冴子が給湯室から出て来ると、廊下に柊生と由香里の姿があった。
その場面に遭遇したことを悔いた冴子は、「鉄仮面」を貼り付け、何事もなく素通りした。横目で見ると、柊生が照れくさそうに襟足を掻きながら由香里に微笑んでいる。そして、ビアガーデンの日に冴子が手渡したハンカチと小さな包みを、柊生が由香里に差し出していた。
「これ、洗濯したから」と彼が言うと、由香里は「............あーありがとう」と気怠そうに答えた。次に小さな包みを開けると、真新しいハンカチが現れる。「わぁ!ありがとう!由香里、このブランド好きなんだ!」と、彼女は目を輝かせた。冴子はこの茶番に目を瞑り、足早にその場を去った。
心臓が締め付けられるような痛みが冴子を襲う。あの夜、悪酔いした柊生を介抱した時に渡したハンカチ。柊生の手で丁寧に洗い、そっと包んだ小さな贈り物。それが今、由香里の手に渡っている。柊生の誤解が、冴子のささやかな想いを踏みにじる。オフィスの蛍光灯の冷たい光が、彼女の背中に容赦なく降り注ぐ。冴子はデスクに戻り、書類に目を落とすが、文字がぼやけて見えない。由香里の弾んだ声が遠くで響き、柊生の優しい笑顔が脳裏にちらつく。
「私が渡したのに」
呟く声は、喉の奥でか細く消えた。冴子は深呼吸し、「鉄仮面」をさらに固く貼り付けた。変わらない日常の中で、彼女の心だけがひそかに波打つ。冴子は次の仕事へと意識を切り替えた。
「お疲れ様でしたぁ」
今日も後輩の女子従業員たちはリップグロスを塗り直し、そそくさと従業員出口のドアを閉めた。残された冴子は給湯室で湯呑み茶碗を洗う。ゴボゴボと排水口に流れる泡を眺めていると、「鉄仮面」が剥がれ、目頭が熱くなった。心の奥で疼く想いが、静かな給湯室で波のように広がる。ビアガーデンの夜、柊生の温もり、由香里の笑い声...........記憶が泡のように浮かんでは消える。
「お疲れ様、僕も手伝います」
得意先から戻った柊生の声に、冴子はハッとする。彼は書類をファイルに挟み、いつもの穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた。冴子は慌てて涙を拭い、後ろを振り向かずに
「それじゃ、事務所のゴミを集めてくれる?」
震える声を絞り出した。ガサガサとゴミ袋にゴミを捨てる音が響く。柊生はどんな時も優しい。だが、その優しさは先輩としての冴子への敬意にすぎない。彼女は自嘲的な笑みを浮かべ、スポンジを握る手に力を込めた。シンクの水音が、冴子の心を冷たく包む。あのハンカチを由香里に渡した柊生の笑顔が、頭から離れない。オフィスの蛍光灯の下、彼の銀縁眼鏡が光を反射するたび、冴子の胸は締め付けられる。彼女は泡立つスポンジをすすぎ、湯呑みを丁寧に拭いた。柊生がゴミ袋を縛る音がやむと、「戸田さん、いつもありがとう」と彼が言った。その声は変わらず優しく、冴子の「鉄仮面」を揺さぶる。
「........あれ?」
そこで彼の動きが止まった。冴子が振り返ると、ゴミ箱を持った柊生が戸惑った表情で立ち尽くしていた。彼はゆっくりとゴミ箱を床に置き、中身を掻き分ける。そこには昼間、由香里に手渡したはずの、洗ったばかりのピンクのキャラクタープリントのハンカチが無造作に捨てられていた。柊生はハンカチを手に取り、目を見開いた。
「...........もしかしてこれ、戸田さんのハンカチですか?」と、ためらいがちに尋ねる。「............あ、あの」と、冴子は言葉に詰まる。いつかの土砂降りの日、柊生がずぶ濡れでオフィスに戻ってきた時のことが脳裏をよぎる。冴子は咄嗟にロッカーから取り出したピンクのキャラクターのタオルを彼に手渡した。
あの時、彼は少し照れながら「ありがとう、戸田さん」と笑ったのだ。カフェで涙を拭ったあのハンカチも同じものだった。給湯室の蛍光灯の下、柊生が手に持つその布切れが、冴子のささやかな想いを繋ぐ糸だった。
「まさか........酔った僕を介抱してくれたのも、戸田さん?」
今はゴミ箱に捨てられている。彼女の胸が締め付けられる。「それは…」と声を絞り出すが、言葉は続かない。柊生はハンカチを手に、困惑した目で冴子を見つめる。由香里の気怠い「あーありがとう.....」が耳に蘇り、冴子の「鉄仮面」が一瞬揺らぐ。彼女は深呼吸し、平静を装って言う。
