冴子はビアガーデンの夜を心から悔いた。悪酔いした柊生を介抱したあの時、「もう少し側にいれば良かった。そうすれば由香里にとって代わられることもなかったのに..........」柊生は、あの夜介抱してくれた女子社員が由香里だと勘違いした。
そして、柊生と由香里が付き合い始めたとの噂が流れた。「柊生くん、それは私なのよ」そんなことを言う筋合いもなく、悶々とした日々がすぎてゆく。
隣のデスクでボールペンをクルクル回しながら契約書をチェックしているその横顔は何も変わらない。時折微笑みかける、銀縁眼鏡の奥の目は変わらず優しい。「どうしたんですか?具合でも悪いんですか?」いつもと違う様子の冴子に、柊生の手が止まった。「ううん、ちょっと疲れただけ」柊生は給湯室に行くと、熱いコーヒーのカップを静かにデスクに置いた。「ありがとう」コーヒーカップの温もりが少しだけ心を癒す。
「.........変わったのは私だけ」
自分が柊生に恋をしている、それだけが変わった。
あの夜の喧騒が、冴子の胸にまだ響いている。ビアガーデンのざわめき、グラスのぶつかる音、柊生の少し呂律の回らない声。介抱しながら肩を貸した時、彼の体温が手のひらに残った。あの瞬間、冴子は自分の心が揺れるのを感じていたのに、気づかないふりをした。
「やだーもうー!そんなんじゃないですよー!」由香里の明るい笑い声がオフィスに響くたび、冴子の心は小さく締め付けられる。彼女は柊生の誤解を解きたい衝動に駆られるが、言葉はいつも喉で詰まる。デスクの隣で、柊生は今日も書類に目を落とし、時折髪をかき上げる。その仕草さえ、冴子には愛おしく映る。自分だけが一方的に変わってしまったこの気持ちを、彼は知る由もない。冴子はそっとため息をつき「鉄仮面」を貼り付ける。そして書類に視線を戻す。心の波は静かに、しかし確実に広がっていく。
冴子は柊生とひとときを過ごしたカフェのドアの前に立った。蔦の絡まるドアを押し開けると、グランドミュージックのない静かな空間が彼女を迎えた。珈琲豆の炒る香りが、疲れた心をそっと解きほぐす。カップの小さな音、囁くような会話が心地よく響く。案内されたのは、あの日と同じ窓際の席だった。
柊生が「戸田さんみたいだから」と目を細めて行ったその場所。冴子はメニューを手に取り、彼が指差したパウンドケーキの欄をなぞる。「パウンドケーキがおすすめみたいですよ」そう言って微笑んだ彼の姿が、脳裏に蘇る。だが、今そこには誰もいない。
「お待たせいたしました」
店員の声に顔を上げると、白い生クリームが添えられた、木の実とドライフルーツのパウンドケーキが静かにテーブルに置かれた。ラム酒の甘い香りが漂う。柊生の声が耳に甦る。「飲酒運転になっちゃいますかね」と、彼は笑いながら言った。あの笑顔、あの軽やかな声。冴子は銀のカトラリーを手に取り、ケーキにそっと差し込む。ほろほろと崩れるケーキの感触に、胸の奥が締め付けられる。窓の外、街路樹の葉が揺れるのを見ながら、彼女はあの日の会話を思い出す。彼の何気ない言葉、銀縁眼鏡の奥の優しい目。すべてが鮮明なのに、届かない。
ひとりきりの席で、冴子の目から熱い涙がほろりと溢れた。ケーキの甘さに混じる塩辛さが、彼女の心を静かに濡らした。変わらないカフェの空気の中で、冴子の想いだけが募っていく。
そして、柊生と由香里が付き合い始めたとの噂が流れた。「柊生くん、それは私なのよ」そんなことを言う筋合いもなく、悶々とした日々がすぎてゆく。
隣のデスクでボールペンをクルクル回しながら契約書をチェックしているその横顔は何も変わらない。時折微笑みかける、銀縁眼鏡の奥の目は変わらず優しい。「どうしたんですか?具合でも悪いんですか?」いつもと違う様子の冴子に、柊生の手が止まった。「ううん、ちょっと疲れただけ」柊生は給湯室に行くと、熱いコーヒーのカップを静かにデスクに置いた。「ありがとう」コーヒーカップの温もりが少しだけ心を癒す。
「.........変わったのは私だけ」
自分が柊生に恋をしている、それだけが変わった。
あの夜の喧騒が、冴子の胸にまだ響いている。ビアガーデンのざわめき、グラスのぶつかる音、柊生の少し呂律の回らない声。介抱しながら肩を貸した時、彼の体温が手のひらに残った。あの瞬間、冴子は自分の心が揺れるのを感じていたのに、気づかないふりをした。
「やだーもうー!そんなんじゃないですよー!」由香里の明るい笑い声がオフィスに響くたび、冴子の心は小さく締め付けられる。彼女は柊生の誤解を解きたい衝動に駆られるが、言葉はいつも喉で詰まる。デスクの隣で、柊生は今日も書類に目を落とし、時折髪をかき上げる。その仕草さえ、冴子には愛おしく映る。自分だけが一方的に変わってしまったこの気持ちを、彼は知る由もない。冴子はそっとため息をつき「鉄仮面」を貼り付ける。そして書類に視線を戻す。心の波は静かに、しかし確実に広がっていく。
冴子は柊生とひとときを過ごしたカフェのドアの前に立った。蔦の絡まるドアを押し開けると、グランドミュージックのない静かな空間が彼女を迎えた。珈琲豆の炒る香りが、疲れた心をそっと解きほぐす。カップの小さな音、囁くような会話が心地よく響く。案内されたのは、あの日と同じ窓際の席だった。
柊生が「戸田さんみたいだから」と目を細めて行ったその場所。冴子はメニューを手に取り、彼が指差したパウンドケーキの欄をなぞる。「パウンドケーキがおすすめみたいですよ」そう言って微笑んだ彼の姿が、脳裏に蘇る。だが、今そこには誰もいない。
「お待たせいたしました」
店員の声に顔を上げると、白い生クリームが添えられた、木の実とドライフルーツのパウンドケーキが静かにテーブルに置かれた。ラム酒の甘い香りが漂う。柊生の声が耳に甦る。「飲酒運転になっちゃいますかね」と、彼は笑いながら言った。あの笑顔、あの軽やかな声。冴子は銀のカトラリーを手に取り、ケーキにそっと差し込む。ほろほろと崩れるケーキの感触に、胸の奥が締め付けられる。窓の外、街路樹の葉が揺れるのを見ながら、彼女はあの日の会話を思い出す。彼の何気ない言葉、銀縁眼鏡の奥の優しい目。すべてが鮮明なのに、届かない。
ひとりきりの席で、冴子の目から熱い涙がほろりと溢れた。ケーキの甘さに混じる塩辛さが、彼女の心を静かに濡らした。変わらないカフェの空気の中で、冴子の想いだけが募っていく。
