クールなバリキャリなのに甘く蕩かされています

田辺不動産のロッカールームに一枚の貼り紙があった。

この春、異動して来た柊生の歓迎会が催される。そこで参加者を募る名簿が回って来た。冴子は迷うことなく印鑑を捺した。もしかしたら、柊生との距離を縮めることが出来るかもしれないと、胸が高鳴る。チラリと隣のデスクの彼の横顔を見た。真剣に書類に目を通す姿、銀縁眼鏡の奥の鋭い目つきに、冴子は強く惹かれる。柊生が不意にこちらを向く。その目は「どうしました?」と優しく微笑んだ。

「べ、別になんでもないわ」

冴子は慌てて視線を逸らす。「そうですか」と、柊生は穏やかに返す。「……ええ」と、冴子は小さく頷くのがやっと。今日も鉄仮面を被っている。どうして素直になれないんだろう……。

彼女は視線をデスクに落とし、心の中で自分を叱った。気を取り直し、パソコンのキーボードに指を置く。けれど、冴子の後悔とプライドが交差し、データを打ち込む音も歪に乱れた。いつもなら正確無比なタイピングが、今日は妙にぎこちない。

オフィスの空調が静かに唸る中、柊生は書類を整理しながら、ふと「戸田さん、歓迎会、来てくれるんですよね?」と聞いてくる。その声の柔らかさに、冴子の心臓がまた跳ねる。

「う、うん、行くよ。まあ、会社のイベントだし」

クールに装うけど、内心は「なんでこんな簡単な会話で緊張するの!?」と大混乱。柊生は「よかった。なんか、戸田さんがいると場が締まるっていうか」と、軽く笑う。その一言に、冴子の頬が熱くなる。「締まるって何!?」と突っ込みたい気持ちをぐっと抑え、彼女はモニターに目を固定した。

デスクの上のコーヒーカップから、冷めた香りが漂う。冴子はそれを手に取り、一口飲んで気持ちを落ち着けようとする。でも、柊生の横顔が視界の端に入るたび、心はざわめく。歓迎会でどんな話をしよう? どんな服を着ていこう? そんな考えが頭をぐるぐる巡り、仕事が手につかない。「こんな自分、ほんとらしくない」と、冴子は小さくつぶやく。鉄仮面の下で、彼女の心はアスファルトに揺れるカゲロウのように、ゆらゆらと揺れていた。

「浅葱柊生くんに乾杯ー!」
「かんぱーい!」

何に乾杯なのか今となっては分からないが、何度目かの乾杯の音頭がビアガーデンの一角に響いた。社長はすでに出来上がり、ゆでダコのように顔を赤くしている。テーブルの上には枝豆やフライドチキン、焼き肉の煙がもうもうと上がり、炭火の香ばしい匂いが辺りに充満していた。

「距離が締まるってこのこと!?」と、冴子は内心で突っ込みながら、山と盛られた枝豆の皮をかき集め、使用済みの皿を集めて店員に渡していた。「おーい! 戸田さん! ビール追加注文してー!」と先輩の声が飛ぶ。他の女子従業員は素知らぬふりでビールを飲んでいる。冴子の眉間には深いシワが寄った。鉄仮面を貼り付けたまま、冴子は「はい、了解」とクールに応じつつ、内心では「なんで私ばっかり!」とイラッとする。

でも、ふと視線を上げると、ビールで頬を赤らめた柊生がテーブル越しに笑顔で手を振っている。「戸田さん、めっちゃテキパキしてる! さすが!」と、からかうような口調。その声に、冴子の心臓がまたドキリと跳ねる。

「さすがって何よ」

ついムッとした声で返したが、柊生の銀縁眼鏡の奥の目が優しく笑う。鉄仮面がポロリと剥がれそうになる。ビアガーデンの夜風が頬を撫で、ビールの泡と炭火の煙が夏の喧騒を盛り上げる。冴子はビールジョッキを手に持ち、柊生の隣に座るチャンスを狙うがなぜか社長や先輩たちが柊生を囲んで離さない。

「浅葱くん、営業成績どうなの!?」と絡む声に、柊生は「まあ、ぼちぼちです」と軽く笑う。その自然体な姿に、冴子はまた胸がざわつく。「こんな賑やかな場で、なんでこんな気持ちになるの?」と、彼女は自分に問いかける。枝豆の皮を無意識に摘まみながら、柊生がふとこちらを見た。

「戸田さん、楽しんでます?」
「え、うん、まあ」

言葉を詰まらせ、冴子はジョッキを傾けてごまかした。テーブルに置かれた焼き肉の鉄板がジュウジュウと音を立てる。冴子は思う。「歓迎会で距離を縮めようって思ったのに、こんな調子じゃ無理かも」。でも、柊生が隣の席に移ってきて、「戸田さん、この肉、めっちゃ美味しいですよ。食べてみて」と笑顔で差し出す。

「あ、ありがとう」

その指先が触れそうな距離に、冴子の胸は痛いくらいに締め付けられた。