3
「奏太!」
正午すぎ、今日は短かった部活が終わった。梓にもらったドリンクボトルを持ったまま、体育館のステージに腰掛けてボーっとしていた俺にサバクが声をかけてくる。
「シャワー浴びてこいよ、そんな汗くさい体じゃ、イロリさんに失礼だぜ」
「誰だよ、イロリって……」
俺、そんなに臭いかな。そんなことを思いながら、サバクの頭をはたく。
「あれ? い●※△×さん?」
「殺すぞ、サバク」
冷たい声で静かに言った俺の言葉を聞いて、サバクはそれっきり何も言わなくなった。
俺は梓に空のボトルを返すと、体育館を出て、グラウンドの部室棟にあるシャワールームへと向かった。サバクに言われなくとも、俺はシャワーを浴びてからイロ……伊織さんに会いに行く予定だった。鞄にはシャワーを浴びた後に着るつもりの着替えが入っている。
シャワールームには、誰一人いなかった。中は個室のように仕切られているから、誰がいても気にすることはないけれど、貸切気分も悪くない。
俺は汗をたっぷり吸い込んだ練習着を床に脱ぎ捨てると、すぐにシャワーの元へ行って蛇口をひねった。
———伊織さん……。怒っているかな。
「会いたいの」とわざわざ送ってきてくれたメッセージには、どう返せばいいのか思いつかなくて返信をしていない。つまり俺は、今日唐突に伊織さんの家を訪れるということだ。
この間も、俺は伊織さんの家を突然訪問した。驚きつつも俺を招き入れてくれた伊織さん。今はあのときと同じ気持ちには、なれない。
自分が作り出してしまった温度差を元に戻すために、俺にはやるべきことがある。
それは素直に謝ることだ。お詫びにと言って、菓子折や花束を添えるのは、俺にはふさわしくない行為だ。なんだか白々しい感じがするし、もっと伊織さんを怒らせてしまうかもしれない。自分の言葉だけで、伊織さんに詫びるつもりだ。
シャワーを止める。温かな水滴が、髪の先から体に落ちてくる。それはやがて床に流れていき、排水口の向こうへと吸い込まれていった。
流れていった水が循環して、いつかまた俺に降り注ぐという確率は、どれだけのものなのだろう。俺が伊織さんと出会えた確率と、どっちが大きいのだろう。
せっかく出会えて、さらには互いを好きになったのだから、その出会いを大切にしたい。もし、仮に別れてしまう状況に陥ってしまっても、そのときに悔いのないような付き合いをしていきたい。
シャワールームから出た俺は、水色の生地にヤシの木が描かれたタンクトップと、赤いハーフパンツに着替えて足早に学校を後にした。
俺は暑いのはあまり好きじゃないから、これくらいの軽装がちょうどいい。いつか、サバクに「子供みたいなカッコ」と笑われたが、子供だから仕方ないと言い返してやった。
ジリジリと辺りは暑いのに、体が小刻みに震える。ほんの一瞬、これから起こりうるかもしれない最悪のシナリオを思い浮かべてしまった。
ネガティブになるなと、自分に言い聞かせる。俺がちゃんと謝れば、伊織さんも分かってくれるはずだ。心に刻み込むように何度も思った後、伊織さんの部屋の扉の前に立った俺は、もう覚悟を決めていた。
伊織さんのマンションに着いたとき、エントランスで見た目からしてエリート街道を突き進んでいるかのようなスーツ姿の男の人とすれ違っただけで、伊織さんの部屋に着くまでは誰とも会わなかった。
これからおこるどんな展開も素直に受け入れようと、最後に自分に確認をして、俺は玄関のチャイムに手を伸ばした。
チャイムを鳴らしてしばらく待っていると、この間のように、扉の向こうでなにかにぶつかったような音は聞こえないまま、扉が開いた。
顔を上げると、そこには、怒ったような表情の伊織さんが立っていたので、俺はごくりと唾を飲み込んで、身構えるように体勢を整えた。
「こんにちは。お久しぶりです」
躊躇いがちに挨拶をする。呑気にこんにちはなんてほざいている場合じゃないぞと、自分に言い聞かせながら。
「久しぶりね、『左海くん』。とりあえず家、入ったら?」
伊織さんの冷たい声を聞いて、俺はひえっと声をあげそうになった。「左海くん」という響きがすごくよそよそしくて、伊織さんの想いの全てがそこにこもっているような気がした。
このままじゃいけない。俺はそう思って、ゆっくりと口を開いた。
「ここでいいです。い、伊織さん……この間は、ごめんなさい。俺、動揺してて、とんでもないことしてしまいました。許してもらえるまで伊織さんの家にはあがれません」
頭を下げる。ここは外なのにと、気にしている余裕もなかった。今言わなきゃ、いつ言うんだ。ただでさえ遅すぎるというのに。
伊織さんは許してくれるだろうか。俺の鼻先で、扉が閉まったりしないだろうか。びくびくしながらうつむいていると、しばらくして、静かな伊織さんの声がした。
「怒ってないわ。許すも何も私も謝らなきゃいけない。あなたに対する配慮が足りなかったんだから」
どうして伊織さんが謝っているんだろう。伊織さんは何も悪くないのにな。悪いのは俺で、ちゃんと謝らなきゃいけないのも、俺。伊織さんは、ただ聞いてくれるだけで良かったのに。だけど、互いに謝れた事で、なぜか俺の気持ちもすっきりした。
「外は暑かったでしょう? 冷たい飲み物でも出すから、入って」
笑顔でそう言ってくれた伊織さんに、俺も微笑み返してみる。靴を脱ぎ、きちんとそろえてから伊織さんの後ろについていく。歩きながら、俺は静かに口を開いた。
「俺、やっぱり伊織さんが大好きです」
独り言を言ったんだと、そう思われても良かったけど、伊織さんの歩みが止まって、ああ、ちゃんと聞いてくれたんだと分かった。
「私も、よ」
伊織さんもまた、独り言のような声色で、呟いた。どことなく、いつもの冷静な伊織さんを精一杯装っているかのような態度だったけれど、それは俺の気のせいなのかもしれない。
顔が真っ赤になった俺を、余裕そうな表情で一瞥した後、伊織さんは再び歩き出した。
「午前中は部活だったの?」
俺が持っている大きなバッグを見てそう言ったのだろう。伊織さんが唐突に尋ねてきた。
「あ、うん。部活終わってその足で来たから」
「じゃあお昼ご飯はまだね。私もまだなの。何か作るから、一緒に食べましょう」
伊織さんとご飯が食べられる。それも、どうやら手作りのものをご馳走してくれるみたいだ。俺は、一人でにやにやしながら、伊織さんに続いてリビングに入った。伊織さんは俺の顔をまたチラッと見たけれど、何も言わなかった。
気持ち悪い奴だと思われなかっただろうか。はたまた、卑しい奴だと思われなかっただろうか。
