アンダンテ・アマービレ

 2

 夏休みも間近に迫ってきて、学校の雰囲気がどことなく浮ついてきた頃、俺のスマホにメッセージが送られてきた。
 久しく聞いていなかった、ショパンの「雨だれのプレリュード」に、心がざわついた。
 「奏太くんって、クラシックを通知音にしてるんだねぇ!」
 目を丸くしてそう言ったのは、大塚だ。
 夏休み前の数日間は午前中で授業が終わるため、正午を過ぎた今はもう放課後だ。俺は教室で、サバクや大塚達と部活の時間になるのを待っている最中だった。大塚には適当に返事をしておいて、急いで携帯電話を開く。
 心の底から待ち侘びていた人からのメッセージだった。
 「お久しぶりです。最近はどう過ごしていますか?
 今週の土曜日は仕事がお休みです。家に来ませんか?
 左海くんに会いたいの」
 俺は、嬉しさが込み上げてくるのと同時に、メッセージの文面を見てほんの少し違和感をおぼえた。
 ———なんだろう、この感じ……。
 俺はもう一度、文章を初めから読んでみた。二回目もよく分からなかったけれど、三回目になってようやく、その違和感の原因が分かった。
 俺への呼び方が、違う。「奏太くん」ではなくて、「左海くん」だ。でも、どうしてだろう。ただ間違えただけなのかな。それとも、気分的にそう呼びたかったのかな。
 どんな理由にしろ、至極些細な事だ。こんな事を気にしているようでは、小さい男だと思われそうだな。
 俺はそう思い直して、気にしないふりを努めた。
 「そういや、水泳部の上嶋が全国大会行くらしいな」
 スマホを鞄にしまった俺の横で、サバクが大塚や刈屋に言っていた。ついこの間から校舎にでかでかと横断幕が掲げられている。
 「祝! 全国大会出場! 水泳部 上嶋貫太」
 校舎に近づけば嫌でも目につく赤と黒の文字で書かれたその名前の持ち主を、俺は数回見た事がある。確か、三つ向こうのクラスの生徒だ。
 いつもベリーショートの髪をツンツン立たせている、健康的な褐色の肌を持ったその人は、結構格好良かった記憶がある。そうか、あいつは水泳部のエースだったのか。あまり親しくない人の情報には疎い俺は、基本的に他人には興味が無いのかもしれないな。
 「いいよなあ、全国大会……」
 サバクが呟く。確かにいい。ゼンコクタイカイという言葉の響きや、上嶋貫太のように横断幕が掲げられるさま。見たり、聞いたりしている分には良い。
 だけど、祝いの言葉を贈られ、全国大会に行くのが自分達だったらどうだろうか。気持ちが浮ついてしまって数多の人のプレッシャーに負け、存分に実力を発揮出来なかったらどうしよう。でもまあ、こんな事を思っているから、俺はこの間の試合で負けてしまったのかもしれない。
 「サバクくんも奏太くんも、来年頑張ればいいよお」
 のんびりとした口調で大塚が言う。そんな彼を見て、案外、こいつはそんな大舞台に強いんじゃないかと思った。
 「だな、奏太」
 サバクが俺を見る。無言の重圧。
 「う、うん、練習、頑張る」
 俺はそう言うしかなかった。最初からその気だったけど。
 「お腹すいたなぁ」
 机にへばりつくような格好をして、大塚が言った。
 「……俺も」
 ぼそりと俺が呟くと、いきなりサバクが噴き出した。
 「なんで笑うんだよ!」
 「お前の頭ん中は食いもんとバスケの事しかねえのかよ」
 「失礼な! 俺だって、ちゃんとイロイロ考えてるよ」
 必死で言い返す。「伊織さんの事……」と言いかけて、慌てて口を閉じる。多分、言わなくともサバクなら分かっている。それに、食べ物やバスケや伊織さんの事しか考えていなかったとしたら、生きていけない。
 冗談を本気にする俺は、もうちょっと成長した方がいいのかもしれない。具体的にどう成長すればいいのかは、謎だけれど。
 「奏太くんはねぇ、食いしん坊さんだから仕方ないよ。こないだだって、サバクくんの女の子に関する熱弁より、焼き肉定食に夢中だったもん」
