会社公認の社内サークルのイベントで、『秋の天体観測』が実施された今日。
確かに、綺麗な星が辺り一面またたき、まるでプラネタリウムの中に居るかのような感覚になるほど。

灯りも無く、新月の今日は、月明かりも無い。
まさに、『天体観測』には持ってこいの日。


でも………森に迷い込むにも、持ってこいだった。


林の中、一人佇む私。
辺りはすっかり日が落ちて真っ暗になって。
どっちを見渡しても木々に囲まれているここは……。


「……一体どこ?」





.



.





私…上野萌が所属する社内サークルは、「野球観戦&天体観測」と言う、いたって緩いサークルで。小規模のせいか、先輩後輩の距離も近くて、男女関係なくわいわい仲の良い感じだ。
新入社員だった私は、同じく新入社員だった祐奈…こと、小川祐奈が、サークルの勧誘に現れた篠原さんに一目惚れをして、その現場に一緒に居た私も流れで入った。
そして…その後、祐奈は、見事に篠原さんと両思いになり、付き合いだした。



「…篠原さん、本当にわかりやすかったよな…。」


いつも通りの平日。
いつも通りのラウンジ。

たらこおにぎりを頬張りながら、午後の会議の資料を読み込んでいた私は、思わずノートパソコンから目をあげる。隣に座り、そう言った七海さんを思わず見た。


「…どした。」


ほっぺたをおにぎりで膨らましたままだった私を見て、七海さんは面白そうに眉を下げる。


「い、いえ…。どちらかというと、祐奈が篠原さんを好きって感じで…」
「それはだって、基本でしょ?あの二人は。篠原さん、小川さんが顔真っ赤にしてると、凄いだらしない顔になるからね。」
「そ、そうだったんですね…。」


篠原さんと仲が良い、七海さんならではの視点だな…と考えながら、たらこおにぎりを飲み込んでまたノートパソコンに目を移した。


「でも、祐奈、本当に篠原さんが好きですから。良かったです。」
「まあね。」


私の隣でスマホゲームをする、七海さんはどこか上機嫌。
きっと…七海さんも嬉しいんだろうな。

自分が祐奈を誘ったわけだし。


七海颯太さんは、篠原さんを引き連れて、祐奈と私を勧誘に来てくれた人。
サラッとした黒髪にすっと通った鼻。程よく引き締まった身体は細身の長身で。手足が長い。


そして何故か、昼休みに私の前に現れる。


「…腹減った。ちょうだい。」


そして…現れると、当たり前の様に私の持ってきたお箸で私のお弁当箱からハンバーグを摘まみ口に入れる。


「お、美味い。」


次は…卵焼き。


会議の資料を読み進めながらその様子を見ていたら、長い腕が持ち上げられ、厚めの大きな手のひらが目の前に出て、パソコン画面の視界が少し遮られた。


「おにぎりも貰っていい?」
「……。」


ぽんと、一つ、そこに乗せるとラップをあけて、パクリと一口食べる。


「うん、美味い。」


少しほおを膨らました状態で、満足気に頬を緩める七海さんの顔が幼く見えて、私まで少し頬が緩んでしまった。


そんな私にまた少し微笑みかけると、おにぎりを包んでいたラップをくしゃっと丸める七海さん。


「…で?上野さんはどうするの?」
「どう…って…何がですか?」
「や、だからさ…合宿。『天体観測合宿』。まだ返事出てないよね。」
「……。」


それに返事をせずに、ズズッとパックの野菜ジュースを啜った。



秋の恒例行事らしい、サークルイベント『天体観測合宿』。
新人だし、行くのが通例なんだろうけれど…ね。


「…すみません、まだ迷い中で。」


七海さんが私を一瞥してまたスマホに目を落とした。


「…用事でもあるの?」
「い、いえ…そういうわけでは…」
「じゃあ、行こうよ、暇ならさ。」
「……。」


返事をせずに、またジュースをズズッと啜った。


サークルメンバーは先輩達も優しいし、仲良しだから行ったら楽しいのは分かってる。
でも……な。


今回の合宿の幹事は、男性は七海さん、女性は莉子さん。


莉子さんは、3年先輩の七海さんと同期で、営業一課の人。

一見、可愛らしく華奢だけど、とても気が利いて仕事をテキパキとこなす。
それなのに、偉ぶる事も無く上司を立て、自分は一歩引きつつ、後輩にはとても優しい。

私みたいな右も左もわからない新人にさえも。


そして………七海さんととても仲が良い。
サークルの集まりでも二人で楽しそうに話している事が多いし、休日に二人で歩いている所を見かけた事も実はある。
二人は付き合うまで秒読みだとも、囁かれている程…だもんね。


そんな二人の仲むつまじい姿を一泊二日、夜通し目の当たりにするのは正直辛いんだよな…私が。


相変わらずスマホから目を離さない隣の七海さんに気が付かれない様に、一つ密かに息を吐き出した。


七海さんは。

特に何があると言うわけじゃ無いけれど、お昼休みによく現れるだけじゃなくて、サークルの時も何となく近くに居て何となく今日みたいにちょっかいを出してくる。
恐らく、今年唯一入った新人の私や祐奈をサークルに馴染ませるための気遣いなんだろうなと思う。
所謂、「誘ったからには…」的な責任感。
正直、そのおかげで、私も祐奈もすぐにサークルの雰囲気に溶け込めたし、楽しく過ごせているのは間違いなくて。
祐奈が篠原さんと付き合った後も、私が寂しくならないように、こうやってちゃんと時間を見つけては話しかけに来てくれる。

そして…。
いつの間にか、そうやって色々気にかけてくれる七海さんを好きになっていた。


…合宿…か…。


二人の仲を目の当たりにするのは辛いけれど、七海さんと居られる時間が長くなるのは間違いなくて。
どうしよう…かな。
とりあえず祐奈は「行く」って言ってたし、相談してみようかな…。


パックジュースのストローに口をつけたまま、ぼんやりとそんな事を考えていたら、ガタンと隣で椅子から立ち上がる七海さん。


「ごちそーさま。おかげさまで、腹が満たされました。」
「…え?あっ!!」


私が最後にとっておいた唐揚げが!
見事に空っぽになったお弁当箱。


むーっと睨む私をクッと眉を下げて笑う七海さん。


「上野さん、いっつも俺に全部食われんね。トロ子ちゃん?」
「…トロくない。」
「トロいでしょ…や、トロいっつーよりニブイ?んじゃ、今日からニブ子で。」
「ど、どっちもヤダ!」
「そ?まあいいや。とりあえず、出席にしとくから、合宿。」
「え?!私、行くとは…」