伊織さんはまっすぐに冷蔵庫のところまで歩いていった。中を調べながら、伊織さんは確かに何かを呟いたが、きっと「キャベツ」とか「豚肉」などと言ったのだろう。まさか、冷蔵庫に向かって「大好き」なんて言う人はいないはずだ。そう聞こえた、俺の耳が悪いのだろう。
「伊織さん、お昼ご飯は何?」
伊織さんの背中に話しかけてみる。
「鶏肉の照り焼きを丼にしようと思うんだけど、好き?」
伊織さんは材料を探すのに手間取っているのか、振り向かずに答えた。
「うん、好き!」
肉は何であろうと好きだ。一番好きなのは牛肉だけど、こう暑いと、鶏肉のあっさりとした淡白な味も恋しくなる。
伊織さんは俺の好物を、どうして知っているのだろう。一番の好物からは少し外れているけれど、そんなに俺って分かりやすい奴なんだろうか。
突っ立って伊織さんの様子を見ていると、やがて彼女は調理を始めた。
———なんか飲みたいな……。
俺はそう思って、伊織さんに呼びかけてみた。
「あの、伊織さん……」
料理の邪魔をしたかなと、手を止めてこちらを振り返った伊織さんを見て、思った。
「俺、喉がカラカラなんだけど、飲み物もらってもいい?」
「ごめんなさい。直ぐに出すわね」
伊織さんは静かに答えた。
それで余計に気まずくなった俺は、コップを出すくらい自分でやろうと思った。
「いいよ、自分でやるから。伊織さんはそのまま続けて料理しててよ」
「そう? 悪いわね」
伊織さんはそう言ったあと、一瞬冷蔵庫に視線を走らせて、言葉を続けた。
「食器棚からグラスを出してもらえる? オレンジジュースと麦茶、どっちがいい? アイスコーヒーもあるわよ」
「じゃあ麦茶で」
冷蔵庫の中は見られたくないのかな。もしかしてとても散らかっているのかな。俺は自分の想像で笑いそうになったせいか、ほんとはオレンジジュースが良かったのに、麦茶と答えてしまった。
俺はそのまま食器棚の所まで歩いていって、中を覗き込んだ。整理はきちんと行き届いていて綺麗なのだけれど、何せこの中を見るのは初めてなのだ。何がどこにあるか分からなくて、俺は一旦全体を見渡した後、ゆっくりと順番に食器の数々を見ていった。
しばらくして、グラスは見つけたが、俺はその奥にあるものに目がいった。
ペアのカップだ。取り出して、よく見てみる。
他の食器は白くて綺麗だけど素っ気ないものばかりなのに、そのカップだけは水色とピンクの色物で、ひときわ目立って見えたのだ。また、にやにやと笑いそうになる。
伊織さん、俺のためにこんなものを買っておいてくれたんだな。だけど、俺に見せるのは恥ずかしいから、奥に隠してたんだ。
甘いな、伊織さん。もう見つけちゃったもんね。伊織さんがもったいぶって出さないなら、俺が出してやろう。
俺はそう思って、テーブルの上に、二つのカップを置いた。
「伊織さんも飲むでしょ?」
それはせめてもの気遣いのつもりでもあった。伊織さんが麦茶のボトルを持って、こちらを向いた。そしてすぐに視線がカップに注がれる。
「伊織さん? どうかした?」
カップと俺を交互に見て、伊織さんは表情が固まっていた。びっくりさせちゃったかな。
「ああ、麦茶だったわね」
恥ずかしさをこらえているのか、伊織さんは一本調子で呟いたあと、こぽこぽと音を立てながら、麦茶をカップに注いでくれた。
「ありがとう!」
伊織さんの取り乱したような様子を面白いなと思いながらお礼を言って、俺は席についた。
「おまたせ。お代わりもあるから、たくさん食べてね」
それから十数分が経って、伊織さんが作った食事が俺の目の前に出された。湯気を上げているご飯の上に卵と鶏の照り焼きがのせてあって、刻み海苔で飾りつけがしてある。その横にお吸い物と、きゅうりの漬物が小鉢に入れられて置かれている。
きゅうりと伊織さんがどうしても結びつかなくて、また笑いそうになった。
「今日も練習がキツくて、もう腹ぺこだよ。ありがとう、伊織さん。いただきます」
「デザートもあるから、腹八分目にね」
すかさず箸を取った俺に、伊織さんは含み笑いを浮かべながら言った。デザートという言葉に反応したが、それよりも目の前の丼を早く食べたくて、俺は言葉もなく頷いた。
食べているあいだ、俺は一言も話さなかった。話すのが嫌だったわけじゃない。伊織さんの料理はやっぱりおいしくて、もっとこの味を堪能したいと思える。
お腹が朽ちるまで、食べたい。そんなことを思っていたからか、俺は伊織さんが一杯食べ終わるまでに、その倍の量を食べ終えていた。
「ご馳走様。凄く美味しかった。伊織さんって料理上手だね」
ありのままに感じたことを言う。そうすると、心がこもって相手に届くような気がした。
「ありがとう」
伊織さんはそう言って、頬を赤らめた。年上なのに、可愛いと思ってしまう。むしろ可愛いなんて思える気持ちに、相手の年齢なんて関係ない。可愛いものは、可愛いのだから。
「デザートは苺のカスタードクリームタルトを用意したの。ショートケーキじゃないけど、良かったかしら」
伊織さんは冷蔵庫から大きなお皿に入ったタルトを出してきて、俺の目の前に置いた。
「タルトも好きだよ。凄く美味しそう!」
伊織さんの手がラップを剥ぎ取り、右手に持ったナイフでタルトが切り分けられていく。大皿の横に用意していた小皿に、そのうちの一切れがのせられて、俺の前に置かれた。近くで見ると、まるでケーキ屋に並んでいるような出来栄えに見えた。
「奏太くん」
伊織さんに突然呼びかけられて、俺は慌ててタルトから視線を外して彼女を見上げた。
「ん?」
間抜けな声を出した俺の唇が、不意にふさがれる。ほんの一瞬、息も思考も止まった。
「これは『お礼』よ」
どこかで聞いたことのある言葉が、伊織さんの口から放たれる。
「え? え? お礼ってどういう意味で……?」
俺、伊織さんに何かしてあげたかな……。いつもなにかしてもらっている記憶しかない。ギブアンドテイクなんていうけれど、俺はそのかたっぽしか成し遂げていないのに。
「試合……、あの日とてもいい試合を見せてもらったから、その『お礼』よ」
「試合って……、負けちゃって、おまけに俺、情けなく泣いたりしたし、ちっともいいとこなしだったのに」
なんでだよ、どうして、あれが「いい試合」なんだよ。お世辞を言われるのは嫌いだ。いくら相手が伊織さんでも、嫌いだ。
「どうして? 勝たなきゃ格好悪いの? あなたは全力で戦った、そうでしょう? だから私はその姿から目が離せなかったし、流した涙さえ、とても綺麗だと思ったわ。私ね、本当に感動したのよ」
彼女の言葉を聞いた瞬間、ほんの数十秒前の自分を殴りたくなった。一度も彼女は軽はずみな発言なんてしていない。ただ、あの日の無様な俺にさえ感動してくれて、その想いを伝えてくれただけなのだ。
