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———なんでラインの返事、くれないの? ———
頭の中で、声がした。汗ばんだ自分の肉体を、そっと手のひらで拭う。
外は、雨だった。隣には、自分よりも年齢が上の女性がいる。顔を覗き込むと、目を閉じて眠っていた。
綺麗な寝顔だ。昼間は一つに束ねている長い髪を解き放ち、薄い瞼を閉じて、眠っている。
化粧やファンデーションを洗い落としているはずなのに、彼女の素顔は艶めいていて美しい。
「伊織さん……」
俺はそっと、女性の名前を呼んでみた。当然彼女からの返事は無い。
助けてくれよ、伊織さん。俺は、彼女でもない女から、ずっと付きまとわれてるんだ。
———なんでラインの返事くれないの? ———
毎日のように聞かされる言葉が呪縛のごとく、頭の中に残っている。俺は、小心者だ。
泣かれるのが怖いから、嫌いな女に「嫌いだ」とはっきり言うことも出来ない。彼女がいるなんてことも、その彼女が自分より十二歳も歳上の女性だということも、そしてその人と体を重ね合わせたことも、はっきりと言えない。
そんな臆病者なのだ。
伊織さんには、俺がそんな事で悩んでいるなんて言っていない。言ったとしても、きっと「はっきりと付き合いたくないって言えばいいのよ」と軽くあしらわれるだろう。
俺が好きな伊織さんは、クールな女性でもあった。俺が年下だからなのか、決して甘えてはこない。
それどころか、伊織さんの方が俺の手を引いて歩いていく。
そんな風な立ち振舞いをしていた。これが大人なのかと、圧倒される。
きっと伊織さんは、少し何かがあっただけで感情を左右される俺とは、正反対の性格をしているのだ。
二人で体を重ね合わせた、数時間前もそうだった。初めての経験で震えが止まらなかった俺を、「大丈夫よ」と笑い、やり方まで教えてくれた。
ベッドに入る前、他人の前で全裸になるのを躊躇っていた俺を見て、クスクスと笑っていた。俺が、人前で上の服を脱ぐことはあっても、全裸で他人の前に姿を現したのは、幼少期を除けば今回が初めてだった。
そして、全裸の異性を見るのも、俺が覚えている限り初めてだった。
「小柄な割には綺麗な体ね。鍛えているの?」
俺の肩から腕、胸から背中へ手を這わせながら、伊織さんは言った。
「バ、バスケットボールを……」
俺は顔を真っ赤にして、どもりながら答えた後、ごくりと唾を飲み込んだ。
「小さいのに、頑張ってるのね」
緊張で気がおかしくなりそうな俺を尻目に、伊織さんはそう言った。
「私の体も、触っていいわよ」
艶めいた微笑を浮かべて、伊織さんは言った。
「い、いい、いいです。セクハラです、そんなの」
伊織さんは、俺の反応を見て、楽しんでるんだ。まだまだガキだと思われてるんだ。慌てふためく俺を楽しそうに見つめる伊織さんを見ながら、心の隅でそう思った。
大人同士だと、互いの体をベタベタと触り回るのだろうか。恥ずかしくないのかな。そんなことを考える俺は、自分から見ても、まだまだ子供なのだ。
俺は、伊織さんを起こさないようにそっとベッドを出た。急いでズボンを履く。いくら部屋は二人きりで、相手が眠っているとはいえ、全裸で歩き回る勇気はない。
やっぱり俺は、小心者だ。
俺がベッドを出たのは、スマホをチェックしようと思ったからだ。家から持ってきた鞄の中から、スマホを取り出して俺はベッドに戻った。
メッセージの着信を知らせる表示が、通知画面に点っている。。いちいち端末を開かなくとも、誰からのメッセージなのかは予想がつく。
俺を悩ませる女、須藤梓だ。彼女とは、高校に入ってから出会った。
バスケ部のマネージャーだった彼女は、端から見れば端正な顔立ちで、良い人のように見えた。
だから俺も、ラインを交換しようと言われた時に、素直に応じたのだ。それが高一の夏、今から約一年前の時だった。
俺も、始めのうちはやり取りが楽しくて、送られてくるメッセージ全てに返事を出していた。他愛のない会話が、すごく楽しかったのだ。だが、季節が秋から冬になる頃、俺は忙しさにかまけて、そんな頻繁にメッセージを返せなくなった。
それなのに、梓からのラインは、以前と変わらずに送られてくるのだった。
梓からの用件は、「~をしたんだよ」とか「~ってどう思う?」と言ったような、それまでと変わらない内容だった。正直言って、これは別に返事をしなくてもいいかなと思うような内容も多かったので、そういったメッセージには返事をせずにいた。
どうやらそれが、梓には気に入らなかったらしい。
「あたしが送ったライン、無視してるよね?」
ある日、部活が終わって顔を洗っていると、梓がやって来て急にそう言ったのだ。
「ごめん、俺、最近忙しくって。でも、ちゃんと見てるから」