慌てた私に「腹いっぱいだからあげる」と紙袋を一つ押しつけた。


…これ、近所に最近出来たカフェの紙袋だ。
中身をチラ見したら、チキンのサンドイッチとドーナツが入ってる。
しかも両方とも私がこの前好きだって熱弁していたやつだ。


「あ、ありがとう…ございます…。」


思わず頬を緩めて中を見て。
それから、七海さんによって綺麗に仕舞われた空っぽのお弁当箱の隣に置いた。


…会議のプレゼンのご褒美に食べよう。


七海さんに食べられて空になったお弁当箱も、紙袋も両方嬉しくて思わず満足気にそれを見ていたら、ポンとその大きな手のひらが私の頭の上に乗っかった。


紙袋とは反対側に立つ七海さんの方に、反射的に顔を上げる。


「とりあえず、今日の会議頑張りな。プレゼンなんでしょ?」
「…え?あ、はい…」
「え?忘れてた?これだけ資料見てたのに?」
「ち、違います…」


フッと少し面白そうに笑う七海さんの表情に、鼓動が心地よく跳ねる。


私…会議だとは言ったけど、プレゼンと話していたわけじゃないのに。


「頑張れ」と頭を撫でてくれた七海さんは、そのまま去っていく。


温かさと重みの余韻を頭に感じながら、広めに見えるその背中を見送って、見えなくなった途端、スマホがメッセージの着信を知らせた。
その内容を見て思わずため息。


『ちゃんと来るんだよ。合宿。』


…とにかく頑張ろう、プレゼン。


お弁当と紙袋をバッグにしまってラウンジから自分の部署に戻る途中で、莉子さんと七海さんが談笑している姿が見えた。


「やだ、七海!何それ!」
「や、本当の話だよ?それさ…」


凄い…楽しそう。
私と居てあんなに笑ってる事ないもんね…七海さん。


なんて、莉子さんと自分を比べるなんて、失礼か、莉子さんに。


どう考えたって、雲泥の差。
私が男でも、100%莉子さんを選ぶ。


だからさ…出来れば放っておいて欲しいんだよな、私の事は。
そうしないと、諦められないよ、七海さんを。


思わず自分の頭に手を乗せて。
また一つため息をついた。




.





「今日、晴れて良かったね!まさに天体観測日和じゃん!」


ロッジに着いて、リビングに荷物を置いた私の隣に七海さんと同期の田中さんがやってきた。


「そう…ですね。」


田中さんに言われて、一緒に窓越しに空を見上げる。


2階まで吹き抜けになっているリビング。
窓もそれに応じて、一面で。
そこから見える、色とりどりの紅葉と澄み渡る青い空。
まるで、大きな一枚のキャンバスに描かれた絵の様に素敵な景色。


「まあ…俺、結構な晴れ男なんで。」


田中さんと「凄いですね!」と盛り上がっていたら、反対隣に七海さんがやってきた。


「だね!幹事!」
「あ~まあ、”田中彰人”の晴れ男ぶりは、雨人間全員でかかっても負けるから。彰人じゃない?」
「えー?俺?確かに、小、中、高って運動会、1回も雨降らなかったけど…」
「マジで?!」


七海さんは「すげ」って楽しそうに笑いながら、私に目線を移す。


「…来て良かったでしょ?」


少し得意気に、けれど優しく笑うその表情に、鼓動と一緒に気持ちが弾む。
勝手に頬が緩んで「はい」と素直に返事をしてた。


…うん。やっぱり来て良かった。
だって、こうやって七海さんと一緒に居られるんだもん。


「田中さーん!すみません、持ってきた脚立どうしますか?」


向こうから私の一年先輩の松永さんが田中さんを呼び


「あ、そっか!サンキュ、松永!それさ…」


田中さんが去って行く。


それを目で見送っていたら、「トロ子ちゃん」と七海さんに呼ばれた。


反射的に「はい」と七海さんの方に振り向くと、クッと笑われる。


「反応した。自覚あるんじゃん、“トロ子ちゃん”」
「…七海さんが毎日そう呼ぶから、染みついちゃっただけです。」
「あらま。それは、ご愁傷さま。」


七海さんの掌が私の頭の上にポンッとのっかった。



「…上野さんは俺とペアだから。」
「え?」
「ほら、天体観測。
言わなかった?夜、ここで星を見ながら酒飲む前に、少しペアで散策する時間があんの。
まあ…ほら、一応サークルイベントなんでね。そう言う時間も作るんだよ。」


…確かに。
でも…それだったら、七海さんは莉子さんと組みたいんじゃ…。


多分、私の顔が何か言いたげになったんだって思う。七海さんがキョトンと小首を傾げた。


「…不満?」
「え?!い、いや…そうじゃなくて…。その…七海さんはそれでいいんですか?」
「良いも何もね。上野さんを連れてきたのは俺なんで。」


さも「当然じゃん」と言わんばかりに私の頭をなでなで。



「上野さん、暗闇に放したらすっげー盛大にコケて迷子になりそう。」
「…そこまでトロくない。」
「そう?」


楽しそうに含み笑いをする七海さんの手のひらを頭に乗せたまま、ムッと口を尖らせて見せたら、余計に目尻に皺を寄せて目を細めた。


「七海!そんな所で油売ってないで、こっちに来て手伝って!」


あ…莉子さん。
瞬間的に、スルリと七海さんの手が離れる。


「おはよう、萌ちゃん!晴れて良かったね!」


白い肌に、エクボがぽこんと出来て、目はまん丸で大きい。
ダウンベストにワイドパンツのGパンでもわかる、華奢で女性らしい身体つき。

それはまるでお人形やアニメのヒロインみたいな可愛さ…。


「萌ちゃん、ちゃんと防寒着持ってきた?夜はかなり冷え込むらしいから。寒かったら言ってね?私、余分に膝掛けも10枚位持ってきてるし、貼るホッカイロも5箱位持ってきてるから!」
「…何、荷物すげー沢山って思ったら、そんなに持ってきたわけ?運ばされた俺の身にもなれよ…。」
「七海にもあげるから、ホッカイロ!萌ちゃんも遠慮しないで言ってね?」


