を促してくる。その顔を見ながら、普段はちゃらけているサバクが、自分の進路には真剣に取り組んでいるのだということを痛感した。
「卒業したら、伊織さんと結婚しようと思う」
だから、そんなサバクに触発されて、真剣な顔で、俺は言葉を続けた。
「へえ」
驚くのかと思ったら、サバクは感心したように呟いた。
「いいんじゃねえの。奏太の進路は、奏太のものだし、いっその事、調査票に『結婚』とでも書いておくのもいいかもな。うん」
「サバクは、国立だろ。見かけによらず、成績いいもんな」
「まあな」
サバクは、照れることも、否定もしなかった。
教科のいくつかは、学年一位という輝かしい功績を持っている彼なら、国立大学も余裕で射程範囲内なのだろう。
夢がある人はその夢に向かって、努力を惜しまないんだなと、サバクを見ていると分かる。
サバクの夢が叶って、彼が本当に人を裁く立場に就いた時、俺は何をしているのだろうか。自分の未来の姿が、今は何も見えない。
そう考えると、寂しさと不安を、一度に感じた。
伊織さんと出会える日が、夏休みに入ってから七日目の木曜日に決まった。
一学期の終業式が終わると、クラスメイトとは急に疎遠になった。大塚や刈屋は俺に連絡ひとつしてこないし、ほぼ毎日会っているのはサバクくらいだ。
しかしそれも部活があるからで、俺は友達が少ないんだと思い知らされた。別にそれを悲観しているわけじゃない。誰かと一緒にいるのは、その人数が多いほど疲れるし、サバクという親友がいるから別に多くの友達などは求めていない。
それに俺には、なんと言ったって、伊織さんがいる。あらゆる人にその存在がばれてしまった、俺の彼女だ。紛れも無い、愛しい存在なのだ。
「おら、ボーッとしてんなよ、ばか奏太!!」
サバクの怒鳴り声にも近い声が耳に入ってきて、俺は慌ててとんできたボールを受けとった。
試合形式の練習でボーッとするなんて、俺はどれだけ伊織さんに夢中なんだろう。恋に溺れるという比喩は、こんな時に使うのだろうなと、思った。
「奏太! オマエ、やる気あんのかよ!!」
またもやサバクの怒号が飛んできて、俺はすでに相手チームにボールを奪われていることに気付いた。
「もういい! オマエ、交代。坂元、チェンジ!!」
サバクは、コートの外ににいた一年生の部員を呼び寄せて、俺と代わるように指示を出した。
「大丈夫っすか、左海さん」
後輩にすれ違いざま声をかけられて、俺は曖昧に頷くと、コートの隅の方へとぼとぼと歩いていった。
「いつもの左海君らしくないじゃない。あの女とセックスでもして、疲れてるの?」
梓が近づいて来る。俺にしか聞こえないような声で、尋ねてきた。もっとも他のみんなは自分の事に集中していて、俺達の事など気にもとめていなかったけれど。
「なんでもない」
俺はぶっきらぼうにそう言って、梓からタオルを受け取り、汗を拭いた。
それにしても梓は、俺と伊織さんの関係を言いふらすか、俺の弱みとして使うかと思ったのに、ちゃんと秘密にしてくれているなんて、意外だ。彼女と恋人同士になるのはごめんだけど、友達としてなら充分だ。
「それより、梓はどうなんだよ。その、うまくいってるのか?」
「うん。左海君と似てるわね、あの子。かわいいわ」
終業式の日、どうやら梓は大塚に告白されたらしい。梓の事だから、蹴散らすのかと思ったら、「すんなりとOKしてくれた」と大塚が喜んでいた。
俺といい、大塚といい、梓は、好きになる男のタイプが変わってるなと思った。
一般的にモテるのはサバクだろうと、刈屋と俺で話していたら、サバクは「あ、それ奏太のお世辞じゃなかったんだ」と驚く始末で、ますます悔しがっていた。