「気にしないで、捨てといてくれる?」
「違う、西条さんなんかじゃない...........戸田さんが僕を助けてくれたんだ」
残業を終えた営業部のフロアには、エアコンの低い唸り声だけが響いている。柊生の手には、ピンクのキャラクターのハンカチが握られていた。その手は震え、目は真剣で深い色をしている。蛍光灯の光が銀縁眼鏡に反射し、彼の瞳に映る冴子の顔は動揺に揺らいでいた。「戸田さん、あなたが僕を助けてくれたんだ」と彼が言う。冴子は言葉を失い、「……」と沈黙する。
「黙っていちゃ分かりません」と、柊生の声は静かだが力強い。突然の告白に、冴子はただ戸惑うばかりだった。「本当のこと、言ってほしいんです」と彼が続ける。「あ、あの」と声を絞り出すが、言葉が続かない。
「付き合って下さい」
柊生の言葉に、冴子の心臓が跳ねた。彼の頬はほんのり色付き、少年のような純粋さが滲む。「僕が年下だから駄目なんですか?」と問う彼に、「そんな、いきなりこんなこと言われても」と冴子は返すのが精一杯だった。
観葉植物がエアコンの風に揺れる中、柊生はゆっくりと腕を伸ばし、冴子の背中を抱きしめた。突然の抱擁に、彼女の心臓は破裂しそうに高鳴る。シダーウッドの香りが鼻先を掠め、ビアガーデンの夜やカフェの記憶が一気に蘇る。「今まで気付かなくて、ごめんなさい」と彼が囁く。
「そんな……謝ることなんて……ない」
冴子はか細い声で答えた。
「今更かもしれないけれど、好きです。いつもそばで支えてくれる姿に惹かれていました」と柊生の言葉が続く。冴子の目頭が熱くなり、「こんな人前で泣くなんて私らしくない」と思うも、一筋の涙が頬を伝う。
彼女は彼のスーツにしがみつき、小さく頷いた。ハンカチの誤解、由香里の笑顔、鉄仮面の裏で隠してきた想い...........すべてがこの瞬間に溶けていく。オフィスの静寂の中で、二人の心だけが響き合う。冴子はそっと目を閉じ、柊生の温もりに身を委ねた。
その場面に遭遇したことを悔いた冴子は、「鉄仮面」を貼り付け、何事もなく素通りした。横目で見ると、柊生が照れくさそうに襟足を掻きながら由香里に微笑んでいる。そして、ビアガーデンの日に冴子が手渡したハンカチと小さな包みを、柊生が由香里に差し出していた。
「これ、洗濯したから」と彼が言うと、由香里は「............あーありがとう」と気怠そうに答えた。次に小さな包みを開けると、真新しいハンカチが現れる。「わぁ!ありがとう!由香里、このブランド好きなんだ!」と、彼女は目を輝かせた。冴子はこの茶番に目を瞑り、足早にその場を去った。
心臓が締め付けられるような痛みが冴子を襲う。あの夜、悪酔いした柊生を介抱した時に渡したハンカチ。柊生の手で丁寧に洗い、そっと包んだ小さな贈り物。それが今、由香里の手に渡っている。柊生の誤解が、冴子のささやかな想いを踏みにじる。オフィスの蛍光灯の冷たい光が、彼女の背中に容赦なく降り注ぐ。冴子はデスクに戻り、書類に目を落とすが、文字がぼやけて見えない。由香里の弾んだ声が遠くで響き、柊生の優しい笑顔が脳裏にちらつく。
「私が渡したのに」
呟く声は、喉の奥でか細く消えた。冴子は深呼吸し、「鉄仮面」をさらに固く貼り付けた。変わらない日常の中で、彼女の心だけがひそかに波打つ。冴子は次の仕事へと意識を切り替えた。
「お疲れ様でしたぁ」
今日も後輩の女子従業員たちはリップグロスを塗り直し、そそくさと従業員出口のドアを閉めた。残された冴子は給湯室で湯呑み茶碗を洗う。ゴボゴボと排水口に流れる泡を眺めていると、「鉄仮面」が剥がれ、目頭が熱くなった。心の奥で疼く想いが、静かな給湯室で波のように広がる。ビアガーデンの夜、柊生の温もり、由香里の笑い声...........記憶が泡のように浮かんでは消える。
「お疲れ様、僕も手伝います」
得意先から戻った柊生の声に、冴子はハッとする。彼は書類をファイルに挟み、いつもの穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた。冴子は慌てて涙を拭い、後ろを振り向かずに