……その上、こうやって優しいなんて。


「はい。ありがとうございます」


神様は、不公平だよね…。


頑張って笑顔を作るために力を入れたほっぺたが不意に七海さんのスラリとした指で優しくつままれる。


「上野さんには必要ないと思うけどね。だっていっつもあったかいよね、ほっぺた。」


一瞬、ひんやりと感じたその指先は、私の頬の温度に融和して優しい感触だけを残す。


うう…どうしよう。
ほっぺたつままれただけで泣きたくなる位嬉しい。


けれど、莉子さんの前で触れられたと言う後ろめたさが同時に襲ってきた。


思わず目線を莉子さんに向けたら、一瞬笑顔が消えていた気がした…けれど。


「萌ちゃんは若いから新陳代謝もいいしね!」


すぐに笑顔に戻り、「ほら、七海、行くよ!」と肩をポンと叩く。

それに伴って、七海さんの指が頬から離れた。


…まあ、そうだよね。
後輩のほっぺたつまんだだけでどうこう気にする様な浅い仲じゃないだろうから、七海さんと莉子さんは。


ほっぺたが触れられた感触を残したまま寒さを覚え、寂しさが込み上げて思わず二人を目で追ってしまう。


「ほら、これ…」
「おっ!やってくれたんだ。ありがと。や~!さすがは莉子!」
「…何か、丸め込もうとしてない?」
「気のせい。」


…やっぱり七海さん楽しそう。
横目で睨む莉子さんをハハっと笑って目を細めてる。


「本当に仲良いよな~。莉子さんと七海さんて。」


田中さんの手伝いを終えたらしい松永さんが隣にやってきた。


「今日もさ、七海さんが車で莉子さんの家まで迎えに行ったらしいよ?
他の人達は皆駅集合で車に乗り合わせだったけど、あの二人は二人だけでここまで来たしね。この合宿きっかけで付き合うんじゃないかって言われてるよね。その為の幹事だって。」
「…そう、ですか。」


ズキズキと痛む心の中と熱くなる目頭。


今更…だよね。
二人の仲は、周囲も認める程なんだし、それは私が入るずっと前からの事。


話を終わらせたくて、二人の並ぶ後ろ姿から目をそらし松永さんの方へ向いた。


「松永さん、運転ありがとうございました!」


松永さんは、照れた様に少し垂れ気味の目を細めてはにかんで、窓の外に目を移す。
ふわっとしている髪に日が射して、茶色っぽく透けて綺麗に見えた。


…七海さんや田中さんと同じくらいの背だけれど、どことなく幼く感じるのはやっぱり歳の差のせいなのかな。
田中さんは楽しそうにしている時は幼く見えがちだけど、やっぱり頼りになる大人な男の人としての雰囲気がどこかあって、年上だな…って感じる。松永さんはどちらかと言うと、感覚が近い感じがするから。

そういえば…七海さんも田中さんと同じだな。田中さんとふざけたり、ラウンジで突っ伏して寝ている篠原さんにちょっかい出したりしている時は幼く見えるけれど。


『まあ…上野さんが“やりたい”って思う事を素直に伝えてみれば?上野さんの所の部長も課長もわかってくれる人達だと思うよ?』


何度か仕事の愚痴をこぼしたことがあって、その時はちゃんと聞いて、真面目に答えてくれた。


『上野さん、それは良くないと思うよ。“一歩引く”って意味がね?間違ってんだよ、それ。』


ダメな時はダメってはっきり言ってくれて、物事の考え方が落ち着いていて冷静だし。


『唐揚げが欲しい。』
『…卵焼きでどうですか』
『やだ、唐揚げ。つか、その卵焼きは俺のだから取引にならないじゃん。』


……たまに、理論がおかしい時もあるけど。


「上野さん、あのさ…」


何だか少し真面目な顔になった松永さんに少し顔を覗き込まれてハッとした。


しまった…また思考が七海さんになっていた。


「は、はい…何ですか?」


慌てて笑顔を松永さんに向ける。向けた先の松永さんは、少しだけ眉を下げて笑った。


「……今日の天体観測、俺とペア組まない?」


…え?


予期しない言葉にドキンと心音が跳ねた。


「あ!もしかして、誰か組みたい人…居た?」


組みたい人……。


『上野さんは、俺とペアだから』


ドキドキと鼓動が早く動く狭間に、七海さんの言葉がグルグルと頭の中に駆け巡る。


「え…っと…。ペアを組むこと自体もここに来て初めて聞いて…。」


松永さんに話すというよりは、自分の動揺を落ち着かせる為に言葉をつなげている感じ。


「そっか。じゃあ…考えといて?」
「は…い…。」


驚きと戸惑いの中、不確かな返事をただするしかなかった。


だって…私が松永さんとペアになれば、七海さんは遠慮せずに莉子さんと組める…んだよね。


「も、も、萌!」


祐奈が少し大きな声で私を呼びながらやってきて、考えが断ち切られた。



「そろそろ部屋に荷物置きに行かない?私と萌、同じ部屋みたいだから…」
「う、うん…」
「…上野さん、なんか、“萌”って名前ぴったりだね。」


松永さんが楽しそうに含み笑い。


「そう…ですか?」
「うん。可愛くて柔らかい感じでさ。似合ってる。俺も、萌ちゃんて呼んでいい?」


か、可愛い…?
顔が瞬間的に上気する。


「あああああの!ま、松永さんも田中さんが探してました!」
「え?マジで?あ!もしかしてカメラの設置位置かな…。田中さんすげー考えてくれてたからな…ありがとう、小川さん、行ってみるわ。」


「また後で」と離れて行く松永さんに何故かホッとしている祐奈。
「行こっか。萌。
私達、新人だからって、気を遣って二人部屋にしてくれたみたいだよ。他の部屋は3人か4人部屋なんだって。 」


そうなんだ…相変わらずそういう所に気が回るな、七海さん。
そして…莉子さんも。


「おりゃっ」
「ぎゃっ!」


不意に後から、髪をぐしゃっとされる。
振り向くと七海さんが面白そうにニヤリと笑った。


「……ザマミロ。」


な、何で?!


