恋の囚人番号251107都合いい女

「だめ!!!」

咄嗟に、銀丈くんの手首をつかんだ。

一瞬ビクッとして我に返って
私を見下ろすと、何か言いかけた。

私のこと、完全に忘れてた?

「あの人でしょ?」
答え聞かなくてもわかる。
掴んだ手首に力が籠る。

銀丈くんは、
愛しそうに名を読んだその「女(ヒト)」と
私を交互に見て
言葉を失っていた。

「行かないで。」
泣くもんか。
最初から負け戦なのは百も承知でここにいる。

「仕事の話だから。すぐ戻ってくる。」
私の手をスルリと抜け、
銀丈くんはどんどん遠ざかって行った。

花火はもう聞こえなくなっていた。


好きになった人に、想い人がいる。

知っていたことだけど
実際に目の当たりにすると
改めて思う。

知っているのと、わかっているのは
全く違う。

私は前者だった。


つらい?悲しい?

ううん。わからない。

銀丈くんは、
好きな人を見つめるとき
あんな顔をするんだって
初めて知った。

嬉しそうな
切なそうな
心の内側が溢れる表情

あんな顔を見てしまったら
私は、どうしたらいいんだろう。

私じゃないんだ…
改めて思い知った。

これから何度も
同じように
手をすり抜けていくんだろうな。

その度に、呆然と
銀丈くんの背中を見つめ
私じゃないんだ…と
何度も思うのかな。

目を閉じ、大きく 深く深呼吸をする。
ジャグジーのへりに腰掛け
銀丈くんに背を向けた。

頼りなさげに水中を漂う足を見つめていると
マリが静かに横に座った。

「ん。」
たっぷりと氷の入ったグラスを渡す。
「もう、お開きになるっぽいよ。
このまま下の営業に合流するみたい。」
いつの間にかジンくんと仲良くなったらしく、
彼から聞いたのだと付け加えた。


「あの人なの?」
マリが素早く振り返ってから
心配そうに聞く。
「あー…ね。じゃないかな」
曖昧に返す。
「そかぁ…。」
そう言って、
マリはわざとらしいくらい大きく私の肩に手を回した。
「コレ飲んだら帰ろ。もぉいいっしょ。うち泊まってさ。
ドラマ一気見して、爆食いしよ。」

どうしようもない気持ちでいること、
マリはお見通しだった。
泣くもんかって思ってる私に寄り添って、
わざと明るく努めてくれている。
お薦めドラマや、何を食べようかなど、
次々話題を変え笑っているマリに少し寄りかかる。

もう
「超楽しいね」は、
どちらからも口にすることはなかった。



「マ〜リちゃぁ〜ん」
ルパンが不二子を呼ぶみたいな声が背後からした。

揃って振り返ると
ジンくんと、銀丈くんが立っていた。

突然の来客はもういなかった。
ジンくんは、いつものジンくんに戻っている。
あんなに盛り上がっていたほかの人たちの姿も
ほとんど見えなくなり
数人が後片づけらしいことをしながら
テキパキ動いていた。

「仕事の野暮用で、出かけるから送ってくよ。」
ジンくんが車のキーを目の前でチャラチャラ鳴らした。
「はぁぁぁい。」
先生に注意されたときの返事みたいに、
マリが気の抜けた返事をしながら
ジャグジーから足をあげた。

続いて、上がろうと腰を上げた時

「お前は、後から送ってく。」
ジャグジーに入ってきた銀丈くんに、
腕をつかまれ引き戻された。
体勢を崩し、前につんのめりそうになると
ひょいと腰に手を回して支えてくれた。

「こーゆーこと普通にするから
好きになっちゃうんじゃん。
誰にでもするってわかってるけどずるいよ。」
小さなボヤキ。

銀丈くんは聞こえたのか、聞こえなかったのか
ジャグジーに先に座ると
隣に座るよう手を差し伸べて
私を引き寄せた。


来訪者さえ来なければ、
何事もなく好きなままだったのに

あの女(ヒト)の顔が
あの時の銀丈くんの顔が
ちらついて、顔が見れなかったから

隣に座って黙って俯き水面を見ていた。
銀丈くんも何も言わず
夜風が2人の間を通り抜けていった。
少しずつ身体が温まって来た頃


「兄貴の嫁さん」

沈黙を破る銀丈くんの声に、
思わず顔を上げて見ると
銀丈くんは
変わらず、まっすぐ前を見つめていた。


「人生変わるぐらい好きんなったけど、
完全無敵の兄貴のもんだった。
抱いたこともあったけど、
椿も俺のこと最初から
弟としてしか見てねぇし。」

「だからさ。
お前が心も体も欲しいって言った
あの気持ちは⋯俺も分かるよ。」

遠くを見て自虐的に笑ったその先には
あの女(ヒト)がいるようだった。

「どーにもなんねぇの分かってて、
どーにかなんねぇかなって思ったり。
⋯まぁ拗らせてんだ」

乾いた笑い声は切なくて 苦しそうだった。
濡れた髪をかきあげ空を見上げた銀丈くんの話を
ただ聞いてるしかなかった。


「でも、お前がパンチ効いた登場してから…って!!」
話の途中で銀丈くんの語尾が大きくなった。



「お前っ!おいっ!なにやってんだよ。」

水しぶきと
銀丈くんの大きな声に驚いた。

唇を親指で拭われて初めて気が付いた。


血が出てる。


泣きたくなかった。
何を言えばいいのかわからなかった。
ただ、それだけだったけど

私は、銀丈くんが話している間中
ずっと
唇を噛み締めていたらしい。