そんなサバクに、俺は一度も声をかけられることもなく、部活は終わった。
「新キャプテンは厳しいわね」
梓が言うと、「練習に集中してなかったこいつが悪いんだよ」と、俺を指差してサバクが答えた。
もっともだ。だから、反論は出来ない。
「まさかお前、イオリさんの事考えてたんじゃないだろうな」
サバクに詰め寄られる。俺が答えられずにいると、彼は大袈裟にため息をついた。
「実生活に影響を及ぼすような付き合いをしてるんなら、別れろよ。お前と一緒に行動するオレらが迷惑なんだよ!」
サバクは、嫉妬で言っているのではなく、本当にそう思っているらしかった。
確かにそうだ。恋愛にばかり気を取られて実生活が疎かになっているような人とは、一緒にいたくない。だからこそ、俺は伊織さんと大事な話をしにいかなければならないのだ。
「ごめん、サバク」
「ごめんなんて、口ではいくらでも言えるよな」
サバクはそっぽを向いて言ったが、本気で怒っているわけじゃないんだと、声色で察した。
「あさってから、気をつけるよ」
明日は、部活が休みだ。伊織さんと会う日、明日に全てを終わらせて、サバクに迷惑をかけないようにしたい。
「その言葉、忘れんなよ」
サバクに念を押されて、俺はおそるおそる頷いた。
「じゃあ、帰るか、奏太」
「うん」
俺は今まで、サバクが本気で怒ったのを見た事がない。俺はよく彼を怒らせてしまうけれど(あれ、なんか矛盾してる)、酷い罵声を浴びせられたり、暴力を振るわれたことは、一度もないのだ。
「サバクって優しいね」
「はあ? お前いきなり何言ってんだよ。照れるじゃんか」
「だって、ホントだも」
「オマエ、かわいーなー!!」
俺は突然、言葉を遮られて、羽交い締めにされた。
サバクはその後、俺にオレンジジュースを奢ってくれ、終いには「また明後日なー!!」などと叫んで見送ってくれた。単純な奴だと嗤うような真似はしない。俺はただ、そんなサバクの期待を裏切らないよう、明日、頑張るだけだ。
「伊織さんに会って、直接言いたいことがあります」
珍しく、俺は電話をかけた。空手少年の事をふと思い出した次の日、学校が終わった後のことだった。
「何かしらってここで尋ねても、答えてはくれないんでしょう? 月末になるけど、いいかしら」
「いつでもいいけど、なるべく早く」
月末だったら、もう学校は夏休みだなと思いながら、俺は答えた。
「分かったわ。シフトを見て、また連絡する」
「うん、楽しみにしてる」
俺はそう言って、伊織さんが「わた」と言いかけたのに、勢い余って電話を切ってしまった。
「私もよ」とでも言ってくれようとしたのだろうか。かけ直すのも気まずいと感じたので、俺はそのまま放置することにした。何か大切な事を言おうとしていたとしたら、メッセージが来るだろう。
何時間待っても(とはいえ、電話が終わった数分後には寝ていたのだけど)、伊織さんからの連絡は無かったので、やはり「わた」に続く用件は大したことではなかったのだと、自分の中で結論付けた。
目を開けると、朝日がカーテンの隙間から覗き込んでいた。いつの間にか、朝になっていたのだ。
今日も朝練か……と、ポリポリ頭をかいていたら、階下でキッチンの音がした。
時計は、六時をさしている。
「やばっ!」
寝坊していることに気づいた瞬間、一気に覚醒した。パジャマを脱ぎ捨て、制服に着替える。
今頃、伊織さんは寝ているだろう。夢で、俺の事を見てくれているかなと思ったけれど、もしかしたらカラスジュウゾウジ キョウイチの事を見ているかもしれない。夢は夢だ。気にするなと自分に言い聞かせる。
リビングに入るなり、「わ!」と言ったら、母さんに冷たい目で見られた。