「伊織さん」
俺は衝動的に立ち上がると、伊織さんの体を引き寄せ。そっと抱いた。
「ありがとう」
伊織さんの優しい言葉に、俺は泣きそうになりながら、その一言を言うので精一杯だった。
「奏太くん……大好きよ」
驚く。まさか、伊織さんの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。押し殺したはずの感情がせり上がってきて、俺はまた涙をこらえる羽目になった。
この気持ちは一体、何なのだろう。よく分からない。ただ、目の前にいるこの愛しい人を、強く抱きしめたいと思った。涙目になった自分の顔を見られたくないという気持ちも手伝ってか、俺は伊織さんの肩に顔をうずめた。恥ずかしいという気持ちはなく、こうするしかないんだと、俺はただ頑なに思っていた。
「奏太くんに食べてもらいたくて作ったの。タルト食べましょう」
俺がしばらくして伊織さんから離れたとき、彼女は出し抜けにそう言った。
「う、うん」
頷いてみたものの、まだ自分の行動が信じられなくて、間の抜けた返事になってしまう。そして、目の前に苺がたくさんのったタルトが現れたというのに、俺は先ほどの丼のように素直に喜ぶことは出来なかった。
「口に合わなかったかしら?」
「そ、そうじゃないよ! お店で売ってるやつより美味しいって思うし。ただ……」
伊織さんが不安げな表情になったので、慌てて答える。だけど、その先を言うのには、少し躊躇われた。
「ただ?」
「伊織さんから直接『大好き』なんて言葉、初めて聞いたから」
違う。いや、おおまかに言えば伊織さんの「大好き」も気になったけれど、それとこの気持ちはまた違うんだ。
本当は分かっている。今だから、俺はそんな奴じゃないとか、必死でその気持ちを誤魔化すことはしない。誤魔化す必要はないのだ。
「お代わりは後にする」
残ったタルトにラップをかけて、冷蔵庫にしまう。その時俺は、伊織さんと自分の体を合わせ合って、好きだという気持ちを彼女に知って欲しいと思っていた。
伊織さんの前に立つ。驚いて見上げてきた伊織さんを見て、これ以上は無理だと思った。彼女の腕を掴んで、そっと立ち上がらせる。
「奏太くん?」
名前を呼ばれたが、その声には答えずに、彼女を引っ張って、寝室へと入っていった。
「シャワー浴びなくていいの?」
「大丈夫」
言いながら、伊織さんはもうすでに事の次第を理解しているんだと分かった。さすが、大人だな。
「俺は部活の後に浴びてきたし、伊織さん、このままでもいい匂いがする」
嘘ではない。伊織さんの体に顔をくっつけたとき、フッと、俺の全てを包んでくれるような香りが漂ってきたのだ。それさえもいとおしくて、シャワーの水ごときに香りを消さないで欲しいと思った。
伊織さん、俺、こんな気持ちになるの、初めてだ。正直今は、何も考えたくない。ただ、伊織さんと体を重ね合わせ、どんどん湧き上がってくる欲望に、従順になりたいんだ。
俺は伊織さんの唇に、何度もキスをした。相手を吸い込むような、それでいて舌を絡ませあうような濃厚なものではなかったけれど、気持ちは伝わっただろうか。伊織さんは、俺の首に腕を回し、唇が離れない様にと体を密着させてきた。
そのまま、ベッドへ体が沈む。ふわふわとしたマットの感触を受けながら、俺達はその時で一番深いキスを交わしあった。
「私ね、あなたから連絡もなくて、本当に寂しくて不安で仕方がなかったの」
キスが終わり、見つめ合うと、伊織さんは悲しげにそう言った。心臓がドキリとする。口より先に、手が動いていた。
彼女の耳の辺りの髪をすくい、頭を撫でる。
「伊織さん、ごめんなさい、もう心配かけません」
今は何も偽る気持ちなんてない。素直に謝って、彼女を安心させることだけが、俺のやるべきことだと思った。
「ありがとう」
伊織さんはそっと、目を閉じた。さっきの俺みたいに涙を誤魔化す為に目を閉じたんじゃないだろうか。
そんな気がして、俺は伊織さんのまぶたに、唇でそっと触れてみたら、塩辛い味がした。やっぱり泣いていたんだ。どうにかして、安心させてやりたい。そう思った俺は手を背中に回し、彼女のワンピースのチャックを一気に下ろした。
素肌があらわになる。俺はその白くて柔らかい素肌を、おそるおそる撫でていく。
「伊織さん、お、俺、こんな気持ちになったの、初めてで……」
戸惑っているのが丸分かりの口調になった。だけど、戸惑いも欲望もあらゆる気持ちがごちゃ混ぜになって、自分でも困るくらいに抑えきれなくなった。
「いいの。大丈夫よ。奏太くんの好きにしていいのよ」
だけど伊織さんはやさしくそう言ってくれる。しつこいと言われてもいいから、何度も「大好き」と言いたい。伊織さんは、俺だけのものだ。
誰にも渡すものか。俺は衝動的に服を脱ぎ捨て、伊織さんの上に覆いかぶさった。
伊織さんと抱き合っていると、自分の体が驚くほど熱いことに気付く。俺の体を熱くさせるのは、戸惑いか緊張か。それとも、性欲か。
「伊織さんの体、冷たくて気持ちいい」
「……ん」
伊織さんが頷くともつかない言葉を漏らす。
「奏太くん、好きよ……」
弱々しい言葉が、俺の耳朶にかかる。ああ、もうこれ以上、戸惑わせないで。その言葉は、俺が言いたいんだ。叫びたいんだ。
俺は、生まれて初めて、自分から望んで好きな女性を抱いた。初めて伊織さんと一夜をともにした日は、彼女から先に俺を包み込んできた。
だけど今日は、違うのだ。自分の行為を先導してくれる人もいなければ、咎める人もいない。仮に伊織さんが痛がったとしても、彼女はきっと俺を止めたりはしないだろう。
俺の体に、伊織さんが触れてくる。伊織さんのものとは違う、平べったい胸、腹、腰。
彼女の手が俺の体をすべるたびに、いちいち反応してしまう。伊織さんは、もっと俺を求めているんだ。なら、やってやる。伊織さんの体が動いて、ベッドが軋む。
快楽の声が、俺の耳を濡らした。ここは、水槽だ。二人の体温が同じ温度になるように仕組まれた、水槽なのだ。その中で、いつかと同じように、俺達は自分の欲を満たそうと泳ぐ、魚になった。
伊織さんは、幾度となく俺の名前を呼んだ。名前を呼ばれるたびに、体中を熱が閃光のように駆け巡る。汗をかき、息も切れてくる。
「伊織さん……」
声がかすれる。それはまるで不鮮明な俺達の未来を露呈しているかのようで、自分の声なのに、妙に耳に残る形となった。額に浮かぶ汗を、伊織さんの指がすくい取っていく。
俺は思わず、彼女のその手をつかんだ。そのまま体を引き寄せ、精一杯に包み込む。
「俺、伊織さんが好きです。前よりも、もっともっと好きになった」
