宮中では「わがまま皇子」と囁かれ、変わり者と蔑まれていたこの我にも、ただ一つ、心を許せる存在がいた。
 それは、我を主と仰ぐ猫——クロである。

 漆黒の毛並みに、琥珀の瞳。誰にも媚びず、ただ我の膝の上でのみ喉を鳴らす、その気ままな在り方は、どこか我自身と重なるようでもあった。

 クロは知っていたのだろうか。
 この我が、正式な后の子ではなく、側女の腹から生まれた身であることを。
 ゆえに、正殿に上がることも許されず、母代わりの乳母のもと、乳兄弟たちと共に育てられた日々。
 孤独を噛みしめながらも、誰の命も受けずに動ける——そんなわずかな自由を、大切にしていたのだ。

 そうした境遇ゆえか、多少の『わがまま』については、大人たちも目をつむっていた。
 好きにふるまい、好きな時に黙り込む。
 クロと日だまりに並び、丸くなる時間が何よりも愛おしかった。

 我には乳母の乳を分け合った者がいた。
 少し年上の娘、小夜である。
 聞けば、小夜が乳離れしたのち、我がその乳をもらうことになったのだとか。

 血のつながりこそなけれど、彼女は誰よりも近しい存在となった。

 幼い頃から、姉を名乗っては小言を並べながら、傷薬を手に走り、風邪を引けば額に手を当て、夜泣きすれば隣で歌ってくれた。
 
 当然、赤子の頃のことなど覚えてはおらぬ。
 だが、姉であることを盾に、小言を絶やさず、それでも誰よりも甲斐甲斐しく世話を焼く——それが小夜であった。

 我が身が皇子であると知らされた日も、小夜の態度は変わらなかった。
 皆が突如として畏まり、言葉を選ぶようになった中で、彼女だけが、変わらぬ手つきで髪を結い、眠れぬ夜にはそっと隣に座って話し相手になってくれた。

 そんな我にも、クロを溺愛する以外に、取柄が一つだけあった。

 それは、文(ふみ)を書くことである。

 物心つくころより、大人たちの顔色を窺い、声の抑揚やまなざしの意味を探ってきた。
 その癖がいつしか、人の想いを言葉にする技となり、気づけば「文が上手い皇子」として名が知られるようになっていた。

 ある日のこと、小夜が、どこからか一通の恋文を手に戻ってきた。

 命婦が殿方に送った文らしいが、どうやら返歌もなく、ただ捨て置かれていたという。
 使いに立った小姓はすっかり肩を落とし、困り果てていたそうだ。

 「せめて、お返事の形だけでもいただければ……と、あの小姓が泣きそうで……。」

 そう語る小夜の手には、くしゃりと折られた文があった。

 殿方が興味を持たなかったのならば、返す歌も不要。
 だが、使いの者は結果を持ち帰らねばならぬ。

 その話に、我はなぜだか胸が疼いた。
 断るにしても、言葉ひとつで人の心は救える。
 我と小夜は、そっと筆をとり、返歌をしたためた。

 あすさらに 面影清く なりぬれば かひある恋に なるやもしれぬ

 やわらかく、けれど希望の余白を残した断りの歌。
 やがてこの歌は命婦の心を励まし、美しさを磨く糧となったという。
 そして、ついには、殿方の心を射止めたと、小夜は嬉しげに語った。

 それから、小夜が、宛て人知らずの文を運び、菓子をもらってくるようになった。
 
 我は、その歌に添えられた、依頼主の希望に沿った和歌を詠み、小夜が使いの者に持たせていた。

 やがては人伝に猫の君様と呼ばれ、こっそりと返歌や恋文の代書屋なんかをしていたので、公達からはかわいがられ、御息所や女房たちからは菓子をふるまわれるなど、それなりに世を渡っていたのであった。

 小夜がそんな我の姿を、夢見るような目線で追っていたことを、その時の我は知らなかった。

 如何なるも 安寧の宿 同胞の 灯に似た にぎやかな声  

 だが、世の中をひっくり返す出来事というものは、いつの世も、前触れなく訪れるものである。

 平穏な日々を生きていた我には、宮中の深層など知る由もなかった。
 やがて栄華を誇った帝もその座を追われ、世の主役は貴族から武士へと移っていった。

 一月も経たぬうちに、我らは残党狩りの夜襲を受けた。
 我は家臣と共に森へ逃れたが、追手は執拗に迫り続けた。

 「狙われているのは、我の首……。
 これ以上、そなたらを危険に巻き込むわけにはいかぬ。」

 「我らはここで別れよう。
 それぞれが生き延びる道を信じて——」

 「……どうか、ご武運を」

 クロは、不穏な空気を察したのか、一度だけ我を振り返った。
 琥珀の瞳が、なにかを言いたげに揺れていた。

 ……それきり、クロは何も告げず、音もなく、いずこへと去っていった。

 それが、我とクロとの、永遠の別れとなった。

 我は小夜とともに、森の奥へと逃げ続けた。
 だが、追手の影はなおも我らを追い、ついに背後にその気配が迫る。

 「我が君、もうしまいと覚悟のうえで、申し上げます……。」

 追手の足音が遠ざかることなく、なお近づいてくるなか、我らは月明かりの射す林の中、ひとつの木株に腰を下ろしていた。

 静寂の中、小夜の声がかすかに震えていた。

 「我が君には……儚き夢を抱いておりました。
 ずっと、ずっとお慕い申し上げておりました……。」

 その言葉は、夜風よりも細く、我が心に深く沁み入った。
 我はもはや皇子でも、亡命者でもなく、ただ一人の娘を前にした、一人の人として小夜を見つめた。

 儚き夢 身分の糸に 織り込まれ 思いは薄き 朝露のごと

 小夜は袖に顔を伏せ、そっと涙をぬぐった。
 やがて目を上げ、そっと我を抱きしめた。

 儚き夢 叶わぬ今を 嘆けども 夢のある道 来世に歩まん

 我は黙って小夜の手を取り、かすかに震えるその指先を包んだ。

 「また会える日まで……しばしのお暇を……。」

 「……ああ。必ずや見つけてみせようぞ、小夜。」

 月は冴え冴えと、見上げる我らを照らしていた。
 命の灯が揺れる最期の瞬間に、我と小夜は、そっと手を取り合い、谷の縁から身を投じた。

 風が鳴き、夜はすでに深く、闇に溶けていく。

 その時——
 
 まばゆい光が、闇を切り裂くように我らを包み、肌も心も溶け合うように、一つとなった。
 そして、我らは鳥となり、遥かな天空の彼方へと舞い上がった。


 ……気づけば、我は漆黒の闇の中にいた。
 静寂のなか、一筋の光が、確かに、闇を割って差し込んでいた。
 その光は、いつかまた小夜と会う日を照らす、微かな夜明けのようでもあった。