食事中は、とりとめもない事を話した。
 主に話題の提供役になるのは彼の方で、私は彼から与えられる話と情報をうんうんと頷いて聞く。
 一方的に彼が喋ってるだけに見えるかもしれないけれど、あまり自分から話をしたいタイプの私からすればこれが楽だ。
 何せ何事にも無関心かつはぼ無趣味といっていいので、毎日社会に揉まれている彼と比べると話の引き出しが圧倒的に少ない。
 へえ。そうなんだ。お疲れさま。
 そんな誰にでも言えるような言葉を返して、それについて私の思った思った事を彼の気持ちに配慮しながら付け足して言う。
 彼もそれだけで満足している様だし、多分これで私達は上手くいっている。
 そんな時間を今日も過ごして、ほぼ同時に食事を終えた私に、彼は
「今日、皿洗いやるよ」
 と言って来た。
「え、良いよ。私やる」
「いや、最近任せきりだったから。今日、大分落ち着いたし」
 確かに最近は今日の商談の為に仕事が立て込んでいたとか何とかで、食事の後はまたすぐに仕事に入る事が続いていた気がする。
 でも別にさして私は気もになっていなかった。
 むしろその位やらせてもらった方が、多少なりとも何かをやっている感が持てて気が楽になれるという思いもある。
「じゃあ洗うから食器拭いて」
 どちらにとってもある程度満足感をもたらすこの上なく上手い要求を彼はして来た。
 私は了承して食べ終わった食器を運ぶ。
 調味料などを片付け、布巾で綺麗に拭き、テーブルの上を食事元の状態に戻す。
 そして彼の隣に並んで、彼が洗い終えて積み重ねられていく皿を一枚一枚手に取って、丁寧に磨いていく。
 比較的高い食器だったはずなので、なるべく丁重に扱いたい。
 一つの大きな仕事として捉えられている食器洗いという家事も、二人でやれば瞬く間に終わる。
 二人分の量なんてたかが知れているのもあるけれど。
(――普通の家庭だったら、こうもいかないんだろうけど)
 そう。普通の家庭だったら。
 多分、結婚した夫婦の間に子供がいて、もしかしたらそれに加えて両親・義両親がいたりもして。
 例えば、食事もそれぞれの口に合った物を作ったりもしなければならない人もいて。
 私達の暮らしは、そんな世間一般のイメージと遠くかけ離れた生活だと思う。
 口には出さないけれど、彼はどう思っているのだろう、という考えがふと頭を過ったりはする。
 これからの事。子供の事。お互いの両親の事。いつかはしっかりと話さなければいけないのではないだろうか。
 流されるままそうなったとは言え、一応今、私は彼の妻と言う立場で、そしてそうなってしまっている以上、相応に背負わなければいけない責任というものが多分存在する。
 でも今の私には子供を産んで育てるというビジョンは見えてこない。
 そんな話を、私はまだ彼とはした経験がない。
 良く考えてみると、自分はまだ彼をよく知らない気がする。
 彼は常に自分に対して完璧でいてくれる。
 だけどそれは仮面の部分なだけではないだろうか。それこそスーパーマンの様に。
 自分が自由にさせてもらってるから余計にそう感じるだけだろうか。
 でも冷静に見て、明らかに今の生活の比重は自分の方に天秤が傾き過ぎている。
 夫婦関係は対等でなければ続かないではないか。自分は良くても、彼の方は苦しくないのだろうか。
 これは自分がこの結婚生活において、常に抱いている疑問かもしれない。
 食器を洗い終えた彼が、フロアキャビネットに備え付けてあたタオルで手を拭いて、リビングの方に去って行く。
 どうやら本当に大きい仕事が片付いて解放されたらしい。
 振り返ってみるとここ一週間は夕食を済ませた後はすぐに仕事部屋に籠っていた気がする。
 今の今まで相変わらず仕事に集中しているな、としか思っていなかった。
 基本的に仕事にいつも真剣な人で当たり前みたいに取り掛かっていたから、さほど頑張っているとかいう印象は持てていなかったけれど。
 本当に頑張ってる人間ほど、意外と人にそう見えてしまう物なのかもしれない、なんて思ってしまった。
 とりあえずせめて今日は好きに、あまり余計な声を掛けて気疲れさせないように、のんびりさせてあげよう。
 ソファーで寛いでいる彼を見ながら、私はコーヒーを淹れる。
 彼の分と、私の分、二つ。
 夕食後に二人で一緒にお茶を飲む――これも私達の毎日のルーティンだ。
 元々私が行っていたもので、ついでに彼の分も淹れてるうちに、いつの間にか定着した。
 それを持って、ソファーに座ってスマートフォンを操作していた彼の前に置く。
「ありがとう」
 礼を言った彼が微笑んでそのカップを手に取る。
 例に漏れずこのカップも、値打ち物。と言うよりも、この家にはそうでない物の方が珍しい。
 高級品とまではいかなくても、どれもそこそこの値段はする。
 ただし中のコーヒーだけは思いっきりインスタントだ。
 もちろんちゃんとしたコーヒー豆はあるし、コーヒーメーカーもある。
 でも私はこだわりがないので今まで使った事が無い。食洗器が篠田さんのほぼ専用であるように、コーヒーメーカーは彼専用だ。
 そして彼はそれに文句をつけたりしない。
 いつも淹れてくれてありがとうと言ってくれる。
 こだわりがある筈なのに、私のインスタントコーヒーを私と一緒に飲み、話をしてくれる。
 やっぱり彼は何でも完璧のスーパーマンだ。――いや、スーパーダーリン。そう、彼は俗にいうスーパーダーリンなのだ。
 しっくりくる言葉がようやく見つかった気がする。
 私はすぐ横に自分の分のコーヒーを置いて、距離をゼロにして彼の横に座った。
 青いソファーベッドが私の体の重みで沈み込む。
 ほぼ密着と言っていい距離で座った私にちょっとした不自然さを感じたのか、彼が目を丸くして私を見て来た。
 確かに、いつもよりも近い距離で座った自覚はある。
「……どうしたの?」
 彼はぱちぱちと瞬きを数回した。
 いつもどちらかと言えば受け身な私にしては意外過ぎる行動と思われているかもしれない。
 ほとんど無自覚の行動だった。
 彼の驚いた表情を見て、何だか急に恥ずかしくなる。
 誤魔化す為に私は手に持ったコーヒーを口に運んだ。
「……何となく」
 自分でもどうしてこんな事をしているのか分からない。
 もちろん夫婦なのだから問題ないのだが、そうまじまじと見られると、どうすればいいのか。
 上手い切り抜け方を誰か教えて欲しいと心の中で呟きつつ、でもきっかけを作ったのは自分だと後悔する。
 するりと彼の手が私の肩に伸びて来た。
 僅かに力を込められて、ぐっと彼の方へと身を引き寄せられる。
 ――更に接近してしまった頭に、彼が軽く唇を落として来た。
 優しい、くすぐったい感触に、私は思わず目を細める。
 私の手の中にあったコーヒーカップを取り上げてソーサーの上に戻す。
 中身が零れないで良かった、と思った。
 自由になった手で私の身体はもっと引き寄せられて、彼に上半身の体重を預ける体勢になる。
「……そうだ、来週の事だけど」
 穏やかな口調で彼は切り出した。
「……来週? 誕生日の事?」
 彼の胸に埋めていた顔を上げて、彼と視線を合わせる。
「うん。やっぱりちょっと無理そうなんだよね。どうしても相手側の都合がその日しかつかないみたいで」
 申し訳なさそうに彼は告げた。