今はただ、伊織さんと過ごす時間の事しか考えたくない。
人を好きになると、どうして独りが嫌になるのだろう。どうして、好きな相手といつまでも一緒にいたいと思ってしまうのだろう。
勉強も、部活も、学校も、今は少しだけ疎ましく思う。
そんなものに時間を使うより、ずっと伊織さんと一緒にいたいと思ってしまうのだ。
伊織さんは俺の胸に顔を近づけたかと思うと、次の瞬間、右の乳首の上に唇をつけてきた。
そのまま、その部分を強く吸われる。何故そんなにも強く、そしてこんなに長い間伊織さんがそうしているわけが分からなかった。
しばらくして、伊織さんが顔を上げる。伊織さんが唇をつけていたところを見ると、小さな赤紫色の斑点のようなものが出来ていた。その後伊織さんと目が合うと、彼女はニヤッと笑った。
いわゆるキスマークというものだというくらいは、理解出来た。理解出来たせいもあってか、伊織さんに見つめられて急に恥ずかしくなる。その気持ちを紛らわせるために、伊織さんにも同じものをつけてやろうと思った。
「それってどうやって付けるの?」
「肌の一カ所に集中して吸えばいいのよ」
伊織さんの声が優しく響く。
「俺も伊織さんに付けてもいい?」
「いいわよ。でも、服を着た時に隠れる場所にしてね。 じゃないと、店長に叱られちゃうわ」
一応断りをいれておいた。もし断られたら、どうしようかと思ったけれど、断られないだろうという根拠のない自信もあった。俺はおそるおそる伊織さんの右胸に唇をよせ、そっと吸った。そんな俺の行為を、伊織さんはどんな気持ちで受け止めてくれているのだろうと思うと、恥ずかしさはまだ拭いきれなかった。
「喉、渇かない? 何か冷たい飲み物でも持ってくるわね」
そう言って、平然とした顔で伊織さんが立ち上がったので、俺も平然としたふりをして「さっきのタルトも食べたい」と言った。
伊織さんは部屋の扉を開けながらクスクス笑ったけれど、俺が見せた虚勢なんて見透かされているのだろうか。伊織さんがいなくなった部屋は、とても静かだ。隣から、食器の音がかすかに聞こえる。音がたてては消え、たてては消える様を聞いて、儚いなあと思った。
この世に同じものはひとつとして無いというけれど、そうだとしたら伊織さんがたてるあの音も、きっと一瞬の命なんだろう。
俺は、伊織さんの一生の中での、一瞬の存在にはなりたくない。それはそれで印象的な気もするけれど、俺たちはせっかく出会ったのだ。いつまでも、隣同士の存在でいたい。
いつの間にか、寝てしまっていたみたいだ。
目を開けると、部屋がオレンジ色に染まっていた。今は夕方で、そういえばセックスをした時はまだ昼だったんだ。
そう思って、裸のままの自分の体を見ると、途端に恥ずかしくなった。普段の俺だったら到底成し得ない事を、勢いのあまりしでかしてしまった。
———凄いな、俺。
苦笑して、隣でまだ寝ている伊織さんを見る。
小さな寝息をたててすやすやと眠っている伊織さんを見ているうちに、また俺は彼女の体に手を伸ばしていた。
また覆いかぶさるような事は、しない。だが、彼女の皮膚をうっすらと撫でるように、あらゆる箇所に手を這わせた。
俺が寝てしまった時にも、伊織さんは同じ事をしたのだろうか。細長い指で、俺もあらゆるところを触られたのだろうか。
伊織さんの首筋を撫でた時に、彼女がぴくりと反応したのがちょっと面白くて、ニヤニヤしながら今度は唇に触れてみたら、彼女の目がパチリと開いた。
俺はすごく驚いて、まるで熱いものに触れてしまった時のような勢いで、手を引っ込めて真顔に戻った。
何もしていなかったふうを装って、たった今目覚めたふりをする。
「おはよう、伊織さん」
時間的に言えば、もうすぐ「こんばんは」なのになと思いながら、俺は言った。
「おはよう、奏太くん、まだ服、着てないのね」
そう言われて、俺は顔が真っ赤になった。
「き、着る」
ぼそぼそと言ってから、慌てて服を掴んだ。伊織さんはそんな俺を見て、クスクス笑った。
恥ずかしさを紛らわすために俺が「タルト」と呟いたけれど、伊織さんに「奏太くんが寝ちゃったから、私が食べちゃったの」と言われて余計に恥ずかしくなった。
「そ、そうなんだ」
俺はつとめて平静を装った。横目で、服を着ている伊織さんを見る。
会話をしようと思って口を開きかけたけど、人は動揺を隠す時に饒舌になりやすいと誰かが言っていたのを思い出して、何も言わなかった。
「今日は泊まっていくの?」
やがて、伊織さんが窓を開きながら聞いてきた。昼間とは違う、夕暮れの静かな風が薄いカーテンを揺らす。
だけどその風は、俺のところまでは届かなかった。
「……俺、門限があって。こないだ、母さんに怒られたから、今日は帰るよ」
初めて伊織さんと一夜を過ごした後、学校から家に帰った俺を待っていたのは、般若みたいな雰囲気の母さんだった。友達の家に泊まると言っていたはずだが、なぜかうまく伝わっていなかったようだ。
俺はその日、門限を夜の九時と決められた。一秒でも過ぎると、朝まで鍵は開かないとも言われた。
「母さんは意地悪なんだ。高校生の門限が九時だなんて、聞いたこともないよ」
「あら、私もそうだったわ。今のご時世、何が起こるか分からないから、きっとお母様も奏太くんの事が心配なんでしょう。むやみにお母様をせめるのもよくないわよ」
伊織さんにたしなめられて、俺は少し気まずくなった。別に母さんをせめるつもりはなかった。ただ、少し愚痴りたかっただけだと反論するのもよかったが、今の俺には伊織さんと言い争う勇気なんてない。
部屋にかかっている時計を見る。もうすぐ六時だ。せめて夏の、陽の長い間だけでも門限を伸ばしてくれないかなと思ったが、すぐに、どちらにせよ九時は、太陽なんてとっくに沈んでいるんだと自分で気付いた。
「俺、そろそろ帰るよ。今日はありがとう」
リビングに戻った俺の後を、伊織さんが静かについてくる。床に置いた鞄を肩にかけ、一度だけ伊織さんを見た後、玄関まで歩いていった。
「じゃあ、また」
「部活や勉強、頑張ってね。これ、持って帰って」
伊織さんが微笑む。白い紙袋に入れて渡されたのは、タルトだった。彼女が浮かべている笑みが寂しそうなものに見えたのは、気のせいだろうか。
扉を開けて外に出る時、俺はもう一度伊織さんを見た。いつか住む場所も同じ場所になればいい。そうすれば、夜も一緒にいられるのだ。
扉を閉める。途端に伊織さんとの世界は遮断され、夏のけだるい空気だけが俺を包み込んだ。
とりあえず高校を卒業するまでは、俺と伊織さんは今以上の関係にはなれない。
俺はその時初めて、十七歳という年齢に、嫌気がさした。