「朝から、何言ってんの?」
母さんは、驚いた様子など微塵も見せず、むしろ呆れたように呟いた。
「べ、別に」
気まずくなった俺はモゴモゴと言うと、ダイニングの席について、母さんが作ってくれていた目玉焼きをつついた。
「ねえねえねえねえ奏太、ところであんた、彼女いるでしょ?」
ブハッと、危うく母さんに口の中の黄身をぶちまけるところだった。
「あ、動揺してる。バレバレよ。親の目をごまかせるとでも思ってるのかしら」
何も言えず、俺はただ、朝ごはんを黙々と食べ続けていた。
「今度紹介しなさいよ。家に連れて来なさい」
「い、いやだ」
「あら、どうしてよ」
伊織さんを見たら、母さん、びっくりするよ。母さんのほうが歳、近いもん。
俺はその言葉を、ぐっと飲み込んだ。
「嫌なものは嫌なんだ!母さんだって、俺ぐらいの歳の時、恋人を連れて来いって言われるのは嫌だったはずだ」
「あら、私は女だから、どちらかと言えば連れていかれる方だったけど。それともなあに? アンタは彼女のご両親に挨拶はしたのかしら」
「伊織さんの両親なんか、会ったことない!」
「いおりさんって言うのね、あんたの彼女」
しまったと思った。少し油断すれば、すぐ口を滑らせてしまうのは、俺の悪い癖だ。
でも、名前がばれたからといって、伊織さんが特定されるはずがない。ましてや母さんは、俺が十二歳も年上の女性と付き合っているとは、夢にも思っていないだろう。
「朝練遅れるからもう行く」
俺は、そう言って、話を強引に切り上げると、食器を流し台に置いて、そそくさと家を出た。
「左海くん、早くドリンク飲んじゃってよ」
「うおう、最近の須藤さんこわいな」
「馬鹿じゃないのサバク、アタシはいつもと同じよ」
「そして俺に冷たいのは、相変わらずだな」
サバクと梓がそんな会話をしている傍らで、俺はタオルを首からかけながらクエン酸入りのドリンクを飲んでいた。
「……すっぱい」
いっその事、床に捨ててやろうかと思ったけど、せっかくの水分を無駄にしたくない。俺の、悲しいほどにいやしい性に腹が立つ。
「いいな、奏太は。須藤さんはお前が疲れないように特別なドリンクを作ってくれてるみたいだな」
「梓は、俺をいじめたいだけだ……」
「あらあ! このあたしが、左海くんをいじめたいなんて考えると思ってるの? どうして? 左海くんが香坂伊織にとられたから?」
梓の発言に、サバクはギョッとしたように俺を見たので、「見つかっちゃったんだ」と言ったら、彼は大笑いした。
「お前、あれだけ隠してたのに、いとも簡単に須藤さんに知られてるんじゃん。馬鹿だなー」
「梓には、この間の試合の時にはもうばれてたよ」
「へえ、そりゃすげえや。須藤さん、こえーな」
一体何が「すげえ」のかはちっとも分からないけど、梓が「こえー」のは何となく共感出来た。
「失礼ね! サバク」
「はいはいはい、失礼いたしました!!」
サバクと梓のやりとりを聞いて、俺は笑った。この二人が付き合う事は、まずないだろう。
ようやく飲み干したドリンクのボトルを梓に返す。ひったくるように梓が受け取って、洗い場に行った後、俺達は着替えをすませ、教室に行く準備をした。
「奏太」
妙に静かな体育館のロッカールームで、俺はサバクに名を呼ばれた。やけに真剣な声だ。さっきまでのちゃらけた様子は、どこにもない。
「なに?」
「オレの母さんがさ、パートを始めるらしくて」
「うん」
唐突だな、と思った。どうしてサバクのお母さんの事を聞かされるんだろうと考えていたら、そのまま彼は言葉を続けた。
「で、一緒に求人情報を見てたんだ。そしたら、イオリさんが勤めてる書店と一緒の名前の書店が、隣の町に出来るらしくて、その求人が載ってた」
