沙織が国代と付き合っていた期間は、二年にも満たない。

 それでもようやく仕事にも慣れてきたタイミングで、憧れの上司と付き合えることになって、沙織の毎日は薔薇色だった。

 国代は仕事とプライベートのバランスの取り方が上手く、土日のうちどちらかは必ず一緒に過ごしていたし、祝日や有給を組み合わせて近場ではあるものの旅行に連れていってもらったことも多々あった。
 上手くいっていたと、沙織は思っていた。

 部署が異なるから、毎日顔を合わせることは不可能だったけれど、付き合い始めてから連絡が途絶えることも、デートの回数が減ることもなかった。

 ただ、去年のまだ暑い九月のこと。もうすぐ付き合い始めて二年の記念日という直前に、国代に呼び出された。
 やけに冷房の効いたカフェだった。向かい合って座った国代は、休日だというのに珍しくスーツを着ていて、髪も綺麗にセットされていた。
 その様子に、まさか――なんて期待をしたことが今となっては本当に滑稽だ。
 少しだけ言い淀んでから、意を決したように国代は口を開いた。

「結婚が決まったら、別れてほしい」と。

 最初は何を言われているのかわからなかった。
 呆然とする沙織に、国代は冷静に告げた。

「君のことは好きだし、付き合っていて幸せだった。でもこれからの人生を考えて、僕は結婚相手を決めた。だからもう君とは付き合えない」と。

 実際は、もう少し丁寧な言い方だったかもしれない。
 けれど突然頭を殴られたような衝撃が走って、沙織が覚えていられたのは、国代がもう自分のことを頑なに名前で呼ばなかった、という事実だけだった。

 それからのことは、よく覚えていない。

 ただ数日後、国代と社長の娘の婚約が社内に発表された。ああ、と思った。なるほど確かに、『これからのこと』を考えたのだ、と納得してしまった。
 これからの人生。それを考えれば、選んで当然の結婚相手に思えた。

 けれど沙織が辛かったのは、婚約発表後の国代がとても幸せそうだったことだ。
 社内外の行事で国代が社長令嬢と一緒にいる姿を何度も見かける羽目になったが、そのたび彼らは幸せそうだった。

 出世のための政略結婚だと思えれば、まだ溜飲も下がったのに。二人は愛し合う恋人同士にしか見えなかった。

 そうして銀杏並木が黄金に輝く見頃となったころ、二人は結婚式を執り行った。沙織は出席しなかったが、営業部の同期の話では、都内の一流ホテルで開催され、日本庭園の紅葉が美しかったと、うっとりと語られた。
 表情をなんとか取り繕って、沙織は曖昧に笑った。なんと相槌を打ったのか、全く覚えていない。
 適当な言い訳で話を切り上げて、その時も地下に駆け込んで泣いた。

 職場で泣くなんて嫌だったのに、後から後から込み上げる涙を、堪えることができなかった。
 あの時に、涙も枯れたと思ったのに。
 むしろそれ以来、沙織の涙腺は刺激に弱くなってしまったようだった。


 国代と付き合っていることは、誰にも言っていなかった。
 部署が違うとはいえ、業務上やりとりのある上司でもあったし、社内の女性社員からの人気も高い国代と付き合っていることを、公表することを沙織自身がためらった。

 でも、もし隠さずに付き合いたいと言ったら、国代の選択は変わったのだろうか。もし社長の耳にまで沙織と付き合っていた過去が伝わっていたなら、国代と娘を結婚させただろうか。誰か、他の相手を見繕っていなかっただろうか。

 沙織はいつまでも、その『もしも』の過去について考えてしまう。