「小川さん、ご苦労様。篠原さんの所に行ってよし。」
「で、でも…萌と荷物を…」
「…篠原さん、小川さんがいないって拗ねてたけど。」


小川さんの顔がわかりやすく輝きを増して赤くなる。


「行ってみます!」
「うん、そうしてあげて?上野さんには部屋、俺が教えとくから大丈夫だから。」


「萌、また後でね」と祐奈が去って行く。

それを見送ってから、七海さんが「ん、これ」と部屋の鍵を差し出した。


「201って書いてある、二階の一番端っこの部屋。テラスが隣にあるからわかりやすいと思うよ。」


「わかりました、行ってみます。
あの…私と祐奈を二人部屋にしてくれたみたいで。気を遣ってくださってありがとうございます。」


鍵を受け取る私をジッと見る七海さん。


「な、何か…」
「…や?別に?」


キュッと口角を上げて小首を傾げると、手を私に伸ばした。


「おりゃ。」
「ぎゃっ!」


今度はぐしゃぐしゃとかなりの強さで私の髪の毛をかき回す。


「ちょ、ちょっと…!」


慌てても後の祭り。見事に乱れきった髪を慌てて抑えた。


「あースッキリした!もじゃ子ちゃん。」


もじゃ…


「だ、誰のせい!」


私が怒ると、七海さんは、楽しげにははっと声を出して笑う。


「んじゃ、また後でね、”萌”」


ドキンと鼓動が跳ねた。


な、名前…よ、呼ばれた…。
どう考えても、今のは祐奈からの流れのノリだったと思うけど。


去って行く背中から目が離せ無くなって、いつまでも顔の熱が冷めない。


「…もう。」


吐き出した不満の声は、七海さんに向けてじゃなくて、ちょっかい出されて…名前を呼ばれたことに、喜んでいる自分を呆れて。


こんな事で浮かれたって仕方ないんだから…。


忙しない鼓動を諌めながら、部屋に荷物を運ぶ。
部屋にある備えけの洗面台の鏡を見ながら、抑えていた掌をどかしたら、見事に山姥のごとく乱れている髪。


溜息を吐き出しながら髪を梳かした。


…そういや、七海さんて、時々私の髪を触るよね。

でも…こんなにぐしゃぐしゃにされたのは初めてかも。


不意に思い出したいつかのやり取り。


『…ねえ、 頭、もじゃもじゃにしていい?』
『っ?!何でですか!』
『したいから。』
『だ、ダメ!昨日切ってきたばっかりなのに!』
『お、やっぱそうなんだ。やりがいある!』
『ひいっ!』


『もじゃもじゃにする』って言ってるのに優しく髪に指を通して『サラサラじゃん』って…柔らかい表情で…。


微笑む七海さんが鮮明に浮かんで、鼓動がまた早くなる。


深い溜息をまた吐き出した。


…七海さんは。
誰に対しても懐っこい感じで、相手の懐にすっと入って行く。よく気をまわすけれど、それを相手に感じさせない。
皆、七海さんと居る時は居心地が良さそうな顔をしているし、楽しそう。
だから分かってる。私に対しても七海さんにとってはただの親しい後輩とのコミュニケーションなんだって。


俯きがちにして見ているのは確かに洗面台。けれど、そこに七海さんの笑顔が浮かぶ。


……いっそ告白してしまおうか。
そうしたら、「あいつ、勘違いするかも」って、話もあんまりしなくなって、頭触ったりするのもやめて疎遠に………。


「………。」


そこまで考えて、鼻の奥がツンとして、じわりと瞼が熱くなった。
ブラシをコトリと置いて、俯いたら、余計に視界が不鮮明になる。


……やだ。
七海さんと今の距離感なくなるなんて…。


気持ちを落ち着かせる為に、今一度深く息を吐いた。


コンコン

「萌ちゃん、居る?」


あ…莉子さんだ。


「は、はい…」


慌てて目元を拭ってドアを開けると、莉子さんが私を見て少し心配そうな顔をする。


「…どうしたの?目が赤いよ?」
「あ、すみません、今日朝が早かったから眠くて、いっぱいあくびが…」


思わずそう笑って誤魔化したら、「そっか」って微笑んだ莉子さんが部屋の中を見渡した。


「えっと…」
「あ、祐奈なら篠原さんに会いに行っていて。後から来ると思います。」
「そうなんだ…」


少し考えてから、意を決した顔をする莉子さん。


「あの…さ。萌ちゃん、ちょっとだけ今、話をしていい?」
「は、はい…」


何だろう…?
「どうぞ」と部屋の中に入るように促したら、莉子さんは遠慮がちに入って来て、ドアをそっと閉め、それから私に向かって頭を下げた。


「…お願いします。ペア、変わってください。」


莉子さんの言葉に、ドキリと鼓動が音を立てた。


ペアって…天体観測の、だよね…。


莉子さんは頭を上げて、今度はしっかり私の目を見る。


「…毎年ね?幹事はペアを決められる権限があるの。もちろん、皆の希望を聞いた上で、最終的にって事なんだけど。
去年もその前も、七海は幹事の権限で先輩達と組む事になっちゃって一緒に星を見ていないの。
私…どうしても七海と一緒に二人で満点の星空を見たい。その為に幹事になったのに…。
七海が、『上野さんは俺が連れて来たから』って…。」


綺麗で真っ直ぐな瞳。それに気後れして言葉が全く出て来ない。


「七海、あれで結構責任を感じるところがあって。面倒見もいいから…。萌ちゃんに気をつかってるんだって思うの。」


それはつまり…本当は七海さんも、莉子さんと組みたいって事…だよね。


「……お願いします。私に七海の隣をください。
もちろん、七海とペアじゃ無くなっても、萌ちゃんが寂しくならないように、私がちゃんと配慮するから。お願いします。」


分かっていたけれど、改めて目の当たりにした事実に、ズキン、ズキンと気持ちが軋む。
グッと口を一度つぐんで、お腹に力を込めた。


「…あの。そのことでしたら、その…大丈夫です。
実は 松永さんが…ペアを組まないかって言ってくれて。だから、七海さんにも話そうと思っていたんです。大丈夫ですよって…」
「本当…に?」
「…はい。だから、莉子さんは七海さんと星を見てください。」


鼻の奥がツンとまた痛みを感じて、目頭が熱くなる。


大丈夫…かな。
私、ちゃんと自然に話せてる?
笑え……てる?