「奏太!」
正午すぎ、今日は短かった部活が終わった。梓にもらったドリンクボトルを持ったまま、体育館のステージに腰掛けてボーっとしていた俺にサバクが声をかけてくる。
「シャワー浴びてこいよ、そんな汗くさい体じゃ、イロリさんに失礼だぜ」
「誰だよ、イロリって……」
俺、そんなに臭いかな。そんなことを思いながら、サバクの頭をはたく。
「あれ? い●※△×さん?」
「殺すぞ、サバク」
冷たい声で静かに言った俺の言葉を聞いて、サバクはそれっきり何も言わなくなった。
俺は梓に空のボトルを返すと、体育館を出て、グラウンドの部室棟にあるシャワールームへと向かった。サバクに言われなくとも、俺はシャワーを浴びてからイロ……伊織さんに会いに行く予定だった。鞄にはシャワーを浴びた後に着るつもりの着替えが入っている。
シャワールームには、誰一人いなかった。中は個室のように仕切られているから、誰がいても気にすることはないけれど、貸切気分も悪くない。
俺は汗をたっぷり吸い込んだ練習着を床に脱ぎ捨てると、すぐにシャワーの元へ行って蛇口をひねった。
———伊織さん……。怒っているかな。
「会いたいの」とわざわざ送ってきてくれたメッセージには、どう返せばいいのか思いつかなくて返信をしていない。つまり俺は、今日唐突に伊織さんの家を訪れるということだ。
この間も、俺は伊織さんの家を突然訪問した。驚きつつも俺を招き入れてくれた伊織さん。今はあのときと同じ気持ちには、なれない。
自分が作り出してしまった温度差を元に戻すために、俺にはやるべきことがある。
それは素直に謝ることだ。お詫びにと言って、菓子折や花束を添えるのは、俺にはふさわしくない行為だ。なんだか白々しい感じがするし、もっと伊織さんを怒らせてしまうかもしれない。自分の言葉だけで、伊織さんに詫びるつもりだ。
シャワーを止める。温かな水滴が、髪の先から体に落ちてくる。それはやがて床に流れていき、排水口の向こうへと吸い込まれていった。
流れていった水が循環して、いつかまた俺に降り注ぐという確率は、どれだけのものなのだろう。俺が伊織さんと出会えた確率と、どっちが大きいのだろう。
せっかく出会えて、さらには互いを好きになったのだから、その出会いを大切にしたい。もし、仮に別れてしまう状況に陥ってしまっても、そのときに悔いのないような付き合いをしていきたい。
シャワールームから出た俺は、水色の生地にヤシの木が描かれたタンクトップと、赤いハーフパンツに着替えて足早に学校を後にした。
俺は暑いのはあまり好きじゃないから、これくらいの軽装がちょうどいい。いつか、サバクに「子供みたいなカッコ」と笑われたが、子供だから仕方ないと言い返してやった。
ジリジリと辺りは暑いのに、体が小刻みに震える。ほんの一瞬、これから起こりうるかもしれない最悪のシナリオを思い浮かべてしまった。
ネガティブになるなと、自分に言い聞かせる。俺がちゃんと謝れば、伊織さんも分かってくれるはずだ。心に刻み込むように何度も思った後、伊織さんの部屋の扉の前に立った俺は、もう覚悟を決めていた。
伊織さんのマンションに着いたとき、エントランスで見た目からしてエリート街道を突き進んでいるかのようなスーツ姿の男の人とすれ違っただけで、伊織さんの部屋に着くまでは誰とも会わなかった。
これからおこるどんな展開も素直に受け入れようと、最後に自分に確認をして、俺は玄関のチャイムに手を伸ばした。
チャイムを鳴らしてしばらく待っていると、この間のように、扉の向こうでなにかにぶつかったような音は聞こえないまま、扉が開いた。
顔を上げると、そこには、怒ったような表情の伊織さんが立っていたので、俺はごくりと唾を飲み込んで、身構えるように体勢を整えた。
「こんにちは。お久しぶりです」
躊躇いがちに挨拶をする。呑気にこんにちはなんてほざいている場合じゃないぞと、自分に言い聞かせながら。
「久しぶりね、『左海くん』。とりあえず家、入ったら?」
伊織さんの冷たい声を聞いて、俺はひえっと声をあげそうになった。「左海くん」という響きがすごくよそよそしくて、伊織さんの想いの全てがそこにこもっているような気がした。
このままじゃいけない。俺はそう思って、ゆっくりと口を開いた。
「ここでいいです。い、伊織さん……この間は、ごめんなさい。俺、動揺してて、とんでもないことしてしまいました。許してもらえるまで伊織さんの家にはあがれません」
頭を下げる。ここは外なのにと、気にしている余裕もなかった。今言わなきゃ、いつ言うんだ。ただでさえ遅すぎるというのに。
伊織さんは許してくれるだろうか。俺の鼻先で、扉が閉まったりしないだろうか。びくびくしながらうつむいていると、しばらくして、静かな伊織さんの声がした。
「怒ってないわ。許すも何も私も謝らなきゃいけない。あなたに対する配慮が足りなかったんだから」
どうして伊織さんが謝っているんだろう。伊織さんは何も悪くないのにな。悪いのは俺で、ちゃんと謝らなきゃいけないのも、俺。伊織さんは、ただ聞いてくれるだけで良かったのに。だけど、互いに謝れた事で、なぜか俺の気持ちもすっきりした。
「外は暑かったでしょう? 冷たい飲み物でも出すから、入って」
笑顔でそう言ってくれた伊織さんに、俺も微笑み返してみる。靴を脱ぎ、きちんとそろえてから伊織さんの後ろについていく。歩きながら、俺は静かに口を開いた。
「俺、やっぱり伊織さんが大好きです」
独り言を言ったんだと、そう思われても良かったけど、伊織さんの歩みが止まって、ああ、ちゃんと聞いてくれたんだと分かった。
「私も、よ」
伊織さんもまた、独り言のような声色で、呟いた。どことなく、いつもの冷静な伊織さんを精一杯装っているかのような態度だったけれど、それは俺の気のせいなのかもしれない。
顔が真っ赤になった俺を、余裕そうな表情で一瞥した後、伊織さんは再び歩き出した。
「午前中は部活だったの?」
俺が持っている大きなバッグを見てそう言ったのだろう。伊織さんが唐突に尋ねてきた。
「あ、うん。部活終わってその足で来たから」
「じゃあお昼ご飯はまだね。私もまだなの。何か作るから、一緒に食べましょう」
伊織さんとご飯が食べられる。それも、どうやら手作りのものをご馳走してくれるみたいだ。俺は、一人でにやにやしながら、伊織さんに続いてリビングに入った。伊織さんは俺の顔をまたチラッと見たけれど、何も言わなかった。
気持ち悪い奴だと思われなかっただろうか。はたまた、卑しい奴だと思われなかっただろうか。
