第一、彼の言うそれなりの金額のそれなり、の範囲が正確につかめていないのも問題だ。
「それなりって、いくら? はっきりさせて欲しいんだけど」
 こっちに要求するなら、彼の方も必要な部分ははっきりさせて欲しい所だ。
 頬杖をついて聞いた私に、彼はうーん、と少しだけ思案する仕草を見せた。
「まあ……一般的に、だよ」
 何だろうそれは。
 結局、具体的な金額は提示されずじまいで全く進まない話に、私も呆れた表情を浮かべるしかなかった。
 世間一般と言われるそれは、非常に分かりにくい基準でしかない。
 ある意味最も推測しにくいものだろう。特に私達にとっては。
 これは結論にたどり着けそうにない。お手上げだ。
 すると彼はそんな私を見て笑みを深くした。
 私の方を見つめて、私の頭の上に置いていた骨ばった厚みのある手に少しだけ力を入れて、頭の角度を変える。
 気持ちだけ上向かされた顔に、腰を折って頭の位置を並べて来た彼の顔が接近してきた。
 あ、と思った瞬間、唇に唇が降りてくる。
 不意打ちに、拒否する間も、目を閉じる間もなかった。
 息が止まる。
 僅か数秒ほど触れ合った後、ゆっくりと彼の唇が離れて行った。
 驚きにぱちぱちと二度瞬きをした私の目には、彼の微笑みがうつっていた。
 余りにも自然な流れで行われた行為に、拒否しなければならないという考えすら浮かんでこなかった。
 私の方は完全にペースに飲まれただけになってしまっているのに、彼の方はしっかり瞳を閉じていた様なのが少しだけ憎らしく思う。
「これは、やらないって事にした筈でしょ」
 悔しさが芽生えて、私は彼との取り決めを引き合いに出して反論する。
 帰宅時のスキンシップは頭を撫でるまで。
 彼が私の要求を呑んでくれた形で成立した、二人の取り決めだ。
「今日はこれ位は許してもらってもいいと思いますけどね」
 いい方が少しだけ意地悪で嫌味だ。
 原因が私の方にあるのを持ち出されては、それ以上何も言えなかった。
 私の唇にブランドのバッグと同じ価値があるとは到底思えないけれど、彼がそれで満足してくれると言うならばそれでいいのだろう。
 とりあえずこの話もここで終わらせたい。
 原因は自分にあるのだが、今日はやけに逸らしたい話題ばかりになってしまってる気がする。
「そう言えば、他に何か買い物でもしたの? 外に出るなんて珍しいけど」
「ううん。買ったのはあれだけ。あと、外でランチして来たけど」
 見る?と言って私は目の前のパソコンを操作して、自分のアカウントを開く。
 画面に、帰って来てからアップした今日のランチの画像を出して、彼に見せる。
「へえ、パスタ? 美味そうじゃん。」 
「うん、値段少し高めだったけど魚介類の味付けが良かった。帆立とか」
 魚介類の和風パスタに、デザートのアイスクリーム。
 どちらも値段だけの価値はあってかなり満足だった。
「今度一緒に行く? ――あ、でも女性客多めだったかも」
 何となく流れで誘ってみたものの、彼の立場では行きづらいかもしれないと思い直す。
 逃げ道を用意しようとしたけれど、でも彼は拒否してはこなかった。
「萌が行きたいならいいよ」
 あっさりとそう言ってしまえる所が凄い。
 深い意味は無かった誘いにも、こうして乗ってくれる。
 仕事で忙しい立場で自分の自由時間が欲しいはずなのに、こうして私に時間を割いてくれる。
 少なくとも私には到底真似出来ない。
「じゃあ時間できたら言って。私、合わせるから」
 合わせるも何も、自由時間だらけ――というより自由時間しかない状態の私がそうするのは当たり前だ。
 そうすると言うか、そうできると言うか、そうなると言うか。どう言えばいいのだろう。
 色んな表現が適切で、また逆に不適切でもある。
 でもその私の上から目線とも取れる発言にも、彼はやはり感情の波を立てたりはしない。
「分かった」
 あれよあれよと外出の約束が成立してしまう。
 ――次は何を食べようかと少しだけふわふわとした優しい気持ちになって考え始めていると、示し合わせた様に画面に一通知が入った。
 今回の投稿に対するコメントの通知だった。
 相手は《エリンギ》。
 嫌な予感しかしなかったけれど、アカウントの持ち主としてそのコメントをチェックする。
 飛び込んで来たのは、想像通りの文面だった。
『消えろ』
 簡潔かつダイレクトなアンチリプライが、目に飛び込んで来る。
 率直に抱いた感想としては、早いな、だった。
 いつもならもう少し間隔が空くのだけれど、こう立て続けとなると、今は相当向こうも暇をしている様だ。
「……何これ」
 発言を始めたのは一緒にその返信を見ていた彼だった。