「へえ」
凄いなとは思ったが、それがどうしたというのか。例えば伊織さんがその新店舗に転勤するというなら大変だけど、まだそう決まっているわけではない。もし、すでに話がまとまっていたとしたら、伊織さんは俺に教えてくれるはずだ。
「奏太、お前、大丈夫なのか?」
「なにが?」
聞き返した俺をチラリと見て、サバクは大袈裟にため息をついた。お前、馬鹿だな。ホントに馬鹿だな。なぜか、そう言われたような気分になった。
「イオリさんだよ。あの人、社員なんだろ?……新店舗の従業員として、キャリアの長い社員が転勤なんて話、よくあるじゃん」
よくあるじゃんと言われても、知らない。でも、サバクまで同じような事を考えていると知り、やはりそんなこともあるのかもしれないと、心配になった。
「隣町だろ? もし転勤したとしても、もう会えないわけじゃないんだから、大丈夫だよ」
「ならいいけどな。あ、そうだ。今日、進路希望用紙の提出だったよな。お前、持ってきたか?」
「なにそれ」
俺の返答に、サバクの動きが止まった。
「お前、もう高二だぞ。高二の夏だぞ。しかもここは一応進学校だぞ。よくそんなくだらない冗談が言えるよな、奏太」
冗談のつもりで言ったわけではない。今の今まで、サバクに言われるまで、そんなものの存在はすっかり忘れていたのだ。
「……俺、進学はしない、かな」
「へえ、なんで?」
「サバクとは違って、夢があるわけじゃないし、大学行くってなったら、俺の成績だと国立は無理だし。何の目的もないのに大学行くくらいなら、働いたほうがいいかなって。……それに」
「それに?」
サバクが先を促してくる。その顔を見ながら、普段はちゃらけているサバクが、自分の進路には真剣に取り組んでいるのだということを痛感した。
「卒業したら、伊織さんと結婚しようと思う」
だから、そんなサバクに触発されて、真剣な顔で、俺は言葉を続けた。
「へえ」
驚くのかと思ったら、サバクは感心したように呟いた。
「いいんじゃねえの。奏太の進路は、奏太のものだし、いっその事、調査票に『結婚』とでも書いておくのもいいかもな。うん」
「サバクは、国立だろ。見かけによらず、成績いいもんな」
「まあな」
サバクは、照れることも、否定もしなかった。
教科のいくつかは、学年一位という輝かしい功績を持っている彼なら、国立大学も余裕で射程範囲内なのだろう。
夢がある人はその夢に向かって、努力を惜しまないんだなと、サバクを見ていると分かる。
サバクの夢が叶って、彼が本当に人を裁く立場に就いた時、俺は何をしているのだろうか。自分の未来の姿が、今は何も見えない。
そう考えると、寂しさと不安を、一度に感じた。
伊織さんと出会える日が、夏休みに入ってから七日目の木曜日に決まった。
一学期の終業式が終わると、クラスメイトとは急に疎遠になった。大塚や刈屋は俺に連絡ひとつしてこないし、ほぼ毎日会っているのはサバクくらいだ。
しかしそれも部活があるからで、俺は友達が少ないんだと思い知らされた。別にそれを悲観しているわけじゃない。誰かと一緒にいるのは、その人数が多いほど疲れるし、サバクという親友がいるから別に多くの友達などは求めていない。
それに俺には、なんと言ったって、伊織さんがいる。あらゆる人にその存在がばれてしまった、俺の彼女だ。紛れも無い、愛しい存在なのだ。
「おら、ボーッとしてんなよ、ばか奏太!!」
サバクの怒鳴り声にも近い声が耳に入ってきて、俺は慌ててとんできたボールを受けとった。
試合形式の練習でボーッとするなんて、俺はどれだけ伊織さんに夢中なんだろう。恋に溺れるという比喩は、こんな時に使うのだろうなと、思った。
