「まずはここ。」

 私は大きなビルを見上げた。最近取引が始まったと噂になっていた大企業だ。

「早川さんは秘書ってことにする。適当に頷いていてればいいから。」
「ひ、秘書ですか!?」

 秘書と婚約者は違う。専務の秘書と言えばあの中川さん。中川さんのように有能さを醸し出さなければいけないような気がするけど、私には到底無理だ。

(笑顔でいよう……とりあえず笑顔で……)

 そうすれば、新人の秘書だと思ってもらえるかもしれない。緊張しながらエレベーターへ乗り込むと、階を上がるごとに息苦しくなってきた。前に立っている専務の背中には「余裕」と大きな文字で書かれているように見える。同じ人間なのに、どうしてこうも違うのだろうか。私はバレないようにと心の中で願った。

 社長室では、温厚そうな社長がにこやかな笑みを浮かべて待っていた。

「智也くん、わざわざすまないね。おや、そちらは?」
「私の秘書です。」
「ふむ……」

 社長さんは険しい顔をして私を見ている。体を硬直させると、私の前に専務が立ちはだかった。

「社長、先日伺った新規ラインの件はご検討いただけましたか?」
「あぁ、そうだったな。座りなさい。」

 私は笑顔を貼り付けて2人の会話を聞きながら、適当に相槌を打って任務を終えた。

(き、緊張したぁ……)

 ビルを出てようやく息ができた気がした。

「素晴らしい秘書だったね!」
「ありがとうございます……」

 バレなくて良かった。

「土曜日の商談に、わざわざ連れて歩く女性の秘書……あの社長さんは、俺と君が特別な関係にあると勘繰るはずだ。」
「先手を打ったということですか?」

「そう。この前『いい人がいるから』と言われたんだ。あと何件かあるんだけど、いいかな?」
「わかりました。頑張ります!」

 なんだかよくわからないけど、やる気が出てきた。

「次の社長さんは俺に秘書がいることは知ってるから、婚約者にしよう!」

 そうして私は秘書となり、婚約者となって取引先をまわった。

 専務はどの会社に対しても公平に接している。相手が年上だろうと大きな会社であろうと怯まない。相手の気持ちが読める能力を最大限に発揮して次々と相手を満足させていく姿は、見ていて清々しいほどだ。

(すごいなぁ、専務は。)

 何件目かの商談を終えてビルを出たところで、専務のスマホが鳴った。

「電話してくるね。」
「わかりました。」

 私は近くにあった街路樹の下に立って、電話をする専務を見つめた。仕事をしている専務は全く隙がない。

(カッコいいなぁ……)

 意地悪なことを言うし、居酒屋で酔って寝てしまうけど、専務はいまだに私の憧れだ。ぼーっと見ていると、反対側から足音が近づいてきた。