伊織さんはまっすぐに冷蔵庫のところまで歩いていった。中を調べながら、伊織さんは確かに何かを呟いたが、きっと「キャベツ」とか「豚肉」などと言ったのだろう。まさか、冷蔵庫に向かって「大好き」なんて言う人はいないはずだ。そう聞こえた、俺の耳が悪いのだろう。
「伊織さん、お昼ご飯は何?」
伊織さんの背中に話しかけてみる。
「鶏肉の照り焼きを丼にしようと思うんだけど、好き?」
伊織さんは材料を探すのに手間取っているのか、振り向かずに答えた。
「うん、好き!」
肉は何であろうと好きだ。一番好きなのは牛肉だけど、こう暑いと、鶏肉のあっさりとした淡白な味も恋しくなる。
伊織さんは俺の好物を、どうして知っているのだろう。一番の好物からは少し外れているけれど、そんなに俺って分かりやすい奴なんだろうか。
突っ立って伊織さんの様子を見ていると、やがて彼女は調理を始めた。
———なんか飲みたいな……。
俺はそう思って、伊織さんに呼びかけてみた。
「あの、伊織さん……」
料理の邪魔をしたかなと、手を止めてこちらを振り返った伊織さんを見て、思った。
「俺、喉がカラカラなんだけど、飲み物もらってもいい?」
「ごめんなさい。直ぐに出すわね」
伊織さんは静かに答えた。
それで余計に気まずくなった俺は、コップを出すくらい自分でやろうと思った。
「いいよ、自分でやるから。伊織さんはそのまま続けて料理しててよ」
「そう? 悪いわね」
伊織さんはそう言ったあと、一瞬冷蔵庫に視線を走らせて、言葉を続けた。
「食器棚からグラスを出してもらえる? オレンジジュースと麦茶、どっちがいい? アイスコーヒーもあるわよ」
「じゃあ麦茶で」
冷蔵庫の中は見られたくないのかな。もしかしてとても散らかっているのかな。俺は自分の想像で笑いそうになったせいか、ほんとはオレンジジュースが良かったのに、麦茶と答えてしまった。
俺はそのまま食器棚の所まで歩いていって、中を覗き込んだ。整理はきちんと行き届いていて綺麗なのだけれど、何せこの中を見るのは初めてなのだ。何がどこにあるか分からなくて、俺は一旦全体を見渡した後、ゆっくりと順番に食器の数々を見ていった。
しばらくして、グラスは見つけたが、俺はその奥にあるものに目がいった。
ペアのカップだ。取り出して、よく見てみる。
他の食器は白くて綺麗だけど素っ気ないものばかりなのに、そのカップだけは水色とピンクの色物で、ひときわ目立って見えたのだ。また、にやにやと笑いそうになる。
伊織さん、俺のためにこんなものを買っておいてくれたんだな。だけど、俺に見せるのは恥ずかしいから、奥に隠してたんだ。
甘いな、伊織さん。もう見つけちゃったもんね。伊織さんがもったいぶって出さないなら、俺が出してやろう。
俺はそう思って、テーブルの上に、二つのカップを置いた。
「伊織さんも飲むでしょ?」
それはせめてもの気遣いのつもりでもあった。伊織さんが麦茶のボトルを持って、こちらを向いた。そしてすぐに視線がカップに注がれる。
「伊織さん? どうかした?」
カップと俺を交互に見て、伊織さんは表情が固まっていた。びっくりさせちゃったかな。
「ああ、麦茶だったわね」
恥ずかしさをこらえているのか、伊織さんは一本調子で呟いたあと、こぽこぽと音を立てながら、麦茶をカップに注いでくれた。
「ありがとう!」
伊織さんの取り乱したような様子を面白いなと思いながらお礼を言って、俺は席についた。
「おまたせ。お代わりもあるから、たくさん食べてね」
それから十数分が経って、伊織さんが作った食事が俺の目の前に出された。湯気を上げているご飯の上に卵と鶏の照り焼きがのせてあって、刻み海苔で飾りつけがしてある。その横にお吸い物と、きゅうりの漬物が小鉢に入れられて置かれている。
きゅうりと伊織さんがどうしても結びつかなくて、また笑いそうになった。
「今日も練習がキツくて、もう腹ぺこだよ。ありがとう、伊織さん。いただきます」
「デザートもあるから、腹八分目にね」
すかさず箸を取った俺に、伊織さんは含み笑いを浮かべながら言った。デザートという言葉に反応したが、それよりも目の前の丼を早く食べたくて、俺は言葉もなく頷いた。
食べているあいだ、俺は一言も話さなかった。話すのが嫌だったわけじゃない。伊織さんの料理はやっぱりおいしくて、もっとこの味を堪能したいと思える。
お腹が朽ちるまで、食べたい。そんなことを思っていたからか、俺は伊織さんが一杯食べ終わるまでに、その倍の量を食べ終えていた。
「ご馳走様。凄く美味しかった。伊織さんって料理上手だね」
ありのままに感じたことを言う。そうすると、心がこもって相手に届くような気がした。
「ありがとう」
伊織さんはそう言って、頬を赤らめた。年上なのに、可愛いと思ってしまう。むしろ可愛いなんて思える気持ちに、相手の年齢なんて関係ない。可愛いものは、可愛いのだから。
「デザートは苺のカスタードクリームタルトを用意したの。ショートケーキじゃないけど、良かったかしら」
伊織さんは冷蔵庫から大きなお皿に入ったタルトを出してきて、俺の目の前に置いた。
「タルトも好きだよ。凄く美味しそう!」
伊織さんの手がラップを剥ぎ取り、右手に持ったナイフでタルトが切り分けられていく。大皿の横に用意していた小皿に、そのうちの一切れがのせられて、俺の前に置かれた。近くで見ると、まるでケーキ屋に並んでいるような出来栄えに見えた。
「奏太くん」
伊織さんに突然呼びかけられて、俺は慌ててタルトから視線を外して彼女を見上げた。
「ん?」
間抜けな声を出した俺の唇が、不意にふさがれる。ほんの一瞬、息も思考も止まった。
「これは『お礼』よ」
どこかで聞いたことのある言葉が、伊織さんの口から放たれる。
「え? え? お礼ってどういう意味で……?」
俺、伊織さんに何かしてあげたかな……。いつもなにかしてもらっている記憶しかない。ギブアンドテイクなんていうけれど、俺はそのかたっぽしか成し遂げていないのに。
「試合……、あの日とてもいい試合を見せてもらったから、その『お礼』よ」
「試合って……、負けちゃって、おまけに俺、情けなく泣いたりしたし、ちっともいいとこなしだったのに」
なんでだよ、どうして、あれが「いい試合」なんだよ。お世辞を言われるのは嫌いだ。いくら相手が伊織さんでも、嫌いだ。
「どうして? 勝たなきゃ格好悪いの? あなたは全力で戦った、そうでしょう? だから私はその姿から目が離せなかったし、流した涙さえ、とても綺麗だと思ったわ。私ね、本当に感動したのよ」
彼女の言葉を聞いた瞬間、ほんの数十秒前の自分を殴りたくなった。一度も彼女は軽はずみな発言なんてしていない。ただ、あの日の無様な俺にさえ感動してくれて、その想いを伝えてくれただけなのだ。
