春まだ遠く、冷え込む朝。
 我は目覚めた、と確かに感じた。
 だが、何かがおかしい。
 四肢に力を入れても動かない。
 声を出そうにもみゃぁと甘えた声が出るだけであった。

 これでは、まるで生まれて間もない仔猫ではないか。
 そんな我をやさしく舐めてくれる優しい母猫。
 元気な同胞とともにこの世に生を受けたらしい。

 あぁ、今度は普通の猫として生きていけるのだな。
 人の都合で振り回されず、のんきに猫の生涯を送るのだと思っていた。
 しかし、その終わりは唐突にやってきた。
 
 我は毛布にくるまれ、屋敷から連れ出された。
 人通りのあるにぎやかなその場所は、あたたかな日差しが射し、我はのんきに昼寝をしていた。
 
 しばらくして灰色の空から雨粒が落ち、我は目が覚めた。そして気付いた。
 まだ生まれたばかりだというのに、冷たい死の影が忍び寄っていることを。
 
 我は毛布にくるまれて捨てられてしまったらしい。

 雨粒は容赦なく我が毛皮を濡らし、冷たさが骨の芯まで染み込むようだった。
 街路樹の下、箱に入った仔猫に気づくものもなく、力の限り呼んでみたが、ほどなく力尽き、深い眠りに落ち、このまま天上よりお迎えが来ることを感じていた。


 キミと出会ったのはまだ寒い3月の雨の夜。
 新入社員歓迎会の準備が終わり早々に家路についていた時、キミの声が聞こえたんだよ。
 
 街路樹に隠れるように置かれた箱に入ったキミを見つけた。
 抱き上げた瞬間、キミは小さく伸びをして、安心したように眠りに落ちた。
 その小さな体を手袋で包み、温めるように抱えて帰った。

 てのひらの 小さな命 暖かく ともに歩もう 夢のある道

 どうしてそんな風に思ったかって?

 私ね、もう若くないし、仲のいい同じ年頃の人はもういないし、仕事は人よりも長くいるだけできるようになって、備品の置き場所も覚えているから、よく便利に声を掛けられるんだけど、それなりにできるから頼られる。

 で、残業ばっかりしているの。

 会社とアパートの往復で、たまにコンビニでビールとスイーツ買うだけで……それだけ、それだけなの。

 でもね、キミがいれば、何か変わるのかな。
 キミに何でも話していいのかなって思って、何かが変わるのかな。

 変えて!みたいな。


 我は心地よいぬくもりと肌ざわり、大きな腕に抱かれていた。
 どうやら、この女房が新たな主となるらしい。
 屋敷に入るとすぐに厨があり、奥の間には寝所が整えてあった。

 女房は寝所の枕元に我をそっと置いた。
 
 ほどなくして女房が寝所に入り、指で顎のあたりをさすってこういった。

 「よろしくね、猫ちゃん」

 こちらからよろしくお願いしたいほどである。

 我は生まれてから2月ほどたったころからご主人は引き取り手を探していたのだが、どういうわけか引き取り手がなく、選ばれなかったのだ。

 女房の指先をそっと舐めてみた。

 「あら、おなかがすいているのかしら」

 そう言うと女房は暖かいミルクを用意してくれた。
 我は小皿に注がれた暖かいミルクをゆっくりと味わった。

 女房は微笑みながらこう尋ねた。

 「君に名前はあるのかな?
 そんなこといってもわかんないよね?」

 この世では、名を与えられず、ただ「この仔」とか「この猫」とか呼ばれていた。

 まあ、前世の記憶があっても、伝えようがないので、気にしないでいると、

 「ねぇ、君は何て名前なの?」

 かつての小夜のように、
 「ねぇキミ」というので、
 思わず「にゃぁ」と応えてしまった。

 「そっかぁ、『キミ』なんだね。
 これからはずっと『キミ』と一緒だよ。」

 そう言って女房は我を愛し気に抱きしめた。

 どうしてわかったのか。
 確かにかつての我は皇子であり、猫の君であった。
 
 この際、細かいことは気にしない。
 女房がキミと呼ぶならば、それが我が名となるのだ。

 約束は 縁とともに 結ばれる 命の綱と 夢のある道

 我は再び「君」と呼ばれるようになった。
 これも何かの宿命か。
 
 この女房にはわかるのであろうか?
 我が高貴な血統であることを……。

 女房との暮らしは、闇夜を照らす我が灯火であり、静かな安らぎである。