まさか誰かいるなんて思っていなかった。

 会社の中でも、一番人目につきにくい場所だと信じていたから。

 ほとんど不要となった資材を詰め込んでいる、名ばかりの資料室があるのは地下二階の突き当たり。その手前に、昔は使われていたけれど今は備品さえ置いていない小さな給湯スペースがある。
 もはや切れた蛍光灯はそのままで、朝から晩まで光のあたらない薄暗いそこは、使う社員はおろか清掃員さえほとんど立ち入らない。

 だから避難したくなったとき、私はいつもその給湯スペースに駆け込んでいた。水は出る。蛇口を捻ると、水が乾いたシンクにぶつかる。パッキンがはまっていないのか、けたたましい音を立てて。
 ほんの数十秒だけ水の音に紛れて思いっきり泣いて、蛇口を強く捻ったら涙を拭って、仕事に戻る。
 時々――一ヶ月に一度くらい――沙織はこの場所に逃げ込んでいた。

 この一分にも満たない時間に誰かがここを通ったことなんて、一度もなかったのだ。だから油断していた。


「宮内さん……?」

 そう呼びかけられて、まるで悪戯を見咎められた子どものように、びくりと肩が震えた。反射的に蛇口を捻って水を止めてしまう。

 聞き覚えのある声だった。でも振り返って確認するのは躊躇われた。だってまだ目は絶対赤い。ハンカチを取り出して涙を拭いはしたけれど、目の赤みは絶対に引いていない。どうしよう。鏡を確認したいけれど、いつもこの人気のないフロアのトイレに寄れば良いと思っていたから、手鏡も持っていなかった。
 どうしよう。迷っているうちに、背後の気配はどんどん近づいてくる。
 肩を掴まれそうな距離になって、沙織は俯いたまま振り返った。

「ごめん、どうしたの……?」
「どうしたって……」

 不自然に顔を逸らした沙織に、目の前の後輩は露骨に狼狽えている。それはそうだ。自分の指導係も務めた先輩が、こんなところで泣いている、なんて。

「私は……その、ちょっと目にゴミが入っちゃって……」
「はい?」

 目尻を指で拭いながら、あはは、と笑ってみせると、険しい顔をした後輩――東堂柊吾が沙織を見下ろしていた。

 東堂は、同じ部署の男性陣のなかでも一際背が高い。180センチはあると言っていた。後輩の女性たちがもう少し、詳しく話していたかもしれないけれど、沙織は適当に聞き流していた。彼女たちは、東堂の外見がどれだけ整っているか、どんな芸能人に似ているか、で盛り上がっていたからだ。それは沙織にとって大して興味をそそられない話題だった。

 沙織とて、東堂のことを整った顔立ちの男性だとは思う。すらりとした長身。すっきりとした目鼻立ち。特に透き通った瞳は淡いブラウンで、理知的な印象の外見に一筋の柔らかさを与えている。
 欠点のつけようのない美男子。
 つまり、東堂は女性にモテるのだ。
 入社したときから、同期はもちろん先輩社員たちも東堂の話題でもちきりだった。国立大の出身らしいとか、今、彼女はいないらしい、とか。

 だが沙織は興味を惹かれなかった。なぜならその当時、沙織の心は全く別の男性に囚われていたからだ。
 東堂を見てもまったく動じず、態度を変えない様子を見込まれたのか、入社時の指導係以来、同じチームで組むように指名され続けているのが沙織なのだった。

「ゴミって……。見せてください」

 そう言って東堂はその高い位置にある腰を折るようにして、沙織を覗き込んできた。

「や……っ」

 思わず、大きく顔を逸らしてしまう。
 伸ばしかけた東堂の手が、一瞬宙を彷徨って戻っていくのが、スローモーションのように見えた。身体の横に揃えられた腕の拳が、ぎゅっと固く握られる。
 しまった、と思うけれどもう遅い。必要以上に強く拒絶してしまった。謝らなければ、と思うのに、これ以上近づいてほしくない、という思いが先に立ってしまう。
 過去の恋を引き摺って、社内で泣いているなんて、先輩としてそんな姿は晒したくなかった。
 沙織は必死に言い訳を探す。