「伊織さん」
俺は衝動的に立ち上がると、伊織さんの体を引き寄せ。そっと抱いた。
「ありがとう」
伊織さんの優しい言葉に、俺は泣きそうになりながら、その一言を言うので精一杯だった。
「奏太くん……大好きよ」
驚く。まさか、伊織さんの口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった。押し殺したはずの感情がせり上がってきて、俺はまた涙をこらえる羽目になった。
この気持ちは一体、何なのだろう。よく分からない。ただ、目の前にいるこの愛しい人を、強く抱きしめたいと思った。涙目になった自分の顔を見られたくないという気持ちも手伝ってか、俺は伊織さんの肩に顔をうずめた。恥ずかしいという気持ちはなく、こうするしかないんだと、俺はただ頑なに思っていた。
「奏太くんに食べてもらいたくて作ったの。タルト食べましょう」
俺がしばらくして伊織さんから離れたとき、彼女は出し抜けにそう言った。
「う、うん」
頷いてみたものの、まだ自分の行動が信じられなくて、間の抜けた返事になってしまう。そして、目の前に苺がたくさんのったタルトが現れたというのに、俺は先ほどの丼のように素直に喜ぶことは出来なかった。
「口に合わなかったかしら?」
「そ、そうじゃないよ! お店で売ってるやつより美味しいって思うし。ただ……」
伊織さんが不安げな表情になったので、慌てて答える。だけど、その先を言うのには、少し躊躇われた。
「ただ?」
「伊織さんから直接『大好き』なんて言葉、初めて聞いたから」
違う。いや、おおまかに言えば伊織さんの「大好き」も気になったけれど、それとこの気持ちはまた違うんだ。
本当は分かっている。今だから、俺はそんな奴じゃないとか、必死でその気持ちを誤魔化すことはしない。誤魔化す必要はないのだ。
「お代わりは後にする」
残ったタルトにラップをかけて、冷蔵庫にしまう。その時俺は、伊織さんと自分の体を合わせ合って、好きだという気持ちを彼女に知って欲しいと思っていた。
伊織さんの前に立つ。驚いて見上げてきた伊織さんを見て、これ以上は無理だと思った。彼女の腕を掴んで、そっと立ち上がらせる。
「奏太くん?」
名前を呼ばれたが、その声には答えずに、彼女を引っ張って、寝室へと入っていった。
「シャワー浴びなくていいの?」
「大丈夫」
言いながら、伊織さんはもうすでに事の次第を理解しているんだと分かった。さすが、大人だな。
「俺は部活の後に浴びてきたし、伊織さん、このままでもいい匂いがする」
嘘ではない。伊織さんの体に顔をくっつけたとき、フッと、俺の全てを包んでくれるような香りが漂ってきたのだ。それさえもいとおしくて、シャワーの水ごときに香りを消さないで欲しいと思った。
伊織さん、俺、こんな気持ちになるの、初めてだ。正直今は、何も考えたくない。ただ、伊織さんと体を重ね合わせ、どんどん湧き上がってくる欲望に、従順になりたいんだ。
俺は伊織さんの唇に、何度もキスをした。相手を吸い込むような、それでいて舌を絡ませあうような濃厚なものではなかったけれど、気持ちは伝わっただろうか。伊織さんは、俺の首に腕を回し、唇が離れない様にと体を密着させてきた。
そのまま、ベッドへ体が沈む。ふわふわとしたマットの感触を受けながら、俺達はその時で一番深いキスを交わしあった。
「私ね、あなたから連絡もなくて、本当に寂しくて不安で仕方がなかったの」
キスが終わり、見つめ合うと、伊織さんは悲しげにそう言った。心臓がドキリとする。口より先に、手が動いていた。
彼女の耳の辺りの髪をすくい、頭を撫でる。
「伊織さん、ごめんなさい、もう心配かけません」
今は何も偽る気持ちなんてない。素直に謝って、彼女を安心させることだけが、俺のやるべきことだと思った。
「ありがとう」
伊織さんはそっと、目を閉じた。さっきの俺みたいに涙を誤魔化す為に目を閉じたんじゃないだろうか。
そんな気がして、俺は伊織さんのまぶたに、唇でそっと触れてみたら、塩辛い味がした。やっぱり泣いていたんだ。どうにかして、安心させてやりたい。そう思った俺は手を背中に回し、彼女のワンピースのチャックを一気に下ろした。
素肌があらわになる。俺はその白くて柔らかい素肌を、おそるおそる撫でていく。
「伊織さん、お、俺、こんな気持ちになったの、初めてで……」
戸惑っているのが丸分かりの口調になった。だけど、戸惑いも欲望もあらゆる気持ちがごちゃ混ぜになって、自分でも困るくらいに抑えきれなくなった。
「いいの。大丈夫よ。奏太くんの好きにしていいのよ」
だけど伊織さんはやさしくそう言ってくれる。しつこいと言われてもいいから、何度も「大好き」と言いたい。伊織さんは、俺だけのものだ。
誰にも渡すものか。俺は衝動的に服を脱ぎ捨て、伊織さんの上に覆いかぶさった。
伊織さんと抱き合っていると、自分の体が驚くほど熱いことに気付く。俺の体を熱くさせるのは、戸惑いか緊張か。それとも、性欲か。
「伊織さんの体、冷たくて気持ちいい」
「……ん」
伊織さんが頷くともつかない言葉を漏らす。
「奏太くん、好きよ……」
弱々しい言葉が、俺の耳朶にかかる。ああ、もうこれ以上、戸惑わせないで。その言葉は、俺が言いたいんだ。叫びたいんだ。
俺は、生まれて初めて、自分から望んで好きな女性を抱いた。初めて伊織さんと一夜をともにした日は、彼女から先に俺を包み込んできた。
だけど今日は、違うのだ。自分の行為を先導してくれる人もいなければ、咎める人もいない。仮に伊織さんが痛がったとしても、彼女はきっと俺を止めたりはしないだろう。
俺の体に、伊織さんが触れてくる。伊織さんのものとは違う、平べったい胸、腹、腰。
彼女の手が俺の体をすべるたびに、いちいち反応してしまう。伊織さんは、もっと俺を求めているんだ。なら、やってやる。伊織さんの体が動いて、ベッドが軋む。
快楽の声が、俺の耳を濡らした。ここは、水槽だ。二人の体温が同じ温度になるように仕組まれた、水槽なのだ。その中で、いつかと同じように、俺達は自分の欲を満たそうと泳ぐ、魚になった。
伊織さんは、幾度となく俺の名前を呼んだ。名前を呼ばれるたびに、体中を熱が閃光のように駆け巡る。汗をかき、息も切れてくる。
「伊織さん……」
声がかすれる。それはまるで不鮮明な俺達の未来を露呈しているかのようで、自分の声なのに、妙に耳に残る形となった。額に浮かぶ汗を、伊織さんの指がすくい取っていく。
俺は思わず、彼女のその手をつかんだ。そのまま体を引き寄せ、精一杯に包み込む。
「俺、伊織さんが好きです。前よりも、もっともっと好きになった」