 目を丸くして、大塚が言う。別段、驚いているわけでもないだろうに、俺をからかう時の彼の顔はいつもそんな感じだ。動物に例えるなら、リスと言ったところか。
 あ、そういえばリスは「栗鼠」って書くんだっけ。栗の鼠。
 「俺、そんなことしたっけ」
 不思議そうに言うサバクに、大塚と刈屋が同時に頷いてみせた。俺は全く覚えていない。やっぱりその時は焼き肉定食に夢中になっていたのだろうか。
 「奏太、そろそろ行くぞ」
 サバクが立ち上がる。時計を見ると、部活が始まる十分前だった。
 「あ、じゃあねえ! カリヤン、僕達も行こっか」
 慌てたように大塚も立ち上がる。刈屋がだるそうに立ち上がってから、俺も荷物を持った。
 「サバク、俺、土曜日に伊織さん家行くんだ」
 二人きりで歩く廊下で、周りに誰もいないことを確かめてから、俺は言った。
 「ふうん。それで?」
 サバクは鞄を右手から左手に持ち替えて聞き返してきた。
 「……謝ろうと、思う」
 「はあ!? お前、まだ謝ってなかったのかよ?」
 サバクはよほど驚いたのか、素っ頓狂な声をあげた。
 「……うん、この間、書店に伊織さんいなかったから」
 サバクの大きな声を、誰かが聞き付けていないかとキョロキョロ辺りを見渡しながら、俺は答えた。
 「まあ、早いうちに、ちゃんと謝れよ。……須藤さんから聞いたけど、お前そのイオリって人にありえないほど冷たい態度を取ったらしいじゃん」
 「……うん」
 俺が伊織さんに酷いことを言って、とどめを刺すかのように梓も「オバサン」なんて言っていた。梓に連れていかれるがままに立ち去っていった俺は、何も言わなかった。いまさらになって、後悔する。
 あの時、梓を咎めていれば、伊織さんの心の傷つき具合も少しはマシになっていたのだろうか。
 「奏太、お前またウジウジ考えてるだろ」
 サバクの問い掛けに、頷くことも否定することも出来なかった。
 「ウジウジ考えてるヒマがあるなら、早く歩けよ。過ぎたことはしょうがないだろ。それより、部活遅れるぞ」
 サバクの言っている事はちぐはぐなようで的を射ている。俺は黙ったまま頷いて、歩みを早めた。
 体育館に入る前に、隣にあるプールがチラリと見える。金網のフェンス越しにプールサイドが見え、奥には飛び込み台がそびえ立っている。
 俺は水泳部の事はよく知らないけれど、うちの高校のそれは、競泳部門と飛び込み部門、そして水球部門の三つに分かれているらしい。
 運動部の中では、大きな部活だから、それなりに設備も凄いらしく、冬には、野外プールの隣(今、俺がいる場所だと、プールの奥になる)にある屋内のプールに移動して練習すると聞いた事がある。
 普段は一瞥さえもしないそこを、俺は立ち止まってまで見てみた。言うまでもなく、上嶋貫太の事が気になったのだ。全国大会にまで駒を進めた人物は、一体どんな練習をこなしているのだろうと、一目でいいから見てみたくなったのだ。
 だけど、遠目からだと、誰が誰だか分からない。たくさんの小麦色が、水飛沫とともに点在しているだけだった。
 「おい、奏太!」
 半ば怒鳴り声になったサバクに驚いて、俺は体育館へと入っていった。
 「何ボーッとしてんだよ! 水泳部にでも入りたいのか?」
 「違うよ」
 サバクは舌打ちをして、先へ進んでいく。そんな短気なままじゃ、裁判官なんて勤まらないぞと言ってやろうかと思ったが、殴られるのは嫌なのでやめておくことにした。
 いつも通り、部活は柔軟から始まる。仲の良い人や、近くにいる人とペアを組んで、入念にストレッチをするのだ。
 柔軟の後は、基礎練習とフットワークだ。何事も基礎は大事で、この練習にも俺達は時間を割く。コート内をダッシュしたり、ひたすらドリブルをしながら走ったり、シュートの練習をしたり。
 バスケはコート上の格闘技だと誰かが言っていたが、まあ、そう言われればそうなのかもしれない。それに他のスポーツに比べて、非常に跳躍の多い競技だから、負担のかかる筋肉を鍛えるためにも、やはり基礎は大事なのだ。