「それじゃ、事務所のゴミを集めてくれる?」
震える声を絞り出した。ガサガサとゴミ袋にゴミを捨てる音が響く。柊生はどんな時も優しい。だが、その優しさは先輩としての冴子への敬意にすぎない。彼女は自嘲的な笑みを浮かべ、スポンジを握る手に力を込めた。シンクの水音が、冴子の心を冷たく包む。あのハンカチを由香里に渡した柊生の笑顔が、頭から離れない。オフィスの蛍光灯の下、彼の銀縁眼鏡が光を反射するたび、冴子の胸は締め付けられる。彼女は泡立つスポンジをすすぎ、湯呑みを丁寧に拭いた。柊生がゴミ袋を縛る音がやむと、「戸田さん、いつもありがとう」と彼が言った。その声は変わらず優しく、冴子の「鉄仮面」を揺さぶる。
「........あれ?」
そこで彼の動きが止まった。冴子が振り返ると、ゴミ箱を持った柊生が戸惑った表情で立ち尽くしていた。彼はゆっくりとゴミ箱を床に置き、中身を掻き分ける。そこには昼間、由香里に手渡したはずの、洗ったばかりのピンクのキャラクタープリントのハンカチが無造作に捨てられていた。柊生はハンカチを手に取り、目を見開いた。
「...........もしかしてこれ、戸田さんのハンカチですか?」と、ためらいがちに尋ねる。「............あ、あの」と、冴子は言葉に詰まる。いつかの土砂降りの日、柊生がずぶ濡れでオフィスに戻ってきた時のことが脳裏をよぎる。冴子は咄嗟にロッカーから取り出したピンクのキャラクターのタオルを彼に手渡した。
あの時、彼は少し照れながら「ありがとう、戸田さん」と笑ったのだ。カフェで涙を拭ったあのハンカチも同じものだった。給湯室の蛍光灯の下、柊生が手に持つその布切れが、冴子のささやかな想いを繋ぐ糸だった。
「まさか........酔った僕を介抱してくれたのも、戸田さん?」
今はゴミ箱に捨てられている。彼女の胸が締め付けられる。「それは…」と声を絞り出すが、言葉は続かない。柊生はハンカチを手に、困惑した目で冴子を見つめる。由香里の気怠い「あーありがとう.....」が耳に蘇り、冴子の「鉄仮面」が一瞬揺らぐ。彼女は深呼吸し、平静を装って言う。
「気にしないで、捨てといてくれる?」
「違う、西条さんなんかじゃない...........戸田さんが僕を助けてくれたんだ」
残業を終えた営業部のフロアには、エアコンの低い唸り声だけが響いている。柊生の手には、ピンクのキャラクターのハンカチが握られていた。その手は震え、目は真剣で深い色をしている。蛍光灯の光が銀縁眼鏡に反射し、彼の瞳に映る冴子の顔は動揺に揺らいでいた。「戸田さん、あなたが僕を助けてくれたんだ」と彼が言う。冴子は言葉を失い、「……」と沈黙する。
「黙っていちゃ分かりません」と、柊生の声は静かだが力強い。突然の告白に、冴子はただ戸惑うばかりだった。「本当のこと、言ってほしいんです」と彼が続ける。「あ、あの」と声を絞り出すが、言葉が続かない。
「付き合って下さい」
柊生の言葉に、冴子の心臓が跳ねた。彼の頬はほんのり色付き、少年のような純粋さが滲む。「僕が年下だから駄目なんですか?」と問う彼に、「そんな、いきなりこんなこと言われても」と冴子は返すのが精一杯だった。
観葉植物がエアコンの風に揺れる中、柊生はゆっくりと腕を伸ばし、冴子の背中を抱きしめた。突然の抱擁に、彼女の心臓は破裂しそうに高鳴る。シダーウッドの香りが鼻先を掠め、ビアガーデンの夜やカフェの記憶が一気に蘇る。「今まで気付かなくて、ごめんなさい」と彼が囁く。
「そんな……謝ることなんて……ない」
冴子はか細い声で答えた。
「今更かもしれないけれど、好きです。いつもそばで支えてくれる姿に惹かれていました」と柊生の言葉が続く。冴子の目頭が熱くなり、「こんな人前で泣くなんて私らしくない」と思うも、一筋の涙が頬を伝う。
彼女は彼のスーツにしがみつき、小さく頷いた。ハンカチの誤解、由香里の笑顔、鉄仮面の裏で隠してきた想い...........すべてがこの瞬間に溶けていく。オフィスの静寂の中で、二人の心だけが響き合う。冴子はそっと目を閉じ、柊生の温もりに身を委ねた。
