クールなバリキャリなのに甘く蕩かされています

冴子を待っていたのは、山となった枝豆の皮と、酔いが回って正体をなくした上司の姿だった。

「社長! しっかりしてください! 部長も!」

冴子は一人ひとりにジャケットやスマートフォンを手渡し、忘れ物がないかをチェックして歩いた。案の定、テーブルの下に財布が落ちている。「この財布、どなたのですか!? 要らないなら捨てますよ!」と、声を張り上げる。西条由香里の登場で機嫌を損ねた冴子は、いつもに増して厳しかった。鉄仮面が、まるで氷のように冷たく鋭い。

スーツのポケットを確認した同僚が、慌てて冴子の元に駆け寄る。「す、すみませんでした! 俺の!」と、財布を奪うように取り返す。「ひぇ、鉄仮面どうしたんだ」「鉄仮面どころか般若だわ」と、ヒソヒソ声が聞こえてくるが、冴子にはどうでも良かった。ビアガーデンの提灯が夜風に揺れ、炭火の煙と笑い声がまだ響いている。でも、冴子の心は由香里が柊生に微笑む姿でいっぱいだ。「なんであんなタイミングで.........」と、胸のモヤモヤが収まらない。

彼女はテーブルの片付けを続けながら、チラリと柊生と由香里がいたベンチの方を見る。もう二人の姿はない。柊生は由香里に連れられて帰ったのだろうか? そんな考えが頭をぐるぐる巡り、冴子の眉間のシワがさらに深まる。

「戸田さん、めっちゃ怖い顔してるよ!」と、隣の同僚がビールを片手に笑う。「別に」と、短く返すけど、鉄仮面の下で心は乱れている。社長が「戸田くーん、最高の歓迎会だったな!」と絡んできても、冴子は「はい、そうですか」とそっけなく返すだけ。夜風が頬を撫で、ビアガーデンの喧騒が少しずつ収まる。冴子は最後の皿を店員に渡し、ふと空を見上げる。星が瞬く夜空に、彼女の心はまだざわついていた。

「柊生くんと距離を縮めるチャンスだったのに........由香里さんのせいで、全部台無し」

冴子は鉄仮面の下でつぶやく。でも、どこかで小さな希望が残る。柊生の弱々しい笑顔、ベンチでの無防備な表情が、頭から離れない。彼女は深呼吸して、鉄仮面をもう一度貼り直した。「まだ終わってない」と、心の中で自分を鼓舞し、ビアガーデンを後にした。




ところが、週明けに重大ニュースが飛び込んで来た。

「...........え!? ちょっと待って? もう一度言って!?」

ロッカールームでの噂話に、これまで興味も関心もなかった冴子だが、今日は違った。同僚は冴子の剣幕に驚き、「由香里ちゃんが浅葱さんと付き合うんだって」と遠慮しがちに言った。話によれば、金曜日のビアガーデンで気分が悪くなった柊生を由香里が介抱したのが始まりだという。

「..........そんな」と、冴子は愕然とした。

由香里は、近々、係長に大抜擢される柊生を気にしていた。由香里にとって、あの場面は、彼の心を掴むには千載一遇のチャンスだった。冴子の胸に、鋭い痛みが走る。「私が水を買いに行ってる間に..........」と、頭の中でビアガーデンの夜がフラッシュバックする。柊生の青白い顔、由香里の親しげな笑顔。あの時、冴子が鉄仮面を貼り直して席に戻った隙に、由香里が柊生に近づいていたなんて。

デスクに戻っても、キーボードを叩く手が止まる。「落ち着け、戸田冴子」と自分を叱るが心は乱れるばかり。隣のデスクでは、柊生がいつものように書類を整理している。銀縁眼鏡の奥の目は、いつも通り穏やかだ。でも、冴子にはそれが遠く感じる。「戸田さん、週末どうだった?」と、柊生が何気なく聞いてくる。「別に、いつも通り」と、鉄仮面を必死に貼り付けて答えるけど、声が少し震えた。

由香里の笑顔が頭をよぎり、胸が締め付けられる。「浅葱さん、ビアガーデンで大変だったみたいですね」と、冴子は探るように言う。柊生は「う、うん、ちょっと飲みすぎちゃって.........」とぎこちなく笑う。その笑顔に、冴子の心はまた揺れる。

由香里との噂は本当なのか? 聞きたいけど、鉄仮面がそれを許さない。ロッカールームのざわめきが遠く聞こえる中、冴子はパソコン画面に目を落とす。データ入力の音が、いつもより重い。「あの夜、もっとそばにいればよかった」と、後悔が胸を刺す。由香里の明るい笑い声が、オフィスの向こうから聞こえてくる。冴子は思う。

(人魚姫みたい……)

人魚姫は嵐の夜、王子を助けた。けれど王子は、浜辺で出会った女性が助けてくれたと勘違いした。彼女は声を失い、愛を伝えられず、ただ海の泡となる運命を静かに受け入れた。

(それで王子様はその人と結婚するのよね……)

心の声を言葉に出来ない冴子は鉄仮面を被り直す。パソコンのモニターがぼやけて見えた。