その日の夜。
ヴァロア伯爵領内の古びた酒場で、ジェイドは薄暗い店内の片隅に身を沈め、無言で酒を煽っていた。
よれたシャツに、ほころびた外套。
長い遠征の疲れと、この十日の強行軍が刻み込んだ影が、全身から滲み出ている。
(どうして駆け落ちなんて……。俺たちの関係は、たった三年会えないくらいで壊れてしまうようなものだったのか? 教えてくれ、リディ)
ジェイドは、テーブルの上の婚約破棄の書状に手を伸ばした。
それを両手で引き裂こうとして――寸前で、留まる。
「クソッ……!」
書状を掴んだままの拳を、怒りに任せてテーブルに叩きつけた。
杯が傾き中身が零れ、手には、じわりと痛みが広がった。
「……リディ。君は、今どこに……」
自分を裏切ったリディアへの怒りと、悲しみ。
彼女を奪い去った見知らぬ男への、憎悪と殺意。
黒々とした感情に身を焦がしながら、ジェイドは再び酒を煽る。
すると、そのときだった。
酒場の扉が軋んだ音とともに開き、新しい客が入ってくる。
湿った風をまといながら、荒い息を吐く女性がひとり、店内を見渡した。
そして。
「ジェイド様!」
聞き覚えのある声に、ジェイドは顔を上げた。
そこにいたのは、リディア付きの侍女――アニスだった。
「……アニス?」
アニスはリディアの侍女として、五年以上伯爵家に勤めている。当然、ジェイドともよく見知った間柄だ。
「ああ、良かった! やっと見つけました、ジェイド様!」
涙に滲んだ瞳が、ジェイドを見つめる。
ジェイドは、どうしてアニスがこんな顔をするのか分からず困惑したが、アニスはそんなジェイドに、懇願するように言った。
「今すぐ一緒に来てください! お嬢様は、駆け落ちなんてしておりません! 今も、屋敷にいらっしゃいます!」