 柔軟と基礎練習を終えると、休憩を挟んで最後にあみだくじで決めたチームに分かれて実戦形式のミニゲームをする。
 俺はいつもあみだくじを作る役だ。練習の疲れも取れぬまま、体育館に点在している部員達みんなにくじの場所をどこにするか聞いて回るのは、けっこう大変だ。
 「奏太、ジュース奢ってやるから二人分買ってきてくれよ」
 サバクの甘い誘惑に負けて俺が体育館を飛び出したのは、部活が終わり、各々が帰り支度を始めた頃だった。
 ミニゲームに勝って、ちょっと機嫌の良い俺は、サバクの「十秒以内に買ってこいよ」という小学生みたいな呼びかけにも二つ返事を返していた。
 学食のそばにある自動販売機を目指して走っていた俺は、プールの入口を横切ったところで、何か硬いような柔らかいような温かいものに勢いよくぶつかってよろけて転んだ。
 「いってー……」
 呟きながら、腕に少し水滴がついているのを確認する。何故だろうと顔を上げると、目の端に小麦色の棒が映った。
 よく見る。いや、あれは棒じゃない、人間の足だ。
 「ご、ごめん、君、大丈夫?」
 棒のようなものが人間の足だと認識した瞬間、頭上から少年の声が降ってきた。ちょっとだけ頼りない響きが含まれた声色だった。
 「うん、大丈夫……」
 改めて声のした方を向いた俺は、ぎょっとした。一人の少年が、競泳パンツ一丁で俺を見下ろしていたからだ。
 綺麗な体だな……でも、なんで水着姿なんだろう……あ、この人、水泳部だからか。どうやら俺はたまたま外に出てきた水泳部員とぶつかってしまったらしい。
 彼の顔を見る。また、驚いた。目の前にいる少年は、上嶋貫太だったからだ。特徴的なツンツンヘアーで、すぐに分かった。今は水に濡れて、ウニのように余計にツンツンと尖っているようにみえる。
 「こっちこそ、ぶつかってごめん……上嶋貫太君だよね?」
 「うん。そうだけど……確か君は左海君だっけ? ……去年の合唱コンクールの時、ピアノ弾いてたよね。俺、他のクラスのピアノを全員女子が弾いてたせいか、君の事だけは妙に覚えてたんだよね」
 「へ、へぇ。そんなにインパクトあったかな」
 「うん。俺のクラスにも君みたいなカッコイイピアニスト欲しいなとか思ったもん。あ、自分のクラスの女子が嫌だったわけじゃないけどさ、やっぱり男のピアニストって、なんかかっこいいじゃん」
 初めて会話をする者同士だというのに、よく喋る奴だなあと俺は思った。多分俺は、自分がカッコイイなどと言われて照れていたのだろう。どうやら照れるとひねくれた思いを抱く性格らしい。
 「全国大会、頑張ってね」
 「ありがとう。みんなの期待に応えられるように頑張るよ」
 上嶋の放つ一言一言が、何故かかっこよく聞こえる。なんでもない、ただの謙遜の言葉なのに、不思議だ。「全国大会出場」という役目を背負った少年には、貫禄がつくものなのだろうか。この人が上嶋だと言わないでいると、ちょっと頼りなさげな雰囲気なのに。
 俺は「じゃあ、またな」と言って上嶋と別れると、自販機を目指して走った。サバクはいつもソーダを飲んでいる。だから、今日もそれでいいだろう。そう思いながら、俺はサバクのソーダと、自分用にりんごジュースを買った。
 「遅いな、どこまで買いに行ってたんだよ」
 体育館に帰るなり、サバクが嫌味を言ってきた。
 「上嶋貫太君と喋ってた」
 サバクにソーダを渡しながら、俺はそう言った。
 「ふうん。お前がぶつかってたの、上嶋だったのか」
 「見てたのかよ……」
 「見えたんだよ」
 どちらも結局は一緒じゃないかと言いたくなったが、口は開かなかった。一日の終わりは、どうやら俺は心が穏やかになれるらしい。
 「じゃあ奏太、今日ファミレス奢れよ。宮田も行くらしいから」
 この後待ち構えている大きな出費なんて気付かずに、俺はこくんと頷いたのだった。