「奏太! オマエ、やる気あんのかよ!!」
またもやサバクの怒号が飛んできて、俺はすでに相手チームにボールを奪われていることに気付いた。
「もういい! オマエ、交代。坂元、チェンジ!!」
サバクは、コートの外ににいた一年生の部員を呼び寄せて、俺と代わるように指示を出した。
「大丈夫っすか、左海さん」
後輩にすれ違いざま声をかけられて、俺は曖昧に頷くと、コートの隅の方へとぼとぼと歩いていった。
「いつもの左海君らしくないじゃない。あの女とセックスでもして、疲れてるの?」
梓が近づいて来る。俺にしか聞こえないような声で、尋ねてきた。もっとも他のみんなは自分の事に集中していて、俺達の事など気にもとめていなかったけれど。
「なんでもない」
俺はぶっきらぼうにそう言って、梓からタオルを受け取り、汗を拭いた。
それにしても梓は、俺と伊織さんの関係を言いふらすか、俺の弱みとして使うかと思ったのに、ちゃんと秘密にしてくれているなんて、意外だ。彼女と恋人同士になるのはごめんだけど、友達としてなら充分だ。
「それより、梓はどうなんだよ。その、うまくいってるのか?」
「うん。左海君と似てるわね、あの子。かわいいわ」
終業式の日、どうやら梓は大塚に告白されたらしい。梓の事だから、蹴散らすのかと思ったら、「すんなりとOKしてくれた」と大塚が喜んでいた。
俺といい、大塚といい、梓は、好きになる男のタイプが変わってるなと思った。
一般的にモテるのはサバクだろうと、刈屋と俺で話していたら、サバクは「あ、それ奏太のお世辞じゃなかったんだ」と驚く始末で、ますます悔しがっていた。
そんなサバクに、俺は一度も声をかけられることもなく、部活は終わった。
「新キャプテンは厳しいわね」
梓が言うと、「練習に集中してなかったこいつが悪いんだよ」と、俺を指差してサバクが答えた。
もっともだ。だから、反論は出来ない。
「まさかお前、イオリさんの事考えてたんじゃないだろうな」
サバクに詰め寄られる。俺が答えられずにいると、彼は大袈裟にため息をついた。
「実生活に影響を及ぼすような付き合いをしてるんなら、別れろよ。お前と一緒に行動するオレらが迷惑なんだよ!」
サバクは、嫉妬で言っているのではなく、本当にそう思っているらしかった。
確かにそうだ。恋愛にばかり気を取られて実生活が疎かになっているような人とは、一緒にいたくない。だからこそ、俺は伊織さんと大事な話をしにいかなければならないのだ。
「ごめん、サバク」
「ごめんなんて、口ではいくらでも言えるよな」
サバクはそっぽを向いて言ったが、本気で怒っているわけじゃないんだと、声色で察した。
「あさってから、気をつけるよ」
明日は、部活が休みだ。伊織さんと会う日、明日に全てを終わらせて、サバクに迷惑をかけないようにしたい。
「その言葉、忘れんなよ」
サバクに念を押されて、俺はおそるおそる頷いた。
「じゃあ、帰るか、奏太」
「うん」
俺は今まで、サバクが本気で怒ったのを見た事がない。俺はよく彼を怒らせてしまうけれど(あれ、なんか矛盾してる)、酷い罵声を浴びせられたり、暴力を振るわれたことは、一度もないのだ。
「サバクって優しいね」
「はあ? お前いきなり何言ってんだよ。照れるじゃんか」
「だって、ホントだも」
「オマエ、かわいーなー!!」
俺は突然、言葉を遮られて、羽交い締めにされた。
サバクはその後、俺にオレンジジュースを奢ってくれ、終いには「また明後日なー!!」などと叫んで見送ってくれた。単純な奴だと嗤うような真似はしない。俺はただ、そんなサバクの期待を裏切らないよう、明日、頑張るだけだ。
