アンダンテ・アマービレ


 1

 「左海くん、アタシの親が不動産屋ってことは、知ってるわよね」
 昼休みに、トイレの手洗い場で手を洗っていた俺に梓が近付いてきたかと思うと、唐突にそう言われた。
 「う、うん」
 意表をつかれ、俺はどもりながら答えた。まだ俺が梓とラインをしていた時、そういえばそんな事を彼女自身が言っていた気がする。
 「なら、話は早いわ。左海くんこの間、夕方に大きなマンションから出てきたでしょ。あ、ちなみに嘘ついても無駄よ。アタシ、ちゃんと見てたんだから」
 「うん」
 ごまかす必要もないし、ごまかしたら余計に話がこじれそうだから、俺は素直に頷いた。
 「左海くんの新しい彼女にでも、会いに行ってたの? あ、サバクに会いに行ってたとか、くだらない嘘は言わないでね」
 梓の口ぶりからして、もう全てがばれているんだと思った。
 「そ、それが、どうかしたのか?」
 俺は虚勢を張りながらそう聞いたが、自分でも声が震えているのが分かった。
 「左海くんの綺麗な新しい彼女、香坂さんって名前だったわよね。でもね、あのマンションには、そんな名前で契約している人なんて、一人もいないわよ」
 「な、何が言いたいんだよ、それがどうしたんだよ」
 「相変わらず左海くんは鈍いわね。分からない? つまりあの人には、左海くんの他に恋人がいるってこと。左海くん、彼女に遊ばれてるんじゃない?」
 「デタラメ言うな!」
 俺は思わず声を荒げてしまった。周りに誰もいないのが幸いだった。
 「デタラメなんかじゃないわ。可哀相な左海くん。私ね、あなたのために真相を確かめようと思って、色々調べたの。マンションのエントランスにあるポストに『香坂』って書いてあった部屋の契約者の名前もね」
 「もういい、聞きたくない」
 顔をしかめて、梓から離れようとしたが、「逃げるの?」と言われて、なぜか後ろめたくなって、踏みとどまった。
 「左海くん、現実から目を背けちゃダメ。ちゃんと向き合わなきゃ」
 「そんな、大袈裟な……」
 「あの部屋を契約してる人の名前は、烏十造寺京一という男の人よ。言いにくい名前ね」
 梓は、俺の呟きを無視して、話を続けた。彼女の口から出たのは、聞くからにお金持ちそうな男の人の名前だ。珍しい名字だなとか思っている余裕はなく、むしろ絶望が少しずつ顔を覗かせはじめていた。
 「伊織さんは浮気なんかする人じゃない。梓は、俺が伊織さんと付き合うのが嫌だから、そう言っているだけだろ!」
 「一途ね。やっぱりあの女と付き合ってるんじゃない。あんなおばさんの、どこがいいの?」
 「うるさい! 伊織さんは、確かに年齢は上かもしれないけれど、恋愛に歳の差なんて関係ないだろ!」
 「たとえ、あの女に遊ばれてても、左海くんはそれで満足なわけね」
 「だから、伊織さんはそんなことするような人じゃないって……」
 「いい? 人はみかけによらないの。ああいう、バリバリのキャリアウーマンって感じの人で、高級マンションに住んでて、何不自由ない生活を送れているように見える人に限って、愛には飢えているものよ。書店員の安月給で、あんなマンションに住めるっていうのも怪しいわね」
 「なんで伊織さんの仕事が書店員だって知ってんだよ。しかも、安月給って言ったからには、社員だって事も知ってるんだろ?」
 俺の問いかけに、梓はほんの一瞬、面食らったような表情になったが、すぐに取り繕って、俺をせせら笑うような顔に戻った。
 「左海くんは、アタシが滅多に本屋に行かないとでも思ってるのね。こう見えてアタシ、読書好きなのよ」
 「漫画しか、読まないくせに」
 俺の突っ込みに、梓はムッとしたようだ。
 「今はアタシの趣味なんて、関係ないでしょ!」
 そう言って、俺を睨んできた。こうして言い争いじみた事をしている自分は、あまり好きじゃない。
 誰かを怒らせるのは、嫌いだ。出来れば穏便に事を済ませたいと思う。だけど今の俺は、伊織さんのためにも、後には引けないのだ。相手は梓だ。へたに下手に出れば、きっと言い負かされてしまう。
 「……どこが、いいの?」
 「え」
 梓の声の調子が変わる。感情のトーンがひとつ下がったようだ。
 「あんな女の、どこがいいの?こそこそ隠れてする恋愛の、何がいいの?」
 梓は、冷静な態度を取りながらも、どこか必死だった。だから俺は、優しく答えた。
