君のもう一度を 僕が叶える

- 音々の葛藤 -
怜が研究に没頭する日々を送る一方、音々の世界は静かに、しかし確実に崩れ始めていた。

最初は、些細なことだった。
朝、目を覚ましたときに、昨日読んだ本のタイトルが思い出せない。
看護師さんから言われた、今日の検査の予定をうっかり忘れてしまう。
それは、病気のせいだとわかっていた。それでも、音々は不安を押し殺し、努めて明るく振る舞った。

しかし、病状は進行していく。
ある日の夕方、窓の外に目を向けていた音々は、ふと、ある記憶が欠落していることに気づいた。
怜と初めて出会った日の夕焼けの色。
彼の声、彼の表情。
それらが、まるで霧の中に消えていくように、ぼんやりとしていた。

「どうして……」

音々は、震える手で頭を抱えた。
大切な思い出が、音を立てて崩れていく。
まるで、砂でできたお城が、波にさらわれていくようだった。

その夜、ベッドの上で震えていた音々の携帯電話が鳴った。
画面には「怜くん」という文字。
電話に出たい。彼の声を聞きたい。
そう思う一方で、「もし、彼のことを忘れてしまったら？」という恐怖が、音々の心を支配した。

「もし、怜くんのことを忘れてしまったら、彼の人生に意味はなくなるのではないか？」

音々の胸には、そんな不安がよぎった。
怜は、音々のために、夢を見つけてくれた。
勉強ばかりしていた彼が、人生で初めて、誰かのために生きたいと願ってくれた。
そんな彼の未来を、自分の存在で終わらせてはいけない。

音々は、電話に出ることができなかった。
画面には、着信履歴が何度も残っている。
怜くん、ごめんね。

音々は、携帯電話をベッドの下に隠した。
彼女は、怜の夢を応援したい気持ちと、自分の存在が彼の足枷になるかもしれないという葛藤に苦しんでいた。

翌日、怜が病院を訪れた。
しかし、音々は「今日は少し体調が悪くて」と嘘をつき、面会を断った。
怜は、心配そうな表情で「わかった。無理しないでね」とだけ言い残して帰っていった。
音々は、病室の窓から、彼の後ろ姿をじっと見つめていた。
彼の背中が、だんだんと遠ざかっていく。
まるで、二人の距離を象徴しているようだった。

その日から、音々は、怜に会うことを躊躇するようになった。
彼女は、自分の病が怜の人生を狂わせるのではないかと恐れていた。
しかし、そんな音々の行動は、怜をさらに苦しめることになった。

「どうして会ってくれないんだ？」

電話口で、怜の声が震えているのがわかった。
音々は、言葉に詰まる。
「ごめんね、怜くん。今は、一人にしてほしいの」
そう言って、彼女は電話を切った。

音々は、携帯電話を強く握りしめた。
涙が、とめどなく溢れてくる。
彼女は、怜の夢を応援したい。
でも、その夢が、自分という存在によって、失われてしまうのではないか。
そんな葛藤が、音々を苦しめていた。