俺はそう言って、どうにかその場をやり過ごした。
最初に、俺が下手に出たのが間違いだったのだろうか。
返事の催促は、それだけにとどまらなかった。
「あたし達、友達だよね。無視されたら、超ヘコむんだけど」
「これだけ言ってんのに、まだ無視するの?左海君、酷くない?」
相手が男だったら、「お前、しつこすぎるんだよ!」と怒鳴ればすむのだろう。だけど、梓みたいな奴でも、女の人の悲しんだ顔は見たくない。
梓がしつこいのは、はっきり、「鬱陶しい」と言えない俺が悪いのだ。
きっと、こんな俺を見たら、伊織さんは幻滅するだろうな。スマホをしまって、俺はそっと伊織さんの寝顔を見た。
今日は雨が降っていたからか、外で食事をするとか、映画を観るとか、そんな提案はされず、いきなり伊織さんの家に来るように誘われた。
正直、俺はそっちの方がありがたかった。一人暮らしの女性の部屋に入るのは物凄く躊躇われたが、よく考えてみれば、外を出歩いていて、二人でいる光景を知り合いに見られる方が困るのだ。
「あの女は誰なんだ?」と尋ねられて、「彼女だ」と言う勇気は、まだ無かった。
親には「友達の家に泊まる」と言っておいた。今のところ何の連絡も無いから、コロリと騙されてくれているのだろう。
朝になれば、俺は学校に行かなきゃならない。快感に酔いしれた夜など、俺には無かったかのように振るわねばならないのが残念だ。
誘ってきたのは、伊織さんだ。だが、俺は断らなかった。
不安や困惑に心が支配されていたとはいえ、その反面、興味もあったからだ。少しだけ大人になれる。そんな思いも、少なからずあった。
夜明けが来れば、伊織さんも目を覚ますだろう。その時俺は、まともに伊織さんを見られるだろうか。空気がぎこちなくならないだろうか。そして何より、平然として日常を過ごせるだろうか。明けてしまうのが惜しい夜のことを、可惜夜というらしい。俺にとってはまさに今がそうだった。伊織さんと二人だけで過ごすこの時間が、いつまでも続いてほしい。
きっと俺は、とんでもない事をしているのだと、そう思ってしまった。
人に言えない。恥ずかしい。
伊織さんは、俺との関係をどう思っているのだろうか。もしも俺といる事が誰かにばれたら、伊織さんはどんな振る舞いをするのだろうか。
そうな考えが脳裏に過ぎると怖くなる。 でも、伊織さんとは離れたくない。
俺は、伊織さんが好きだ。たまらなく、好きだ。
———なんでラインの返事、くれないの? ———
頭の中で、声がした。汗ばんだ自分の肉体を、そっと手のひらで拭う。
外は、雨だった。隣には、自分よりも年齢が上の女性がいる。顔を覗き込むと、目を閉じて眠っていた。
綺麗な寝顔だ。昼間は一つに束ねている長い髪を解き放ち、薄い瞼を閉じて、眠っている。
化粧やファンデーションを洗い落としているはずなのに、彼女の素顔は艶めいていて美しい。
「伊織さん……」
俺はそっと、女性の名前を呼んでみた。当然彼女からの返事は無い。
助けてくれよ、伊織さん。俺は、彼女でもない女から、ずっと付きまとわれてるんだ。
———なんでラインの返事くれないの? ———
毎日のように聞かされる言葉が呪縛のごとく、頭の中に残っている。俺は、小心者だ。
泣かれるのが怖いから、嫌いな女に「嫌いだ」とはっきり言うことも出来ない。彼女がいるなんてことも、その彼女が自分より十二歳も歳上の女性だということも、そしてその人と体を重ね合わせたことも、はっきりと言えない。
そんな臆病者なのだ。
伊織さんには、俺がそんな事で悩んでいるなんて言っていない。言ったとしても、きっと「はっきりと付き合いたくないって言えばいいのよ」と軽くあしらわれるだろう。
俺が好きな伊織さんは、クールな女性でもあった。俺が年下だからなのか、決して甘えてはこない。
それどころか、伊織さんの方が俺の手を引いて歩いていく。
そんな風な立ち振舞いをしていた。これが大人なのかと、圧倒される。
きっと伊織さんは、少し何かがあっただけで感情を左右される俺とは、正反対の性格をしているのだ。
二人で体を重ね合わせた、数時間前もそうだった。初めての経験で震えが止まらなかった俺を、「大丈夫よ」と笑い、やり方まで教えてくれた。
ベッドに入る前、他人の前で全裸になるのを躊躇っていた俺を見て、クスクスと笑っていた。俺が、人前で上の服を脱ぐことはあっても、全裸で他人の前に姿を現したのは、幼少期を除けば今回が初めてだった。
そして、全裸の異性を見るのも、俺が覚えている限り初めてだった。
「小柄な割には綺麗な体ね。鍛えているの?」
俺の肩から腕、胸から背中へ手を這わせながら、伊織さんは言った。
「バ、バスケットボールを……」
俺は顔を真っ赤にして、どもりながら答えた後、ごくりと唾を飲み込んだ。