今はただ、伊織さんと過ごす時間の事しか考えたくない。
人を好きになると、どうして独りが嫌になるのだろう。どうして、好きな相手といつまでも一緒にいたいと思ってしまうのだろう。
勉強も、部活も、学校も、今は少しだけ疎ましく思う。
そんなものに時間を使うより、ずっと伊織さんと一緒にいたいと思ってしまうのだ。
伊織さんは俺の胸に顔を近づけたかと思うと、次の瞬間、右の乳首の上に唇をつけてきた。
そのまま、その部分を強く吸われる。何故そんなにも強く、そしてこんなに長い間伊織さんがそうしているわけが分からなかった。
しばらくして、伊織さんが顔を上げる。伊織さんが唇をつけていたところを見ると、小さな赤紫色の斑点のようなものが出来ていた。その後伊織さんと目が合うと、彼女はニヤッと笑った。
いわゆるキスマークというものだというくらいは、理解出来た。理解出来たせいもあってか、伊織さんに見つめられて急に恥ずかしくなる。その気持ちを紛らわせるために、伊織さんにも同じものをつけてやろうと思った。
「それってどうやって付けるの?」
「肌の一カ所に集中して吸えばいいのよ」
伊織さんの声が優しく響く。
「俺も伊織さんに付けてもいい?」
「いいわよ。でも、服を着た時に隠れる場所にしてね。 じゃないと、店長に叱られちゃうわ」
一応断りをいれておいた。もし断られたら、どうしようかと思ったけれど、断られないだろうという根拠のない自信もあった。俺はおそるおそる伊織さんの右胸に唇をよせ、そっと吸った。そんな俺の行為を、伊織さんはどんな気持ちで受け止めてくれているのだろうと思うと、恥ずかしさはまだ拭いきれなかった。
「喉、渇かない? 何か冷たい飲み物でも持ってくるわね」
そう言って、平然とした顔で伊織さんが立ち上がったので、俺も平然としたふりをして「さっきのタルトも食べたい」と言った。
伊織さんは部屋の扉を開けながらクスクス笑ったけれど、俺が見せた虚勢なんて見透かされているのだろうか。伊織さんがいなくなった部屋は、とても静かだ。隣から、食器の音がかすかに聞こえる。音がたてては消え、たてては消える様を聞いて、儚いなあと思った。
この世に同じものはひとつとして無いというけれど、そうだとしたら伊織さんがたてるあの音も、きっと一瞬の命なんだろう。
俺は、伊織さんの一生の中での、一瞬の存在にはなりたくない。それはそれで印象的な気もするけれど、俺たちはせっかく出会ったのだ。いつまでも、隣同士の存在でいたい。
いつの間にか、寝てしまっていたみたいだ。
目を開けると、部屋がオレンジ色に染まっていた。今は夕方で、そういえばセックスをした時はまだ昼だったんだ。
そう思って、裸のままの自分の体を見ると、途端に恥ずかしくなった。普段の俺だったら到底成し得ない事を、勢いのあまりしでかしてしまった。
———凄いな、俺。
苦笑して、隣でまだ寝ている伊織さんを見る。
小さな寝息をたててすやすやと眠っている伊織さんを見ているうちに、また俺は彼女の体に手を伸ばしていた。
また覆いかぶさるような事は、しない。だが、彼女の皮膚をうっすらと撫でるように、あらゆる箇所に手を這わせた。
俺が寝てしまった時にも、伊織さんは同じ事をしたのだろうか。細長い指で、俺もあらゆるところを触られたのだろうか。
伊織さんの首筋を撫でた時に、彼女がぴくりと反応したのがちょっと面白くて、ニヤニヤしながら今度は唇に触れてみたら、彼女の目がパチリと開いた。
俺はすごく驚いて、まるで熱いものに触れてしまった時のような勢いで、手を引っ込めて真顔に戻った。
何もしていなかったふうを装って、たった今目覚めたふりをする。
「おはよう、伊織さん」
時間的に言えば、もうすぐ「こんばんは」なのになと思いながら、俺は言った。
「おはよう、奏太くん、まだ服、着てないのね」
そう言われて、俺は顔が真っ赤になった。
「き、着る」
ぼそぼそと言ってから、慌てて服を掴んだ。伊織さんはそんな俺を見て、クスクス笑った。
恥ずかしさを紛らわすために俺が「タルト」と呟いたけれど、伊織さんに「奏太くんが寝ちゃったから、私が食べちゃったの」と言われて余計に恥ずかしくなった。
「そ、そうなんだ」
俺はつとめて平静を装った。横目で、服を着ている伊織さんを見る。
会話をしようと思って口を開きかけたけど、人は動揺を隠す時に饒舌になりやすいと誰かが言っていたのを思い出して、何も言わなかった。
「今日は泊まっていくの?」
やがて、伊織さんが窓を開きながら聞いてきた。昼間とは違う、夕暮れの静かな風が薄いカーテンを揺らす。
だけどその風は、俺のところまでは届かなかった。
「……俺、門限があって。こないだ、母さんに怒られたから、今日は帰るよ」
初めて伊織さんと一夜を過ごした後、学校から家に帰った俺を待っていたのは、般若みたいな雰囲気の母さんだった。友達の家に泊まると言っていたはずだが、なぜかうまく伝わっていなかったようだ。
俺はその日、門限を夜の九時と決められた。一秒でも過ぎると、朝まで鍵は開かないとも言われた。
「母さんは意地悪なんだ。高校生の門限が九時だなんて、聞いたこともないよ」
「あら、私もそうだったわ。今のご時世、何が起こるか分からないから、きっとお母様も奏太くんの事が心配なんでしょう。むやみにお母様をせめるのもよくないわよ」
伊織さんにたしなめられて、俺は少し気まずくなった。別に母さんをせめるつもりはなかった。ただ、少し愚痴りたかっただけだと反論するのもよかったが、今の俺には伊織さんと言い争う勇気なんてない。
部屋にかかっている時計を見る。もうすぐ六時だ。せめて夏の、陽の長い間だけでも門限を伸ばしてくれないかなと思ったが、すぐに、どちらにせよ九時は、太陽なんてとっくに沈んでいるんだと自分で気付いた。
「俺、そろそろ帰るよ。今日はありがとう」
リビングに戻った俺の後を、伊織さんが静かについてくる。床に置いた鞄を肩にかけ、一度だけ伊織さんを見た後、玄関まで歩いていった。
「じゃあ、また」
「部活や勉強、頑張ってね。これ、持って帰って」
伊織さんが微笑む。白い紙袋に入れて渡されたのは、タルトだった。彼女が浮かべている笑みが寂しそうなものに見えたのは、気のせいだろうか。
扉を開けて外に出る時、俺はもう一度伊織さんを見た。いつか住む場所も同じ場所になればいい。そうすれば、夜も一緒にいられるのだ。
扉を閉める。途端に伊織さんとの世界は遮断され、夏のけだるい空気だけが俺を包み込んだ。
とりあえず高校を卒業するまでは、俺と伊織さんは今以上の関係にはなれない。
俺はその時初めて、十七歳という年齢に、嫌気がさした。
