あなたにラズベリータルトを

 翌朝、夜明前にハンスとグレーテは馬車で出発した。朝もやの煙る石畳の道を馬車は軽快に駆ける。

 途中、教会の前に人影が見えたがグレーテは男物の帽子を目深にかぶり直し、無言で通り過ぎた。

 その人影の主である修道女は、通り過ぎる馬車に何か言いたげだったが、すぐにあきらめたような哀しげな顔で静かに十字を切った。

 城郭の大門を抜け、しばらく走ると整備された馬車道を離れ、東の森に向かう。

 手綱を握るハンスは紅を溶かしたような美しい空を眺めて不快になった。

 あの赤は何かを思い出させる。思い出したくない、何かを――――。

 「いやに大人しいわね?怖いの?」

 そんな兄を横目に見ながらグレーテはからかいの笑みを浮かべた。

 「バカを言え!誰が……!」

 「もうすぐ森の入口よ。気を引き締めて」

 ハンスがむきになって反発しようとしたその時、1軒の廃屋が見えて来た。

 「寄って行くか?」

 「冗談でしょ!あんなボロ家……!!」

 今度はグレーテがむきになった。

 両親と暮らした木こり小屋はツタにおおわれ、斜めに傾き、かろうじて建物の原型を留めていた。4人家族が住んでいたとは思えないほど小さい。子供の頃はもっと大きく感じたものだが――――。

 ハンスは様々な感慨に浸りながら、ゆっくりと馬車で小屋の前を通り過ぎた。

 しばらく馬車で森の中を進んで行く。予想に反して森の中は明るく、樹間から木もれ日が降り注ぐ。加えて、馬車道も整備されていた。

 近隣の村人が薪を採るために間伐と道の整備を定期的に行っているのだろう。

 ここが子供の頃、親に置き去りにされた森とはとても思えない。

 あの暗く深く、大人になった今でも悪夢となって襲って来る、暗黒の魔女の森。本当にここで間違いないのか。

 心配になって隣に座る妹を見ると、彼女は口を真一文字に結び、ひたすら前方をにらんでいる。妹に言葉をかけることも出来ず、ハンスはそのまま馬車を走らせた。


 1時間も無言で馬車を走らせただろうか。ゆるやかなカーブをいくつも抜け馬車道を進んで行く2人の前に突然、視界が開けた。

 「あそこ!家が……!?」

 今までひと言も話さなかったグレーテが前方を指さした。ハンスは慌てて手綱を引くと家の数百メートル手前で馬車を止めた。

 その家は広場のように開けた森の中に、ぽつんと立っていた。

 2人は互いに目配せすると馬車に積んだスキとクワを手に、一軒家へ歩いて行った。

 家に近づくにつれ、ハンスの鼓動がどくどくと高鳴る。

 本当にこのままグレーテの言いなりになっていいのか。これでは母に言われるままに幼い俺たち
 を2度も森に捨てたクズの父親と同じだ。

 今ならまだ間に合う。引き返すなら今だ。子供だったあの時とは違う!今なら自分の意思で同じ過ちを避けられるんだ……!

 ハンスは勇気を奮い立たせ、彼の前を歩くグレーテを止めようとしたその時だった。

 「兄さん……あれ、あの家……お菓子の家だわ!!」

 急にグレーテは歩みを止めると、震える声でハンスを振り返ったのだ。