「前も確かこの人こーゆーの送って来てなかった? そのアイコン、見覚えあるけど」
 告げられて、そう言えば以前一度こういう経験があったと記憶が蘇ってきた。
 確か三か月程前だっただろうか。
 あの時は大変だね、と言う一言で済まされて終わっていたので、そんなに気に留めてなかったのかと思っていたけど、どうやら彼の脳内にはちゃんと記憶されていたらしい。
 あの時のリプもこの人が送ってきた物だったのか。
 自分自身でさえ忘れていた事をこちらが彼に気付かされた形になってしまった。
 だけどその気持ちはすぐに流石だなというものに書き換わる。
「そう。何回か来てる」
 答えると、彼はアイコンを眺めながら短く訊ねてきた。
「ずっと?」
 うん、と私は軽く首を縦に振って肯定する。
 いい機会なのでこの際聞いて貰おう。
「結構長いかな、この人。もう一年以上は経ってるかも」
 大抵の人はこちらが無視をしていればそのうち新しい標的を見つけて消えてくれるが、この人に限っては違う。
 長い間、そして現在も継続中だ。
「これだけ相手にされてないのに、よく続くなって思う」
 ずっと思っていた本心が口をついて出た。
「それ多分、逆。何も言わないからじゃない? 何言っても大丈夫だって判断されてるんだろ」
 彼の発言は的を射ていて、成程、と思った。そうかもしれない。
 今の今までひたすら関わらないが最善の策だと決めつけていたけど、ここまで来ると確かに只の愉快犯の域をもう超えている。
 そういう相手には単純な無視なんて言う方法だけでは解決はもう難しいのかもしれない。
「一度やめてって言えば?」
 彼が具体的な解決策を提示する。
 面倒になりそうだったけど、これからもこれを続けられると確かにいい気分はしないし、こういう相手のせいでアカウントを閉じるのも嫌と言えば嫌だ。
「そうする」
 彼の指示通り、私は行動を開始した。
 エリンギさんのコメントの返信マークを初めて押して、キーボードを打つ。
 必要最低限の伝達事項しか記入しなかったので、どこからどう見てもそっけない内容になった。
 隣に並んでいる彼にお伺いを立ててみる。
「こんな感じ?」
 タイプした内容を右手の人差し指で指す。

 『コメントをよく頂きますが、いつも私にとってあまり気持ちのいいと言える内容ではないので、申し訳ありませんがこれ以降の返信等は控えて頂きますよう、よろしくお願いします』

 とても事務的かつ義務的だけど、自分なりに一番無難な分かりやすい、的確な言葉を選んだつもりだ。
 うん、いいんじゃない? という彼の太鼓判も貰ったのを受けて、送信ボタンを押す。
 送信しましたという文字が画面に浮かび上がったのを見て、私はグラスを手に取って、中に残っていた紅茶を飲み干す。
「次また変なリプ来たら、教えて」
 一連の私の行為を見届けた彼が、最後にそう付け足して話を締めくくった。
 そこまでこだわらなくてもと思ったけど、彼が私に対してこうして指示をして来るなんて滅多にない。
 それこそついさっきまで話にあがってた『高額な買い物は一言相談して欲しい』の他に、あっただろうか。
 ざっと考えてみたけれどやっぱり思い当たらなかったので、それ以上考えるのは止めてパソコンの画面のエリンギさんのアイコンに目をやる。
 どんな人間かも、今の所どこに住んでいるかも、性別すらも分からない相手。
(間が悪すぎ)
 よりによって今送って来て、しかも二度立て続けに彼にそれを見られるなんて。
 清々しく天運が無いですね、と言ってあげたい。と言うよりもこの場合、むしろ因果応報というものなのだろうか。
 (もと)を正せば、絡んだ相手が私だったから悪かったのだ。
 それが全ての始まり。多分この人物も初手から間違っている。
 別に関係もない、どうでもいい相手だけど、とりあえず()の最終通告を無視してこれ以上絡んでこない様に祈ってあげておく。
 私は別に本当に気にしていないし、事を大きくしたくないのだから。
「遅くなってごめん。ご飯の用意しよう」
 いつもならもう少し平和的な会話をする時間であったはずなのに、意図してなかったとは言え、面倒な事に時間を使わせてしまった。
 椅子から立ち上がって、私はキッチンへ彼を誘う。
「今日はスペアリブ?」
 さっき冷蔵庫を開けた時、すぐ調理にかかれるように手前に用意されていたのを見たのだろう。
「そう。最近ヘルシーなものばかりに付き合わせてた気がしたから」
 いつもしているごく普通の会話に戻しながら、私はつまらない言い争いを続けていたパソコンの電源ボタンに手をかけた。
 フィーン、と小さな小さな音を立ててパソコンがシャットダウンされる。
 残されたのは、ただ暗く黒い、無機質な画面だけだった。