「ありがとう…」
「いえ…私こそ、莉子さんに頭を下げさせるなんて、本当に申し訳ないです…もっとしっかりしていればこんなことには…」


話せば話すほど、視界がぼやける気がして、頑張って頬に力を込めた。


「じゃあ、また後でね。本当にありがとう。」


ちゃんと笑顔に戻った莉子さんが去って、ドアがパタンと閉まる。


途端、踏ん張っていた身体が脱力してその場にしゃがみ込んだ。
ポタポタと止めどなく出てくる涙をそのままに、膝を抱え顔を埋めた。


……手放しちゃった。
七海さんと二人きりで星を見る権利。










そこから数分後、少しだけ濡れタオルで目を冷やし、集合場所のリビングへと足を運んだ。
外は既に日が傾き、茜色と藍色がグラデーションを作り、微かに星が煌めきを放ち始めている。
キッチンからはとても良い匂いが漂ってきていて、夕飯を思わせた。


「萌!こっち!」


祐奈の手招きの方へ近づいて行って椅子に座る。


「ごめんね、一人でお部屋に行かせちゃって…」
「ううん、大丈夫だよ。篠原さんと合流出来た?」
「う、うん…」


えへへと照れ笑いする祐奈は、どこか顔が紅潮していて嬉しそう。

…きっと篠原さんと楽しく過ごせたんだね…良かった。


祐奈の穏やかな表情が嬉しくて、何となく篠原さんの居る少し離れた席を見た。


隣には、七海さんの姿。
そして…その隣には、莉子さん。


二人で何やらタブレットで確認しながら話をしている。

莉子さんに何か言われたらしい七海さんが、不意に真顔のままタブレットから顔を上げる。


私とぶつかるその視線
真顔だからかもしれないけれど、いつもと違って少し冷めた様な目つきに、気まずさを覚えて思わず俯いた。


「萌ちゃん、隣いい?」
「あ…」


松永…さん…。


「ど、どうぞ…」
「ありがと!」


松永さんは隣の椅子を引いて座ると、こちらに身体を傾ける。


「莉子さんから聞いた。俺とペアになってくれるんだってね。」
「えっ?!松永さんと萌がペア?!」


何故か祐奈が驚いてる。


「ゆ、祐奈…?」
「ご、ごめん…萌。驚いちゃって。松永さんもすみません。」
「うん、無理ないよ。今まで二人で話す事も無かったから。中々近づけなかったっつーかね…。」


近づけなかった……?


「そ、それはすみませんでした…。私、態度が悪かった…」
「や、違うって!そうじゃなくてね…。」


少しだけ目を泳がせて、返答に困って苦笑いの松永さん。


「まあ、とにかく、天体観測楽しみにしてるからさ。メシ、終わったら流れ解散らしいから、とっとと食べて行こう?」
「は、はい…」
「あ、あああの!良かったら私と篠原さんと四人でどうでしょう!私、萌と星見たい!」


祐奈…心配してくれてるのかな。あまり話した事がない松永さんだから。


でもさ。せっかくの満点の星空だよ?
祐奈には、大好きな篠原さんと二人で堪能して欲しい。


「ありがとう、祐奈。大丈夫だよ。祐奈は篠原さんと楽しんで?」


言った私に、「う、うん…」と少し残念そうに下を向く。


祐奈は本当に良い人だな…。
篠原さんとずっと居たい!って浮かれて周りが見えなくなっても良いはずなのに、私の事を心配してくれて。
祐奈にこれ以上心配かけないためにも松永さんと天体観測を楽しまないと。


そんなことを考えながら、夕飯を食べて、一旦部屋へと一人で戻り、上着を持つと再び廊下へ出た。


…けれど。


ドアを開けた途端にドキンと鼓動が跳ね上がる。


七海…さん…。


壁にもたれたまま、腕組みをしてこっちに視線だけを向けるその表情は、明らかに不機嫌そのもの。


「…莉子から聞いた。松永と行きたいんだって?」


冷めたその声色に、言葉に…ズキンと気持ちが痛くなる。


「誘って頂いたんです…。松永さんに。だから…」


目線を合わせるのが恐くて、俯き、震えを抑える。


「だから『私、松永さんと星が見たーい♡』って?」
「ち、違います…」
「じゃあ何だよ。」


…ねえ。
どうしてですか?
何でこんなに不機嫌になられないといけないの?


だって…七海さんは、莉子さんと本当は星が見たいんでしょ?
『気を遣ったのに…俺のメンツ丸つぶれじゃねーか』って…そういうこと?
じゃあ…私の気持ちはどうなるの?
気を遣われて優しくされて…叶わない想いに苦しんだまま、七海さんの前で笑ってなきゃいけないの?


「な、七海さんは…ちゃんと莉子さんと見てください。」
「何で莉子が出て来るんだよ。」


眉間に皺を寄せて怪訝な顔をする七海さん。これ以上一緒に居たら泣き出しそうで、踵を返した。


「…私、行きますね。松永さんが待ってるんで。」
「や、ちょっと待って…」
「ヤダ!触らないで!」


掴まれた腕を、勢いよく振り払う。
自分で自分の大きな声に驚いた。


目を見開く七海さんのその瞳が少し揺れた気がする。けれど、それを思いやる余裕なんて私にはなかった。
張り裂けそうな気持ちを抱えたまま、流れそうな涙を堪えるのに精一杯だったから。


「……もう、私を気遣ってくださらなくて結構ですから。ほっといてください。」


背を向けた私の腕はもう、七海さんに捕まえて貰えなかった。










階段を降りていった先のエントランスで待っていた松永さんが私を見つけてニコッと笑う。


その笑顔にどこかホッと安堵を覚えた。


…今まで、七海さんばかりを見て、他に目を向けることがなかったから。
気持ちを切り替える良いチャンスなのかもな…。


ロッジを出てみると、辺りはすっかり闇に包まれて、木のシルエットの更に高いところには一面星が瞬く。


「すごい…ですね。」
「だよね…俺も初めて見た時は感動した。」


松永さんが「もう少し歩こうか」と手を差し出した。


「えっと……」


これは、『手を繋いで歩こう』って事…だよね…。


「大丈夫ですよ?コケませんから。」
「や…そういうことじゃなくてさ…」


松永さんは、私に苦笑いしながら「ほら、いいから」と少し強引に手を握る。


「このロッジの敷地からは出ない事になってるけど、柵のギリギリまでは行こっか。」
「で、でも…ここでも綺麗に見えますし…」
「大丈夫、道に迷ったりしないから。」


そのまま引っ張られるがまま歩く星空の下。
とうにロッジは見えなくなり、空に星が瞬いているとはいえ、灯りの頼りは松永さんが持つライトだけ。
枯れ葉を踏みしめる自分の足音しか聞こえない静けさに、圧を感じて息苦しい気がしてきた頃、松永さんが足を止めた。