 そして――

「あの……その、実はね、ハマってるゲームがあって。昼休みだからプレイしてたらストーリーに感動して涙ぐんじゃっただけなの。ごめんね。いい大人なのに」

 だから気にしないで、と沙織は肩をすくめてみせた。

 しかし目の前の東堂は信じていないのか、その近い距離から動く気配を見せない。ぴくりと目を釣り上げる後輩に、沙織は仕方なく、自分のスマホを取り出して、画面を見せた。
 嘘ではない。沙織が実際にここのところ寝る時間を惜しんでプレイしているシミュレーションゲームだ。
 異世界で魔法学校に通う男の子たちと親しくなり、一緒に魔法使いを目指していくゲームだった。もちろん、その過程には恋愛要素も多分に含まれている。正直、ゲーム内のイケメンに一喜一憂しているなんてバレたくないけれど、他に言い訳が思いつかなかった。それにぱっと見ただけじゃ、このゲームが恋愛メインだなんてわからないだろう。新手のRPGだと思ってくれるんじゃないか、という打算もあった。

「そんなに、泣けるゲームなんですか」
「う、うん!あの、RPGゲームなんだけどね!登場人物一人一人にドラマがあってね。その魔法使いを目指すきっかけも色々あって。その大事な人を失ったり、家族が辛い目にあっていたりとか、バックボーンも色々で……」

 口からはつらつらとゲームの内容を述べているのに、頭の中では全く別のことを考えてしまう。
 説明している言葉は、沙織がこのゲームに対して抱いている好意的な印象に基づいているけれど、そもそもこんなに夢中になったのは、ぜんぶ――ぜんぶ、あのひとを忘れるためなのに。
 キン、と頭の奥で何かが爆ぜるような音がして、沙織は黙った。
 東堂が、まだ自分を慎重に見下ろしているのがわかる。

「ごめん。興味ないよね。戻ろう。そろそろ昼休み終わるよ」

 そう言って、沙織は東堂の横をすり抜けた。

「興味なく、ないです」

 その背に、少しだけ乾いた声がかけられる。沙織は思わず足を止めた。
 毎日すぐ近くで聞いているはずの声なのに、いつもと少しだけ色が違うように感じるのは、こんな姿を見られたからだろうか。

「宮内さんの好きなもの、なんでも興味あるんで」

 その言葉に、思わず顔を上げていた。真っ直ぐに見つめた東堂の顔は、沙織の知っている表情と比べてどこか強張っているようにも見えた。

「……ありがとう」
「え?」
「気を使ってくれたんでしょう。ごめんね、本当に。ゲーム好きで会社でも夢中になってるなんて、恥ずかしい」

 沙織が無理やり微笑んでそう言うと、東堂はきゅっと眉根を寄せた。

「そうじゃなくて」
「ん?」
「いえ、なんでもないです」

 そう言ったかと思うと、東堂は緩く首を振った。

「別にいいんじゃないですかゲームしてたって。昼休みですし。でもそろそろ戻りましょう。午前中に作った企画書、チェックしてほしいんで」
「え、もうできたの?」
「ゆとりを持ったスケジュールを組むように指導してくれたの、宮内さんですよ」
「それは、そうなんだけど……」

 東堂が沙織の部署に配属されるようになってもうすぐ二年。最初から随分しっかりした後輩だと思っていたけれど、そろそろ自分のお役目も御免かもしれない。

 東堂は真面目で、向上心が強く、沙織の提示した条件のはるか上の成果を持ってくる。そんな後輩に教えられることなどもう思い浮かばないし、フォローも必要ないように感じていた。
 これからは、同じプロジェクトを担当する同志のような存在になっていくのかもしれない。それどころか、いつか東堂がリーダーになって自分がサブに指名されることも出てくるのかも――。沙織はそんな予感を抱いて、嬉しいはずなのに、どこか不安めいた感情を覚えてしまった。