「聞こえなかったのか」
この時、初めて本気でこの人を怖いと思った。
その目に射抜かれれば、腰が抜けてしまう。
並の精神じゃ、とてもじゃないけど楯突こうなんてバカな真似はしない。
逆らうなんて、自殺行為だ。
太郎さんの放つ凄まじい圧力に、思わずその場にへたり込みそうになった。
ジローさんに腕を支えてもらってなかったら、そうなってた。
それでも──
「馴れなれしく触んな!」
ジローさんは一歩も、怯まなかった。
肩に置かれた太郎さんの手を、乱暴に払いのけた。
ジローさんもまた……威嚇するような鋭い眼差しで、太郎さんを睨んでいた。
「俺はてめえを兄だなんて思ってねえ。勝手に兄貴ヅラしてんじゃねえよ!!」
あのジローさんが、こんなにも感情をむき出しにして
声を荒げて、憎悪を吐き捨てる。
太郎さんは表情を、崩さなかった。
けれど、その瞳の奥に──ほんの一瞬だけ、悲哀の影が差したのを私は見た気がした。
立ち尽くす私の腕を引いて、ジローさんが歩き出す。
太郎さんを一人、その場に残して。
彼がどこへ向かっているのか、わからない。
でも迷いなんて微塵もない足取りで、長い廊下を進んでいく。
ここに来る前、車から連れ出された時みたいに。
やっぱり私は何も言えなくて。彼の背中を見つめることしか、できない。
胸がズキズキと痛むだけ。
“俺はてめえを兄だなんて思ってねえ。勝手に兄貴ヅラしてんじゃねえよ!!”
さっきの言葉が、頭の中で木霊する。
それを突きつけられた太郎さんの気持ちを考えたら……ただ、悲しくて、切なかった。


