猫のキミと暮らせば


 いよいよパンデミックも本格的に広がって、人と会うことすら遠慮したり、咳をしている人がいるだけで気になってきた。
 母からの電話で、

 「わざわざ人の多いところにいないでこっちに来れば?
 この町ではまだ流行していないから。」

 と言われ、会社に断って、実家から仕事をすることにした。

 とりあえずネット環境を実家で使えるようにして、私はキミとパソコンを持って家を後にした。

 総務の仕事は、基本的には人と会って仕事をしたことが多かったが、それがなくなったことで業務量が減り、通わなくても仕事ができるようになった。
 どうしても出社しなければならないのは給与関係の仕事だけで、その準備は家でもできる。

 それすら佐々木君にお願いしてしまえば、本当に会社に行く必要がないのよ。

 定期的なオンラインミーティングで互いの様子は見られるのでちょっと安心している。
 ひとりきりで仕事をしている感覚がないから、それなら実家に帰ってもいいよね。


 女房はどうやら都を離れ、風を求めて旅立ったのである……か?

 思い人が都にいるのに実家に帰るとはさぞかしつらいだろうと思っていたが、これが意外にもすっきりした顔をしている。

 むしろ恋に悩んでいたころよりも元気である。
 
 ああ、佐々木氏はもう女房の夢のある道からは外れてしまったのだな。
 そんなことを考えながら、電車の中に納まっていた。

 以前とは違い、人影がまばらなのだ。
 これはどうしたことか。
 まるで都そのものが消えゆくような静けさが、胸を締めつけた。

 我が皇子の時も政変に巻き込まれ、都を後にせざるを得なかったが、それ以降の都の落ちぶれぶりは見るに堪えないものであった。

 いずれにせよ今の我には女房が元気に笑っていることが救いである。
 どのような空のもとであれ、女房が笑っていれば、それが安泰なのだ。

 「あら、早かったわね」

 「今日はネットの作業に電気屋さんが来てくれる約束があるから、まっすぐ帰ってきたの。
 キミが一緒だから、早く帰ってきたんだよ。
 あんまりかごの中に閉じ込めておくのはちょっとかわいそうかな。」

 「そう、ところで、この仔の名前はなんだっけ?
 カルロスとか、そんな名前だったかしら。」

 「だからどうしてそうなるの。
 猫のキミ、なんとなく上品だから」

 「おやおや、猫バカさんだね。」

 そうこうしているうちに、電気屋の親父さんがやってきた。
 古い家に、パソコン用のコンセント、インターネットのケーブルなどを設置する準備をしてもらう。
 木造の家の柱に真新しい白い電源のコードが引かれ、コードカバーが取り付けられていった。

 「猫を飼うって言ったから、コードはカバーしておくね。」

 そう言いながら、手早く作業を終えて、

 「インターネットのセットは、息子が来てやるから。」

 息子といえば、私よりも年下の、いたずら小僧だった男の子。
 最後に見かけたのは私が大学に進学した春、彼は高校生になったと思う。

 「昼間はデイサービスで働いて、時々俺を手伝うんだよ。
 昔ながらの家電とかならわかるけど、最近はネットに何でもつなぐから、よくわからなくてねぇ」
 
 お土産に持ってきた『東京ひよ子』を食べながら、母の入れたお茶をすすっている。

 「あの子がお年寄りのお世話をねぇ。」

 「まぁこういう田舎じゃ公務員か観光か、年寄りの世話ぐらいしか仕事はねぇしな。
 電気屋も続けようにも今じゃ宅急便でテレビが届く時代、たまに設置工事の依頼があるから、俺らの仕事はまだなくならないけど、よその家は若いもんが出て行っちゃうからな。」

 「私も出ていった組なので……。」

 そういうと、電気屋の親父は「ごっそさん」といって店に戻っていった。

 「この町のデイサービスは、公民館の隣にあるわよ。」

 母はそういうと夕食の買い物に出かけた

 「私はキミのご飯を買いに行くから、お留守番ね。」

 そう言って女房は買い物に出かけた。
 前にも来たことがあるので、ここの家のことは大体わかる。
 それよりも都から落ち延びてこれから女房はどうなってしまうのかが心配である。

 そもそもどうしてこのような田舎暮らしをすることになったのか、皆目見当がつかない。
 心当たりがあるとすれば、佐々木氏である。
 たまたま佐々木氏がちょっかいを出した女が、位の上の者の息のかかった女官なら、まぁありうる話である。

 まったく男に運がないというか、それでもけなげにふるまう女房には全く頭が下がるのである。


 猫缶を売っているところを探しに駅まで行こうとしていた時に、デイサービスの勤務を終え、ちょうど帰るところだったアイツに声をかけられたの。

 「やぁ、さおちゃんお久しぶり、元気だった?」

 遠慮なく声をかけてきたけど、私には分からなかった。すっかり大人びたようで、ゆで卵のように滑らかな肌に、目鼻立ちの整った顔が印象的だった。
 本当にいい青年になっていたから、子どもの姿と重ならないでいた。

 「僕のこと、おぼえている?」

 なんていだずらっぽく私の顔をのぞき込んで、

 「この後着替えてからさおちゃんの家に行くからね。」

 そういうと、家族の迎えを待っている年寄りたちに恭しく挨拶をして、私が歩いてきた商店街の中に消えていった。

 『さおちゃん』って、何年振りかに言われると、なんだか照れるなぁ。

 帰郷して 頼もしくあり 悪ガキの 優しい笑顔 年寄りに向け


 これから来る客は、女房の待ち望んでいた人なのであろうか。
 いつもと様子が違ってそわそわしているのであった。

 ほどなくして彼は現れた。
 白い箱をコンセントにつなぎ、女房のパソコンを覗き込む。
 どうやら作業は終わったらしい。

 「これで職場のネットに入れば問題なく仕事はできるよ。」

 「さすが修センセイ。
 なかなかやるじゃない。」

 と女房が言う。

 え、待てよ、女房なら自分で難なくできたはずだが、これも策か?
 というのは「センセイ」とは、そういう確信犯的な言葉で、修氏を良い気分にさせ、話を引き出す時の常套句である。

 それから二人は思い出話に花を咲かせた。
 修氏は昔、さおちゃんにあこがれていたことを話す。
 そうだったのねと女房は軽く聞き流していたが、修氏は下を向いて照れながら、

 「少年時代はきれいな年上の女性にあこがれるものですよ。」

 「またまたぁ、口がうまくなったね。」

 「そんなこと……。」

 といい、ぼそっと一言。

 「今でも、少し……ね。」

 「……ん?
 冗談、よね……。」

 思い出は 幼馴染の 淡い恋 きれいになったと はにかみながら

 我はこの時、今までに見たことがない女房のびっくりした顔を見た。
 そして目を伏せたのだ。
 
 男子三日会わざれば刮目せよ。
 女房の顔は、その瞬間、女の顔に変わっていた。

 これが恋の始まりなのか?
 自分に想いをよせていると意識してしまうと、顔を見て話せないものなのだな。