- 音々との出会い -

怜の世界は、常に完璧でなければならなかった。

それは、幼い頃に刷り込まれた呪いのようなものだった。

彼がまだ、砂場で泥だらけになって遊ぶことを楽しいと感じていた頃。テストで100点を取れば、両親は心から喜んでくれた。その笑顔は、怜にとって何よりも眩しかった。

「怜は本当にすごいね。将来、きっと素晴らしい人になるよ」

その言葉が、彼の心を支配した。両親の期待に応えること。それが、彼の存在意義だった。

しかし、ある日、その世界は一変する。

小学三年生の頃、怜は学校の授業で初めて挫折を経験した。それは、算数の応用問題だった。何度考えても、答えにたどり着くことができない。周りの生徒たちが次々と正解を導き出す中、怜だけが一人、問題と向き合っていた。放課後、彼がそのことを両親に打ち明けると、いつものように笑顔で「大丈夫だよ」と言ってくれた。しかし、その笑顔の奥には、わずかに失望の色が見えた気がした。

その日から、怜は変わった。完璧でなければ、愛されない。そう信じるようになった彼は、誰よりも努力した。休み時間も、放課後も、机に向かい続けた。彼の努力は実を結び、成績は常にトップを維持するようになった。しかし、彼の心は、次第に空っぽになっていった。

高校生になった今も、その習慣は変わらない。怜は、友人たちと一定の距離を保っていた。彼が話すのは、勉強のことだけ。それ以外の話題には、興味も示さなかった。彼にとって、感情は、邪魔なノイズでしかなかった。完璧な成績。それが、彼の唯一のアイデンティティだった。しかし、その完璧な世界に、怜は一人、閉じこもっていた。彼の心は、まるで埃一つない部屋のように、空っぽだった。

ある日の放課後。怜は、借りた参考書を返すため、病院の図書館に立ち寄る。窓の外は、もう夕暮れ時。オレンジ色の光が差し込む静かな部屋で、彼は古びた医学書を手に取った。それは、彼の興味を惹くものではなかったが、いつものように完璧な答えを求めてページをめくる。すると、見慣れない少女が、彼の近くの棚から本を取って、そっと話しかけてきた。

「ねぇ、君、いつもここにいるよね」

少女は、怜とは正反対の、明るく屈託のない笑顔を浮かべていた。怜は、感情のこもらない声で「勉強をしているだけだ」と答える。少女は、少し寂しそうな顔で「そっか」と呟き、去っていった。

翌日、怜は再び図書館を訪れる。すると、少女がまたやってきた。彼女は、怜の隣に座り、楽しそうに話しかけてくる。

「私の名前ね、音々(ねね)っていうんだ」

音々と名乗った少女は、怜とは違い、明るく、いつも笑顔を絶やさない。怜は、そんな音々に少しずつ心を開いていく。そして、音々との出会いが、怜の人生を大きく変えることになる。