クールなバリキャリなのに甘く蕩かされています

柊生が冴子の隣に座ったのも束の間、無難な会話を一言、二言交わしただけで彼は社長に呼ばれて上座に戻った。「浅葱くん、こっちおいで!」と、ゆでダコ状態の社長の声が響く。顔を赤らめながら、いつもになく上機嫌にはしゃぐ柊生。冴子はまた鉄仮面を外すことなく、柊生との距離は縮まることはなかった。

ビールジョッキを手に、大きなため息がひとつ。

賑やかなビアガーデン、夜風に揺れる提灯、あちらこちらから上がる歓声。そのどれもが虚しく、冴子の胸に開いた穴を素通りして行った。テーブルの上では、焼き肉の煙が立ち上り、枝豆の皮が山のように積まれている。冴子はジョッキの冷たい感触を指でなぞりながら、柊生の笑顔を遠くに眺める。「せっかくの歓迎会なのに、なんでこんな気分なの?」と、内心で自分を叱る。鉄仮面を貼り付けたまま、彼女はクールに振る舞おうとするけど、心の中はざわめくばかりだ。

柊生が社長や先輩たちと笑い合う姿は、まるで別世界のよう。さっきの「美味しいですよ」の笑顔が、冴子の頭の中で何度もリプレイされる。「戸田さん、もっと飲みなよ!」と、同僚の声が飛んでくる。冴子は「うん、飲んでるよ」と短く返すがジョッキの中身はほとんど減っていない。ふと、柊生が上座からチラリとこちらを見て、軽く手を振る。その仕草に心臓がドキリとする。けれどすぐに社長に絡まれて彼の視線は逸れる。

「やっぱり、私には関係ないのかな」

冴子は小さくつぶやく。夜風が提灯を揺らし、ビアガーデンの喧騒が耳に響く。炭火の香ばしい匂いも、どこか遠く感じる。冴子はジョッキを置いて、そっと席を立つ。トイレに行くふりをして、ビアガーデンの端にある手すりに寄りかかる。夜空には星がちらほら見え、夏の風が頬を撫でる。「こんな気持ち、いつぶりだろう。柊生くんのせいで、私、ほんと自分らしくない」と、鉄仮面の下で呟く。歓声と笑い声が遠くで響く中、冴子の心は静かに揺れていた。柊生との距離はまだ遠い。けれどどこかで小さな希望が灯る。彼女は深呼吸して、鉄仮面をもう一度貼り直し、席に戻った。

ふと見ると、ビールジョッキを手にした柊生の様子がおかしかった。周りを取り囲んでいる社員たちは盛り上がり、その様子に気付いていないようだ。遠目に見ても顔色が悪く、青白い顔でテーブルに視線を落としている。「柊生くん、悪酔いしちゃったのかも!」冴子は胸が締め付けられるような焦りを感じ、鉄仮面を貼り付けたまま、テーブル椅子の合間を掻き分け、彼の傍に立つ。柊生の手からビールジョッキを取り上げると、彼女の指が一瞬、彼の冷たい手に触れた。

「おいおい、どうしたんだ」と呑気な社長が冴子を見上げるが、彼女はそれを一瞥すると、柊生の腕をそっと引いた。

「ちょっと、調子が悪そうなんで」

冷静を装って答える。意識が朦朧となった柊生は、冴子に背中を押されるまま、ビアガーデンの会場を後にした。夜風が提灯を揺らし、遠くで響く歓声がだんだん小さくなる。冴子は柊生を支えながら、ビアガーデンの出口近くのベンチに彼を座らせた。

「大丈夫? 顔、めっちゃ青いよ」

普段のクールな口調が少し崩れる。柊生は「う........ちょっと、飲みすぎたかな」と弱々しく笑う。その笑顔が、いつもより頼りなくて、冴子の心はまたざわつく。すると、柊生は口元を押さえ、目を見開いた。

「なんか.........ちょ.......気持ちわる.......」

彼はベンチから立ち上がると、ベンチ裏の茂みに崩れ落ちた。「ゲェゲェ」と、ヒキガエルが裏返ったような声で吐瀉物を吐き出し、肩で息をする。酸っぱい臭いに冴子は顔を顰めながらも、そっとその背中を摩り続けた。「大丈夫? 横になれる?」と声をかけ、冴子の声が届いているのかいないのか、柊生はゼエゼエと呼吸を荒くした。彼女は彼をベンチに横たえ、ハンカチを水で濡らして口元を拭った。

「水、買ってくるから待ってて」

近くの自販機に向かう。慌てているからか、硬貨を何度も落としてしまった。「もう、何やってるの!」と心の中で叫び、ペットボトルの水を手に戻る。柊生はベンチにもたれ、目を閉じていた。銀縁眼鏡が少しずれて、いつもより無防備な表情に、冴子の胸はドキリとする。「ほんと、こんな時にまで..........」と、鉄仮面が剥がれそうになるのを必死に抑える。

「浅葱く.........」

声をかけようとした瞬間、街灯の下に西条由香里の姿があった。由香里はペットボトルの水を彼に手渡し、柔らかく微笑んでいる。

「大丈夫、浅葱くん? 顔、めっちゃ青いよ」
「そう.......かな.......飲みすぎて、よく覚えてないんだ」

彼女の声はどこか親しげだ。冴子の胸に、鋭い痛みが走る。「なんで...........由香里さんが?」と、頭の中でぐるぐる考えが巡る。鉄仮面を貼り直そうとするけど、由香里の笑顔と柊生の弱った姿が、冴子の心を乱す。

「西条さん、ありがとう。俺、ちょっと大丈夫そう」と、柊生が弱々しく言う。由香里が「由香里、ここにいるから。また気持ち悪くなったら言ってね」と笑う。

「ありがとう、迷惑かけちゃったね。ハンカチ洗って返すから」
「いいよぉ、そんなの捨てちゃって」

その笑顔はどこか誇らしげだった。

「..........」

夜風が冴子の頬を優しく撫でたが、複雑な思いが交差した。彼女はペットボトルの水を手に、踵を返した。