「小さいのに、頑張ってるのね」
緊張で気がおかしくなりそうな俺を尻目に、伊織さんはそう言った。
「私の体も、触っていいわよ」
艶めいた微笑を浮かべて、伊織さんは言った。
「い、いい、いいです。セクハラです、そんなの」
伊織さんは、俺の反応を見て、楽しんでるんだ。まだまだガキだと思われてるんだ。慌てふためく俺を楽しそうに見つめる伊織さんを見ながら、心の隅でそう思った。
大人同士だと、互いの体をベタベタと触り回るのだろうか。恥ずかしくないのかな。そんなことを考える俺は、自分から見ても、まだまだ子供なのだ。
俺は、伊織さんを起こさないようにそっとベッドを出た。急いでズボンを履く。いくら部屋は二人きりで、相手が眠っているとはいえ、全裸で歩き回る勇気はない。
やっぱり俺は、小心者だ。
俺がベッドを出たのは、スマホをチェックしようと思ったからだ。家から持ってきた鞄の中から、スマホを取り出して俺はベッドに戻った。
メッセージの着信を知らせる表示が、通知画面に点っている。。いちいち端末を開かなくとも、誰からのメッセージなのかは予想がつく。
俺を悩ませる女、須藤梓だ。彼女とは、高校に入ってから出会った。
バスケ部のマネージャーだった彼女は、端から見れば端正な顔立ちで、良い人のように見えた。
だから俺も、ラインを交換しようと言われた時に、素直に応じたのだ。それが高一の夏、今から約一年前の時だった。
俺も、始めのうちはやり取りが楽しくて、送られてくるメッセージ全てに返事を出していた。他愛のない会話が、すごく楽しかったのだ。だが、季節が秋から冬になる頃、俺は忙しさにかまけて、そんな頻繁にメッセージを返せなくなった。
それなのに、梓からのラインは、以前と変わらずに送られてくるのだった。
梓からの用件は、「~をしたんだよ」とか「~ってどう思う?」と言ったような、それまでと変わらない内容だった。正直言って、これは別に返事をしなくてもいいかなと思うような内容も多かったので、そういったメッセージには返事をせずにいた。
どうやらそれが、梓には気に入らなかったらしい。
「あたしが送ったライン、無視してるよね?」
ある日、部活が終わって顔を洗っていると、梓がやって来て急にそう言ったのだ。
「ごめん、俺、最近忙しくって。でも、ちゃんと見てるから」
俺はそう言って、どうにかその場をやり過ごした。
最初に、俺が下手に出たのが間違いだったのだろうか。
返事の催促は、それだけにとどまらなかった。
「あたし達、友達だよね。無視されたら、超ヘコむんだけど」
「これだけ言ってんのに、まだ無視するの?左海君、酷くない?」
相手が男だったら、「お前、しつこすぎるんだよ!」と怒鳴ればすむのだろう。だけど、梓みたいな奴でも、女の人の悲しんだ顔は見たくない。
梓がしつこいのは、はっきり、「鬱陶しい」と言えない俺が悪いのだ。
きっと、こんな俺を見たら、伊織さんは幻滅するだろうな。スマホをしまって、俺はそっと伊織さんの寝顔を見た。
今日は雨が降っていたからか、外で食事をするとか、映画を観るとか、そんな提案はされず、いきなり伊織さんの家に来るように誘われた。
正直、俺はそっちの方がありがたかった。一人暮らしの女性の部屋に入るのは物凄く躊躇われたが、よく考えてみれば、外を出歩いていて、二人でいる光景を知り合いに見られる方が困るのだ。
「あの女は誰なんだ?」と尋ねられて、「彼女だ」と言う勇気は、まだ無かった。
親には「友達の家に泊まる」と言っておいた。今のところ何の連絡も無いから、コロリと騙されてくれているのだろう。
朝になれば、俺は学校に行かなきゃならない。快感に酔いしれた夜など、俺には無かったかのように振るわねばならないのが残念だ。
誘ってきたのは、伊織さんだ。だが、俺は断らなかった。
不安や困惑に心が支配されていたとはいえ、その反面、興味もあったからだ。少しだけ大人になれる。そんな思いも、少なからずあった。
夜明けが来れば、伊織さんも目を覚ますだろう。その時俺は、まともに伊織さんを見られるだろうか。空気がぎこちなくならないだろうか。そして何より、平然として日常を過ごせるだろうか。明けてしまうのが惜しい夜のことを、可惜夜というらしい。俺にとってはまさに今がそうだった。伊織さんと二人だけで過ごすこの時間が、いつまでも続いてほしい。
きっと俺は、とんでもない事をしているのだと、そう思ってしまった。
人に言えない。恥ずかしい。
伊織さんは、俺との関係をどう思っているのだろうか。もしも俺といる事が誰かにばれたら、伊織さんはどんな振る舞いをするのだろうか。
そうな考えが脳裏に過ぎると怖くなる。 でも、伊織さんとは離れたくない。
俺は、伊織さんが好きだ。たまらなく、好きだ。