「……ここまでくれば、二人でゆっくり話せるかな。」


ほんの少しだけ木が途切れ、小さな広場の様な空間。空に目を向けるとちりばめられた星の中へ吸い込まれそうな感覚に陥る。


凄い……。


感動で吐いた息がフワリとそこへ昇り消えて行った。


不意に私の手を握る松永さんの指に力がこもる。


「萌ちゃん、俺と付き合ってくれない?」


静かな空間にぽつりと呟かれた感じ。
予期していなかった言葉のせいなのか、それとも今この空間が非現実的過ぎるからなのか、思考に届くまでに少しばかり時間がかかった。


「…本当は今日は話をして仲良くなればいいかなって思ってたんだけどさ。ごめん、実はさっき七海さんともめてたの聞いちゃって。だから、どうしても言いたくなった。」


聞かれて…たんだ。
そりゃそうか。
私、廊下で大声出したんだもんね。


『ヤダ!触らないで!』


七海さんの腕を振り払った感触を思い出して、気持ちがツキンと音を立てる。
息苦しさを覚えてそれを誤魔化す為にハハッと少し自嘲気味に笑って目線を俯かせた。


「萌ちゃんてさ、七海さんが好き、だよね。その…見ていて何となくそう思ったんだけど。」


そんな私に松永さんのゆっくりとした優しい声音が降ってくる。


「萌ちゃん、七海さんと居る時、本当に楽しそうだからさ。」


丁寧で…わかりやすくて…


「でも…七海さんは莉子さんが好きなんだもんな。」


自覚をせざるを得ない、言葉。
それは優しいけれど辛辣で。


「なのにあんな風に思わせぶりな態度でさ。……辛いよね。」


『トロ子ちゃん』


優しく呼んで私の頭を撫でる七海さんが不鮮明になった視界に蘇り、更に気持ちが痛くなる。


……うん。辛かった。
ずっと…ずっと……七海さんが好きで。
だけど、七海さんは莉子さんが好きで…

違うかもなんて…少しは私に気があるのかもなんて。
思ってみた事もあるけれど、それはただ、現実から目をそらしているだけなんだって…後で悲しくなった。


俯いている視界に松永さんの掌が現れ、そして、私の右頬を包み込む。


「…俺はあんなこと絶対にしない。ちゃんと萌ちゃんだけを大切にするから。もう、頑張らないで?」


……私、もう頑張らなくて良いの?
松永さんとお付き合いをすれば…七海さんの事、忘れられるの…?


瞼を伏せたら、ポタン…と涙が一粒落ちていく。


「萌ちゃん…好きだよ…」


伏せがちになっている視界の向こうで、ゆっくりと松永さんの顔が近づく気配がした。


次の瞬間


松永さんの身体が、勢いよく離れる。


驚いて再び瞼を上げたそこには……


「はい、そこまで。」


松永さんの後ろ襟首を掴む、七海さんの姿。


「…随分と好き勝手言ってくれてんじゃん、松永。」


走って来たのか、喋りながら肩で息をし、ケホッと咳払いをする。


「…お前が萌を好きなのは仕方ないって思うけどさ。あること無いこと吹き込んでって…それは違うんじゃない?」


ある事、無い事…?


「な、何言ってるんですか…。大体、七海さんが…「俺が何?」


反論しようとした松永さんに視線を真っ直ぐ向けてその言葉を塞ぐ。
その雰囲気に押されたのか、松永さんはクッと息を飲み怯んだ。


その様子を見て、ふうと一つ息を大きく吐く七海さん。
私に目を向け、「行くよ」と手を伸ばす。


それを反射的に避けた。


「ほ、ほっといてくださいって言ったじゃないですか!」
「はっ?!バカなの?アホなの?ほっとけるならとっくにほっといてるわ、俺だって。」


だから…何でほっとけないわけ?
私がほっといてって言ってるんだからもう良いじゃん!

完全に頭に血が上ったって思う。


「…とにかく行くよ。話はそれから。」
「嫌です。離して!」


七海さんに握られた手を再び振り払った。


「私は話なんてありませんから!さようなら!」


その場に居たくなくて、七海さんから逃げたくて走り出す。


「ちょっと…あーもう…」


そんな声が後ろの方で聞こえて来た。
けれど、振り返る事も無く一目散。


人間、切羽詰まると能力以上の力が出るんだって思い知った。
こんなに早く走れるなら、万年ビリの徒競走、1回くらい一位がとれたんじゃないかな…なんてくらいにとにかく走る。


走って、走って………どの位走ったかは定かじゃない。
気が付いたら、林道らしき片隅に立っていた。


……ここ、どこ?


辺り一帯を見渡しても、道路以外は全て森。
どっちに行けばロッジの方なのかもわからない。


ここの林道が行きに通ってきた所かどうかも…定かじゃ無い。


柵からは出てないはずだよね…柵があったらいくら何でもわかるし…。


「と、とにかく、今来た道を行ってみよう…」


林道から離れ、たった今、走って来たはずの道を歩いてみる。
けれど、歩けば歩くほど、森が深くなって、道どころか、木以外、本当に何も見当たらなくなった。


迷った…よね、これ。


慌ててスマホを取りだしてみたけれど、圏外で、連絡の取りようも無い。


どうしよう…


気持ちと共に、足元も心許なくなっていたんだと思う。
木の根らしきものに躓き、そのまま前に倒れ込んだ。


「痛…っ!」


転んだ衝撃で身体のあちこちが痛みを感じる。
ゆっくりと身体は起こしたけれど、立つ気力が無くなって、その場にしゃがみ込んで膝を抱えた。


そのまま見上げた空は、相変わらず煌めく星達が一面、埋め尽くしている。


「…綺麗。」


鼻の奥がツンとして、ぼやけてくる視界。
煌めきが歪み伸び、より一層強くなって見えた。


……どうしてこうなっちゃったんだろうな。
ただ、七海さんと長く居られるかもって期待して、合宿に来て…だけどせっかく得た一緒に星を見る権利も手放して。
だから気持ちを切り替えようって…思った。それだけなのに。


私は…何が間違ってたんだろう。


莉子さんの事とか、七海さんの気持ちとか、色々考えてないで、七海さんに想いを伝えれば良かったのかな…


そしたら、こんな…拗れる事はなかった…のかな。
『フラれたらもう今まで通り話せなくなる』なんて欲を持っていたからいけないの?