 「上手くいかないところ。俺達は十二歳も歳が離れてるし、世間に関係を隠したいと思うし、それが苦しくもあるんだけど、その苦しみも含めて、伊織さんに対して抱く感情を大切にしたいって思ってる」
 「なにそれ」
 俺の意に反して、梓は冷淡な声でそう返してきた。俺は少したじろいだが、梓のペースには乗らないと、ぐっと身構えた。
 「くっさい台詞を言って、アタシを上手く言いくるめたつもり?」
 「ち、違う。俺はただホントのこと」
 「ええ、そうでしょう。左海くんが嘘をついたらすぐ分かるから、さっきのは本音だって分かるわ」
 「だったら、俺の気持ちも分かってくれよ。俺は、伊織さんとの関係を、誰にも邪魔されたくないんだ。もしまだ梓が、俺の事を好きなら、尚更だよ。俺は梓に悪いと思ってるから……その、ライン勝手にやめて」
 俺がそう言うと、梓は鼻で笑った。
 「ホントに純粋なのね、左海くん。どうして他の女子達は、そんな左海くんに気付かないんだろう。……でもね、純粋だから人を傷付ける事もあるのよ。それだけは、覚えておけばいいわ」
 まるで梓以外の女子生徒が、俺の純粋さに気付けば、途端に俺がちやほやされだすのだと言いたげな梓の発言を聞いて、心が疼いた。
 全くモテたくないというわけではないけれど、顔を合わす女子達全員に好意をむき出しにされて囲まれるのは嫌だ。そういうのは、サバクに任せておけばいい。あいつは、俺よりもかっこいいから。
 「そういうことだから」と言って、梓が去っていく。
 俺は呼び止める事も追いかける事もしなかった。どうせ戻る方向は同じなのに、しばらく梓の後ろ姿を眺めていた。
 あいつは、何を思って俺なんかを好きになってくれたんだろう。叶わない恋だと知って、それでも尚、諦められなかったのだろうか。
 多分、梓は、俺と伊織さんの関係については、あの試合の日に気付いただのろう。
 あの日俺の耳元で聞こえた、「白々しいんだよ、ババア」という恐ろしい台詞は、どう考えても幻聴ではない。梓は、それでも俺を想い続けてくれていたのだから、本当に純粋なのは、彼女の方かもしれないと俺は思った。
 「そーたー!! お前どこ行ってたんだよ。もうすぐ昼休み終わるだろ! さてはオレらの相手をするのが嫌だったから逃げてたんだな!?」
 教室に入るなり、俺はサバクに耳元で騒がれた。
 「サバクくん、奏太くんがいないから寂しがってたよぉ」
 サバクの背後にやって来て、ニヤニヤしながら言ったのは大塚だ。
 「お前、ふざけんなぁ!!」
 声高らかにそう言ったサバクの機嫌は、今日はすこぶるいいらしい。俺の自慢話を聞いてもらうには、うってつけのタイミングだ。
 「サバク、放課後、話があるんだ」
 俺がそう言うと、サバクは「お、なんだなんだ?」と聞いてきたので「自慢話」と答えておいた。サバクが噴き出し、大塚や刈屋までつられて笑い出した。
 「な、なんで笑うんだよ」
 「奏太くん、素直すぎるもん。僕、思わずいいこいいこしてあげたくなったよ」
 「大塚、きもい」
 俺が露骨に嫌な顔をすると、大塚は「ごめんね」とやけにしょんぼりと呟いた。
 「いいぞ。素直な奏太くんのために、この俺がたっぷりと自慢話を聞いてやろうじゃねえか。あー、早く部活終わんねえかな」
 サバクはやっぱり上機嫌だ。まだ部活なんて始まってもいないのに、そう言って大笑いしている。
 「奏太さまはどうやらサバクがお気に入りみたいだからな、オレ達みたいな放課後に何の用もない奴らは眼中にもないらしいぜ、大塚」
 刈屋は、やけに自虐めいた発言をして、大塚に同情を求めている。大塚も「ひどいねー」と同調して、それでも二人でニヤニヤと笑っていた。
 一瞬、刈屋と大塚も俺と伊織さんの関係を知っているんじゃないかと危惧したが、そんなはずはないと自分に言い聞かせた。
 結局何事もなく、午後の授業と部活が終わり、俺とサバクは、体育館の入口にあるベンチに腰掛けて、ぼうっと部活帰りの人波が消えるのを待っていた。
 「で、何なんだ? 自慢話って。大体予想はつくけどな」
 ざわめきも無くなり、人の気配すら感じられなくなった頃、サバクが唐突に聞いてきた。
 「伊織さんの事」と俺が言うと、サバクは「やっぱなー」と苦笑した。
 「伊織さん、俺のためにペアのカップを用意してくれてたんだ。でも、恥ずかしかったのかな。食器棚の奥に入ってた。他のシンプルな食器とは違うデザインだったから、すぐにばれるのにな」
 俺は言い終えてサバクの顔を見たが、数秒後に彼が言った言葉は、俺の期待を裏切るものだった。
