佐々木さんは夜遅く、店が静まり返る頃を見計らってやってきます。
そして、控えめに「ただいま、晶子さん」と声をかけるのです。
その響きに、どれほど胸が熱くなったことでしょう。
もちろんお店でそういうことを言うのは迷惑にもなるのでしょうが、佐々木さんは店に誰もいなくなる時間を見計らってやってきます。
店にお客様がいるときには、カウンターの隅でハイボールを飲んで店が終わるのを待っています。
こうして私たちが会うようになって二月、くだんの部下の女性もめでたくゴールインする話を聞かされますと、わたくしたちもそろそろと思うのです。
でも、佐々木さんにはわたくしと旦那様のことが気になるようで、それでいて聞いてはいけないと思っているのか、なかなか結婚の話に進んでいけません。
なので、わたくしからお話をすることにいたしました。
カウンターで飲んでいる佐々木さんに、立ち話をするように話しかけました。
「少しお話ししましょう。」
「佐々木さん、わたしのこと、どう想っていらっしゃいます?」
「急にそんなことを言われても……。」
と戸惑っておられましたが、
「あなた様が気になさっていることを、おはなししたいとおもいます。」
「ええ。」
あなた様には当然心当たりのある話でしょう。
わたくしもこの話をしなければ、前には進めないと思っておりました。
あなた様は、こうしてわたくしに会いに来てくださっているのに、手も握ってくださらない。
そんな状況から抜け出していきたいのです。
「まず、旦那様とお呼びしている社長は、わたくしの母がお付き合いをしていた男性です。
わたくしのいわゆるパパではありません。」
わたくしは佐々木さんのほうをまっすぐ見て、話を切りしだしました。
佐々木さんは驚かれているというか、ほっとしたご様子でした。
「先日、旦那様がおっしゃっていた通り、わたくしの母は、私が十九の時に交通事故に遭い、長い入院生活の末に旅立ってしまいました。
一時はよくなっていたのですが、病室で母は旦那様にわたくしのことを託していました。
店の金庫の鍵を渡し、どうかこの子の面倒を見てくださいと。」
佐々木さんは、黙って聞いていました。
「当時大学に通っていましたが、その後の学費や生活費、家賃なんかもお世話していただき、学校を卒業しました。」
佐々木さんは涙もろい方のようで、目頭をぬぐっておりました。
「その後、旦那様の会社に入るように勧められましたが、母の残したこの店を守りたいと申し出をしましたところ、旦那様がお客様を連れてこられるようになり、今では生意気にも紹介制のクラブとして成り立つようになったのです。」
少し話が長くなるので、佐々木さんの隣に座って話をします。
「もともと栄養学や調理の勉強をしており、小学校の栄養士になることが夢でした。
私なりに料理やお酒の勉強をして、このお店を継ぐことにしたのです。」
わたくしがそう話すと、意外そうな顔をしていました。
「それから経営の指南にと、旦那様が引退したクラブのママさんを連れてこられまして、接客でわからないことはお任せできるようになっています。」
佐々木さんは食い入るようにこの店の成り立ちの話を聞いていました。
「それから十年が過ぎ、お勤めしていただいているママさんの勧めもあって、わたくしも結婚してみたいなぁと旦那様にお話ししたところ、
『若くて気のいいやつを連れてくるから、好きなのを選んでいい。
俺が連れてくるのは身元保証付きだぞ。』
そうおっしゃって、商談でお付き合いのあるあなた様を連れてこられたのです。」
佐々木さんとはもっと仲良くなりたい、わだかまりをなくしたい。
そう思って一生懸命勇気を出して話をしました。
あとは佐々木さんがどう思うのかしら?
「ただいまって言っておいて、帰ってしまうあなたの背中を見て、おいていかないでと思っていました。」
そう言葉を絞り出すと、佐々木さんは涙を浮かべながらわたくしを強く抱きしめてくれました。
その温もりに、これまでの孤独が溶けていくようでした。
「ごめんね、晶子さん。
もう大丈夫、寂しくないよ。
僕はずっと一緒に居るからね。」
わたくしもほっとしたやら、うれしいやらで、涙があふれてきました。
佐々木さんはわたくしが店を続けていくことを快く認めてくれました。
お店には立ちませんが、マネジメントは勉強されているので、実践したいとか、客としてお店で人脈を培いたいとか、どちらかといえば乗り気でかかわってくださいます。
将来、もし子供が生まれたら、昼間はわたくしが子供を見守り、夜は佐々木さんがお店に関わりながら支えてくれると言ってくださいました。
その言葉が、何よりもうれしく心強かったのです。