ポタン…と涙が頬を伝い、白い息がフワフワと満点の星に向かって昇り消えて言った。
ヒュウッと冷たい風が吹き、周囲の木が葉擦れの音をより一層強くする。
すっかり寒くなった身体を縮め、溢れ出てくる涙を堪える為に掌で鼻から頬にかけ、手で一度拭った。

けれど、暗闇と寒さに心細さは増すばかりで。
思い出すのは、七海さんの柔らかい微笑みと優しい掌の重み…そしてその指先の感触。


七海さん……


「会いたい…よう…」


抱えた膝に顔を埋めて、呟いた。


会いたい……もう、なにがどうでもいいから。
とにかく、今…七海さんに会いたい。


こう言う状況になって思い知った。
辛いとか苦しいとか、話せなくなるとかどうでもいいんだ、私は。
七海さんが居てくれればそれで…幸せなんだよ。


それ位、好きなんだ。
気持ちを切り替えるなんて、浅はかだったって事、だよ。


スンっと鼻をすすると、寒さで余計に鼻の奥がツンと痛みを覚える。


罰があたったんだな…中途半端な事をしようとしたから。


強めの風が吹き付けて、ざわざわと周囲の木々が音を立て始め、夜が一層深くなるのを予感させた。


…私、ここで一晩過ごすのかな。
仕方ないか。
七海さんの話を聞きたくないって勝手に逃亡したのは私だもんね…


再び吐き出した白い息を見送り空を見上げる。


その瞬間


“萌ー!!”


微かに耳が人の声を捉えた。


空…耳?


顔を上げ、ゆっくりと立ち上がる。


「萌ー!」


確かに聞こえる…七海さんの声。
聞こえてくる方向に向いたら、一瞬、光りが見えた。


本当に………七海さん?


フラフラと吸い寄せられるがごとく光へと近づいていく。
そのまま、その光を発している本人を確認出来る所まで来た。


七海さん…だ…。


私を視界に捉えた七海さんは、一瞬、目を見開く。
それから、一度目を伏せフッと息を吐き出すと近づいて、その手を私に向かって伸ばした。


「っ!いはっ(痛っ)!」


腕と同様にスラリと長い指が、思い切り私の両頬をつまみ、横に伸ばす。


「ムダに走らせんな。トロ子のくせに足早すぎるし。」
「うーっ!」
「うるさい。話も聞かないで言いたい事言ってとんずらしやがって。」


だって…だって………


痛さと、『七海さんが追いかけて来てくれた、会えた』嬉しさと安堵。
色々な感情が交差して気持ちが高ぶる。


「…萌のほっぺた、すげー伸びるね。餅みたい。どこまで伸びるかもっとやってみる?」
「うーっ!」


七海さん…ありがとう。
ありがとう………。


その指の感触に確かに七海さんの存在を感じて、目をギュッと瞑って何とか涙を堪えた。


「………何、やっぱ転んだんじゃん。」


不意にほっぺたが解放された。

七海さんがその指先で「何か色々ついてるけど」と鼻の頭やら髪やらについているらしい、土や枯れ葉を払ってくれる。


「だから言ったんだよ。萌を暗闇に放つのは危険だって。」


優しいその感触に、口をへの字にしたまま、こみ上げて来る涙を耐えていたら、七海さんの掌が、私の両頬をそのまま包み込む。


一瞬の出来事。


フワリと、でも確かに、唇同士が触れ合った。


う…そ……
わ、私今…七海さんにキス…された…?


瞬きすら忘れて固まっている私に、七海さんは眉を下げ小首を傾げてみせる。


「…『気を遣わなくていい』って萌が言うから。だから好きにさせて貰おうかと思って。」


私を抱き寄せてそのまま首筋に顔を埋めた。


「…あー…暖かっ。」


耳元を掠める、七海さんの嬉しそうな声。
その抱きしめる強さと温かさに気持ちがほぐれていく。
よりその存在を感じたくて、手を持ち上げて背中に回し、瞼を伏せた。


"七海さんが好き"


ちゃんと…気持ちを伝えたい。
今ある、この想いを。
気負いなく、そう思えた。


「…確かに。
莉子と俺は同期で気が合って、仲が良い方だって思う。」


そんな私を「でもさ」と七海さんが更に引き寄せ抱きしめ直す。


「俺は、萌が好き。」


頭を少し動かす七海さんのふわふわの髪が頬を微かにくすぐった。


「もうさ、仕方ないでしょ?そこは。
誰が何て言おうが、何がどう覆ろうが、好きなもんは好きなんだよ。
ほっとけなんて無理。」


ずっと…ずっと。
焦がれて、けれど一方でそんなはずはないと諦めていた。
七海さんの『気持ち』。


嬉しくて。
ただ、ただ嬉しくて。
瞼がじわんと熱を持つ。


吹き抜ける風が葉擦れを起こし、枯葉を舞いあげる。
けれど、それに寒さも恐さも…不安も無かった。


ズッと1度鼻を啜り、それから静かに息を吐いた。


「七海さん…」
「んー?」
「私、七海さんが好きです。」
「………。」


身体を少し離した七海さんが、親指で目元を拭う。


「……うん。」


優しく柔らかい笑顔。
それが嬉しくて、また鼻の奥がツンとする。

また涙が込み上げて……


「知ってる。」


………一瞬にして引っ込んだ。


し、知ってる?!


「や、知ってるっていうかさ…
俺は元々口説きたくて萌にしつこくつきまとってたんだし。
そしたら萌もちゃんとそれに順応してくれたから。」


順………応。


「大体、なびいてくれてんな~って感触がなきゃ、こんなベタベタ触れないでしょ。
手当り次第やってたらただのヘンタイだよ?俺。」


それはまぁ、そう……か、言われてみれば。
頭ポンポンされるの一つとったって、私に七海さんが好きだと言う感情があるから嫌悪感なく成立するやり取りなのかも。


戸惑いながらも納得していたら、「おりゃ」とまたほっぺたを摘まれた。

けれど、今度は痛くない程度に優しく。


「なのにね。誰かさん『松永さんに誘われたから♡』ってさ。」
「ら、らはらほへは…(だ、だからそれは…)」
「あーあ!せっかく、幹事の権限使ったのに台無しだよ。お陰で企みがパーになる所だった。」
「は、はふはひ?(企み?)」


ほっぺたを解放した七海さんの指が今度は髪を通り、そのまま私の頭を引き寄せる。
コツンとおでこ同士がくっついた。


「…萌には教えない。俺に優しくないから。『ヤダ!触らないで!』なんて言ってね…あー傷ついた。」
「そ、それは…だって…」


むぅっと口を尖らせた私に、七海さんは優しく鼻をすり寄せる。


「……とにかく帰ろ。ロッジに。」


その感触に、微かな不安は消えていく。


……七海さんにだけじゃない。
莉子さんや松永さんにも、ちゃんと話さなきゃ。自分の気持ちをきちんと。


その為にも、帰らなきゃ。


七海さんが私の手を握りそのままポケットに手を突っ込んだ。


当たりは相変わらずの暗闇と満天の星。
その下に今、七海さんと一緒にいる。


何だか…夢みたいだな。


「…本当に星が綺麗ですね。」


空を見上げたまま呟いた私に習い、七海さんも空に目線を移した。


「…うん。どっちかっつーと俺の台詞だけどね、それ。」


ポケットの中で指が絡み合い握り直される。


「まあ…そうでもなくなったからいいけど。」
「そうでも…」
「うん。“そうでも”。」


七海さん…何が言いたいんだろう?