 「お前馬鹿だなー。そのカップ、絶対お前のためのものじゃないって」
 「え?」
 「あのな奏太、普通お前のために用意したカップなら、真っ先に見せてくると思うぞ。仮に秘密にしておきたかったら、お前に食器棚を触らせないか、全く別の所に隠しておくもんなんだよ」
 「で、でも、サバクは伊織さんじゃないだろ。伊織さんは隠してるつもりだったかもしれないじゃんか」
 「お前、小学生かよ! 頑固な奴だなあ」
 「俺は、自分が思った事を言っただけだもん」
 自分でも、必死に言い訳してるんだと分かる。サバクに突き付けられた現実を認めたくないからだ。
 「イオリさんには、お前の他に恋人がいたんだろうな。それが元カレだとしてもおかしくない年齢なんだろ?」
 「う、うん」
 俺は渋々頷いた。伊織さんは美人だから、彼女に近寄る男は何人もいただろう。その中には伊織さんも惹かれた男がいて、付き合った事もあるのかもしれない。
 「伊織さん、浮気したりしてないよね」
 不安げにそう言った俺を、サバクはまじまじと見つめてきた。
 「まさかお前、イオリさんを疑ってんのか?」
 「違う! 違うよ、でも」
 言葉につまる。さっきの発言は、少しでも彼女を疑ったから口をついて出たものじゃないか。
 「もし、伊織さんが俺とは違う男の人と付き合ってて、あのカップを隠してたんだとしたら、俺、やだな」
 「ハハッ、優しいお前でも、彼女の浮気は許さねえんだ」
 「当たり前だろ。浮気は駄目だ。俺もしないから、伊織さんもしないでほしい」
 「じゃあさ、イオリさんが他の男に心移りしないうちに、お前がちゃんと言えばいいじゃん」
 「なにを?」
 「そんぐらい、自分で考えろよ」
 サバクはニヤニヤと笑って、俺の顔を見る。結婚。その二文字の言葉が、俺の頭に浮かんだ。
 「奏太、オレに彼女が出来るためにはどうすればいいと思う?」
 サバクは、地面に落ちていた石ころを、植え込みに向かって投げながら聞いてきた。
 「今すぐにでもヤりたいって感じのオーラを無くせばいいと思うな」
 「はー!? なんだよ、それ。オレ、そんなオーラ出てんのか?」
 「うん。女の子の話してる時とか、今にも鼻息が聞こえてきそうだよ」
 サバクをからかえるという、滅多にない機会に、俺は優越感に浸っていた。サバクは「マジかー。それ、ショックだなあ」と少し落ち込んだそぶりを見せる。
 「もっとおとなしいふりをしていればいいのかもしれないよ」
 とどめの一言をサバクに突き刺して、俺は「帰ろ」と立ち上がる。機械的に腰を上げたサバクを横目で確認してから、俺は歩き出した。
 「いや、絶対それお前の思い込みだって」
 しばらくして、サバクが突然そう言ってきたけれど、一瞬何の事か分からなかった。間を置いて、さっきの話の続きだと気付く。
 「違うよ。みーんなそう思ってるって。だから彼女が出来ないんだよ」
 ちょっと調子に乗りすぎた気がする。俺が伊織さんと付き合ってるのをいいことに、サバクをいじめてるみたいだ。
 「ごめんサバク、言いすぎた」
 一応、早めに謝っておく。親友との関係が少しでも気まずくなるのは嫌だ。
 「別にホントの事なら、いいんじゃねーの」
 サバクの返事を聞いて、ホッとする。それなら良かったかなと、心の中で呟いた。
 「はー。オレも早く恋したいなー。チクショウ、何で奏太に彼女がいるんだよぉ!」
 サバクの嘆きは、沈みかけの夕陽に溶けて消えた。でも、そこまで悲観することはない。サバクだって、外見も内面もかっこいいのだから、いつかは振り向いてくれる人が現れるはずだ。
 サバクの言う通り、もたもたしていたら、誰かに伊織さんを奪われてしまうかもしれない。
 伊織さんはそう簡単に他の男に心移りするような軽い女ではないだろうけど、一寸先は闇、何が起こるか分からないのだ。
 念には念を、ということかもしれない。伊織さんの本当の気持ちを確かめるだなんて、女々しい行動はしたくないけれど、彼女の気持ちを聞かなければいけない日が来ないとは言いきれない。
 「じゃあな」
 そう言って、サバクは俺に手を振って違う道を歩いていく。一日の終わりはいつもそうだ。
 高校生活もそんなふうにいつか終わりが来る。その時が来て、サバクと手を振って別れた時、俺は伊織さんとどうなっているだろう。
 不安は尽きない。人を好きになるというのは、不安との葛藤なのかもしれない。