「……はい、よろしくお願いします……"エリ先輩"」

「っ!だから名前で呼ぶなって言ってるだろ!」

 主任は"エリ先輩"という呼び名に、過剰に反応した。

 これは処世術であり、秘策だった。私は主任──獄谷衿(ごくたに えり)さんのことを、わざと下の名前で呼んでいる。苗字はイメージにぴったりなのに、名前が妙に愛らしい。

 パワハラ気味の指導に抵抗するという意味もあるけど、彼の名前の個性を、ただ『主任』と呼んで埋もれさせてしまうにはあまりに惜しいと感じたのだ。本人から許可を貰ったことは、一度もないけど。 

「だって、嶽谷なんて怖いじゃないですか。エリの方がかわいらしいし」

「……あのな。俺の名には『襟を正す』って立派な意味があるんだぞ。この背筋が伸びるような名を『かわいらしい』で片づけるのはやめろと言ってるんだ!」

「すみません。初めてお名前を伺った時の衝撃が忘れられなくて、もうエリ先輩がしっくりきてしまってるんです」

「くそっ、本当に芦尾は生意気だ」

「みなさん、気を遣って嶽谷さんと呼んでいますもんね。名前で呼ぶと怒られるから」

「当たり前だっ。よりにもよってお前だけだ、そんな態度を俺にとるのは」

 そんなエリ先輩が、顧客の前では別人のように腰が低く、爽やかな笑顔を振りまく──かと思えばそんなことはなく、誰の前でも基本的にこんな感じだ。

 それでも彼が売上を伸ばすのは、商品への確かな理解と信頼によるものだろう。その話しぶりはまるで彼らと一緒に働いたことがあるかのようで、現場の悩みを当然のように見抜いていく。お客さん自身すら言葉にできないニーズを、いつの間にか引き出してしまうのだ。そして気づくと印鑑を押させているのだから、恐れ入る。先輩は「俺を見て勉強しろ」と言うが、私にはまだまだ到底できそうにない。

 今日は午後には戻れると思っていたのに、結局オフィスに戻った頃には19時を過ぎていた。同行するといつもこうなる。定時は17時で、他部署の人たちはみんな、遅くても18時には帰っているという真っ白っぷりだというのに!

「今から議事録かぁ……」
 
 先輩とお客さんの会話をメモしたノートをパラパラとめくっては絶望する。

「アフターサポートの客なんだから、言えば録音させてくれたろ。次からそうするんだな。明日には出せよ」

「明日………はい」

 めまいがする。見積書もまだ終わっていないのに。化粧も落ちて疲れた顔でエリ先輩をうらみながらキーボードを叩いていると、どっと疲れが出て、つい口にしてしまった。

「あーあ。私たちが夜遅くまで走り回ってる間に、他の部署は今ごろ飲みにでも行ってるんでしょうね。誰がとってきた仕事で冷たいビールが飲めると思ってるんだか」

 先輩を立てる意味もあったのに、彼は今日の収穫である名刺を並べる手を止めてこちらに椅子を回した。

「確かにな。俺たち営業は、常に客の目の前にいる。感謝の言葉を聞けるのも、今日みたいに門前払いの悔しさを感じるのも、営業職の醍醐味だ。売上に直接関わっているから、花形部署と自負するのも、まあ、わからなくはない。でもな、俺が何を一番大事にしているか分かるか」

 そこまで言って、彼はコーヒーを一口飲んだ。

「お客さんに契約を決断してもらうためのロジックですか?」

「それもあるが、それだけじゃない。製品は、俺たちには作れない。うちが売っているのは、総務や経理、システム──バックオフィスの仕事を効率化するソフトウェアだ。それなのに、俺たち営業が管理部門を軽んじていたら説得力がないだろう。ニーズがあるという事は、それだけ大変な業務なんだ。そこに敬意を払ってこそ、客の前に立てるという事を忘れてはいけない」

 そう話すエリ先輩の机には、他部署の業務マニュアルが大量に積まれていた。

「……はい」

 他部署どころか自分以外の人間をすべて見下していそうな先輩からは、想像もつかない言葉だった。

 確かに前に私が事務処理で困っていたとき、他の営業さんに聞いても分からなかったことを先輩だけは完璧に理解していて、教えてくれたっけ。先輩ってこう見えて、意外と思いやりに溢れた人なのかも──そう思ったのは、数秒だけだった。

「そうだ。明日の全体会議、芦尾も出席な」

「え……またですか?事務は出なくていい会議ですよね?しかも明日は月末ですし……」

「そう思っていたんだが、気が変わった。他の営業所が売上に繋げた話は聞いておいた方がいい」

「待ってください、私エリ先輩の領収証もまだ入力してないんですよ?経理に怒られちゃう」

「そんなの、空いた時間にコツコツやらなかった芦尾が悪い。俺の発表から学ぶんだ。それと来週の合同プロジェクト打ち上げも、人数が足りないらしいから出ろ。分かったな?」

 確かに書類はただ処理すればいいというものじゃなくて、それがどういう流れで動いているのかを知っておく必要があるということは分かっている。でも、所長はまず自分の仕事に慣れてからでいいって言ってくれている。なぜいつも、先輩の一存で全て決定してしまうんだ。しかもさらっと、私に関係ない飲み会にまで参加させるときた。

「……『顔だけ』って、まさに先輩みたいな人のことを言うんですね」

「返事は」

「……はいっ!」

 時計は21時をまわっている。ふてくされる私を横目に満足げにコーヒーをすする憎き吊り眉の隣で、エンターキーを力いっぱい叩いた。