「大丈夫。仕方ないし」
 来週の事とは、八月二十九日。彼の誕生日の事だ。
 彼と自分の誕生日の時には二人でお祝いにディナーをするのが私達の恒例にだった。
 だけど今年はどうしても彼の会社の付き合いがあるらしく、時間が取れないかもしれないという話は聞いていたのだが――どうやら残念ながらそうなってしまったらしい。
「ごめん。次の週に時間取るから」
 埋め合わせの時間を作ろうとしてくれた彼に私は首を横に振る。
「無理しなくていいよ」
 彼が誠実な人なのは知っている。
 きっとあの手この手を尽くしてくれたはずだ。
 第一彼の方の誕生日なのだから、そんなに気にしてもらう程じゃない。
「いや、俺が行きたいから」
 ぎゅっと彼が私の身体を腕の中に閉じ込めた。
 心地いい同じ三十六度の体温が、伝わって来る。
「じゃあ、その日は家でお祝いする? 何か食べたい物あったら篠田さんにリクエストしとくけど」
 外食は無理だとしても、せめて幸せな気持ちは味わって欲しい。
 私が訊ねると、彼はうーん、と上空を仰いだ。
 そして、一言。
「じゃあ、キッシュがいい」
 彼からの要望を聞いて、成程、と私は納得した。
 確かに祝い事には定番の、華やかでボリュームのある料理だ。満足度が高いかもしれない。
「分かった。明日篠田さんに頼んでおく」
 異論はなく、私はその提案を受け入れた。
「後は? 欲しい物とかある?」
 実質的には彼のお金てを使うのだからおかしい気もするけれど、こういうのは気持ちの問題だ。
「んー、あまり思い浮かばないな」
 彼の返答は過去二回と同じ物だった。
 彼はむやみやたらに物を欲しがったりはしないけれど、逆に欲しいとスイッチの入った物に関しては直ぐに手に入れてしまうので、欲しくて手に入っていない物という物がほとんど存在しない。
 だからこそ、プレゼント選びには苦労する。
 こういう場合、欲しい物を言って貰った方がする側としてはよっぽど楽で助かるのに。
「何かない?」
 ネクタイ、ハンカチ、万年筆、キーケース。
 自分がした過去のプレゼントも、本当に彼は喜んでくれたのだろうか、という疑問が未だに拭えていない。
 彼は、今も全部ちゃんと使ってくれているけれど。
 しかも彼が私の誕生日にプレゼントしてくれる物の方が、遥かに価値がある。
「そうだな―……」
 彼は困った表情を浮かべていた。
 確かに無理矢理に欲しい物をひねり出せと言われても困ると言えば困るだろう。
 これ以上詰めるのはやめておこうかと思っていた時、彼が思いついたように口を開いた。
「そうだ、作って欲しい」
 それはあまりにも唐突な一言で、一瞬その意味が分からなかった。
「作る?」
 問い返すと、彼は頷いて言葉を足して説明して来る。
「せっかくなら、萌の作ったキッシュが食べたいなって」
 柔らかい微笑みと口調で、彼は要望を伝えて来た。
 意味を理解して、私はえっ、と彼から身をはがしてしまう。
「私が作るの?」
 身を離しても彼の左手は、私の肩に回ったままだ。
 想像してなかった提案に、私は頭の中が真っ白になっていた。
「うん。もちろん無理にとは言わないけど。駄目かな」
 そう言われてしまうと、なかなか拒否しづらい。
 無理に強引に推し進められたなら、こちらもある程度突っぱねれもするものだけど。
 でも、言わずもがな自分にとっては難しい要求であるのは事実で、私は困惑する。
 さて、どうしたものか。
 何かいい案が無いかと考えてみたけれど、残念ながら都合のいい提案はそう簡単に浮かぶはずはない。
 彼ならばこういう時、うまく相手を丸め込む技術をいくつも持ち合わせている様な気がするけれど、人付き合いという人付き合いを出来る限り避けて生きてきた自分には到底無理だ。
 ここは正攻法で行くのが一番だと判断する。
「でも私、まだ料理そんなに上手くないから」
 自分の名誉の為に言っておくと、決して私は全く料理が出来ない訳ではない。
 三年の結婚生活で、それなりに最低限の技術は身に着けている。
 ただもちろんそれはあくまでも最低限であって、他の人と比較できるレベルじゃない。
「篠田さんに頼んだ方が美味しいよ」
 それが一番無難で正解だ。
 私の提案は間違いない筈なのに、彼は譲らなかった。
「上手く出来なくてもいいよ。その日一日だけ、頑張ってくれない?」
 そうは言ってくれるものの、でも誕生日に口に合わない物を出すなんて、流石に気が引ける。
「まずくなったら?」
「それはその時に考えればいいよ」
 あっさりと彼は言うが、そんな考えでいいのだろうか。
 もし仕事でもこういうスタンスでいるとしたら、ついていく周りの人間は大変かもしれない。
 突然思いついた突拍子もない提案をされて、心臓に悪い。
 しかもこちらが避けられないように、しっかりと逃げ道まで塞いでくる。
 頬にかかっている私の髪を骨ばった大きな手で横にかき分けて、彼はむき出しにした私の顔を両手で包み込んだ。
「――ね?」
 甘い甘い、まるで子供に言い聞かせるような声。
 五歳も年が離れているせいか、彼は私に対してこういう扱いをたまにする。 
 ――もしかしたら今日は夜の誘いがあるかもしれない。
 何となく、直感的にそう感じた。
「……分かった」
 こくりと私は彼の手の中で頷く。
 うまく誘導された気しかしないけれど、ここまで来たら腹を決めるしかないだろう。
 私の返答に、満足したように彼は笑った。
 そのまま私の額に唇を触れさせてくる。
「ちょっと」
 おかしな方向に向かわないうちに、さりげなくストップをかける。
 彼はそれ以上何をして来る訳でもなく、ただ私の身体をまた胸に引き寄せただけだった。
 楽しみだな、という彼の独白に似た声が、彼の心臓の音と一緒に耳に届いてくる。
 涼しい部屋の、心地いい温かさ。
 この腕は、もしかしたら幸せな檻なのかもしれない。
「……ねえ、どうして私と結婚したの?」
 ずっと思っていた疑問が、口をついて出た。
 普段だったら、こんな事言わない。いつもの私だったら、こんな事訊こうとも思わない。
 そのはずなのに――本当に自分で自分の事分からなくなってしまっている。
 彼といるといつも調子が狂わされる。
 私にとっては一世一代の決心にも似た質問になっていたけれど、彼にとっては全く意に介さない、答えに窮する物ではなかったらしい。
「え? 好きだからだよ」
 当たり前のようにそんな返答が返って来る。
 余りにも自然に、天気の話でもするかのように言われてしまうから、何だか信じられないと言うか、信ぴょう性に欠けてくると言うか。
 本気なのかジョークなのか、判断が付きづらい。
 少なくともこちらは真剣に聞いているのに、はぐらかされてる気分になってしまう。
「だって、そんなに長く一緒に時間、過ごしてなかったのに」
 お見合いの席の事を思い出しながら、私は追及する。
 確か正月の慌ただしさがようやく落ち着いた一月の下旬に両親の引き合わせでお見合いをして、彼から正式なプロポーズを受けて結婚が決まったのは二月の上旬だったから、付き合った期間はひと月もなかったと思う。
 初めて会った印象は悪くなく、それならばこのまま少しだけ関係を続けてみようか、となし崩しに何度か会って一緒の時間を過ごして――を繰り返して。
 そして、三度目の食事の時に『結婚しよう』と言われた。