首を傾げた私をハッと目を細め笑う七海さん。
そのまま顔を近づけて唇同士を触れさせた。


「…いつか月でも見ます?一緒に。」


綺麗な三日月を描く薄めの唇。薄ブラウンの瞳が暗がりなのに星以上の煌めきを放つ。


「は…い…」


穏やかで妖艶な笑みに捕らわれて、無意識に返事をしていた。











…萌のことを最初に気になり出したのは、実はサークルの勧誘の前だった。


4月、新入社員向けに行われる新人研修。


グループディスカッションと、簡易作業を伴う実習訓練。
そして、大学の課題なんかよりよっぽど沢山のレポートを課せられ、締め切りもハード。
ここで挫折して辞める社員も何人か出るなんて言われるほど、業界でも有名な研修。


その代わり、1ヶ月の研修を無事終えた社員達は配属先では一からのスタートではなく、それなりの信頼を得た状態で仕事を開始することが出来る。


そんな研修で、誰よりも苦労していたのが新入社員として居た、萌だった。


グループディスカッションと発表が最終課題ではあったけれど、そこに行くまでの実習訓練がとにかくうまくいかない。
立ち回り方はもとより、手作業を伴う仕事もその不器用さから周囲よりも遥かに遅れを取る有り様で、何度も仮配属部署でどやされ、嫌味を言われていた。


「上野さんて子、辞めちゃうかね~。」


社内でも、そうもっぱらの評判。

俺もどうなるかな、なんて思って傍観していた。


…だけど。


どんなにどやされ、嫌味を言われても、萌はただ、「はい。」と答え、目の色を失うことはなく、ただ、一生懸命に目の前の課題に取り組むだけ。


それが、開始すぐだけじゃなく、一週間経っても、二週間経っても……他の新人達が疲れを見せ始めても、変わらない。
課題を他の人と同じ様にこなすために、休み時間も懸命に努力を重ねてそれを続けてた。


………随分根性あるんだな。


なんて思った頃にたまたま研修生担当当番が回って来た。


「…厳しくて大変でしょ。今日もどやされてたじゃん。」


興味本位で何となく声をかけただけ。他意はない、本当にそれだけだった。


「仕方ないです。他の人はちゃんと出来る事を私は出来ないわけですから。改善努力をしないと。」
「凹まないの?」
「それは…凹みますけど。自覚していますから。
人の10倍は努力しないと人並みにならないって。昔から何でもそうなんです。
でも、努力をすれば人並みにはなれる。配属部署に行けば、足を引っ張るわけにはいかない。そのための研修なんだから。今頑張らなくて、いつ頑張るんだってそう思っています。」


その表情は負い目なく、真っ直ぐで。笑顔は柔らかいのに、限りなく前向きで芯がある。


きっと、今までも、そうして努力して来たんだろうね。
だから自分を卑下しないし、過信もせずに、自分に置かれている問題を冷静に分析して、その為に自分がどうすべきなのかを考えられる。

凄い子なんだって、シンプルに惹かれた。


「ふうん…。
まあ…頑張って?“トロ子ちゃん”」


敬意と親しみ、両方込めたら自然と出て来た言葉。


萌はそんな俺に笑って「はい!」と答える。
そこには何の嫌悪感も感じない。


益々惹かれた。


そこからは、もう沼にハマる勢い。


サークルの新人勧誘が解禁になってすぐ、他の所から目をつけられないうちにって、篠原さんと彰人を引き連れて声をかけに行って、小川さんが「入ります!」と即答してくれたから流れで半ば強引に入れた。


「慣れる為」ってかこつけて昼休み会いに行ったり、空き時間にちょっと萌の配属部署に何してんのかなーって覗きにいったり。
もう、ここまで来ると結構なハマり具合でしょ?
そこら辺で、ああ、俺、好きなんだって気が付いて苦笑い。


…今までさ。自分がそんな風になることなんて一度も無かった。


だから……それでもう一個気が付いた。


莉子に対する想いはやっぱり、『大切な同期』なんだって。
入社時代から気が合って、二人でどっかに遊びに行ったり、飲みに行ったりする事もしばしばだった莉子。


もしかしたら、好きなのかなーって漠然と思ったこともあったけど、そこには違和感があって自分の中でもどうしても「じゃあ付き合います?」って事にはならなかった。
莉子もそんな俺の曖昧な心情を理解してたのかもしんない。
特にこれといってアクションがあったわけじゃなく、ただ毎日会社で会って話して、たまにSNSでやり取りする。そんな感じの距離だった。


…だから。
勝手に思ってしまってた、『莉子も同じ様に思ってる』って。









萌の手を握りながら夜空の下を歩く、ロッジまでの道。
去年まで全く興味なんて無かったはずの星空は、すごく綺麗に見えた。


きっと、萌とじゃなきゃこうは見えないんだろうね。



“星が綺麗ですね”


不意に萌が発した言葉。


まあ…さ。
これでも天体観測をするサークルの一員ですから。
別に興味は無いけど、ペアを組んだ先輩やら、彰人やらから聞いてたんだよね、その意味を。


涙の跡に土まみれで星空見て笑う萌がすっげー綺麗に見えて、可愛くてさ…ついね。


『いつか月でも』なんてかっこつけてしまったわけ。


まあ…このニブくて真面目な人には全く伝わらなかったみたいだけどね。











七海さんと暫く星空の下を歩いていたら、ロッジの灯りが見えて来た。



…結構近くだったんだ。
と言うか、何故、七海さんはちゃんと迷わず帰れるの?


「うーん…」
「何、腹痛?」
「ち、違いますよ…私、何でこんなに近かったのに帰れなかったんだろうって…」


進行方向を向きながら、七海さんがふふっとまた目を細め笑う。


「そりゃ…ね。あなたは“トロ子”ですから。」
「…方向音痴にトロいの関係あります?」
「いいの、総じて“トロ子”なの。」
「……。」
「すげー不服そう。」


…別に不服ではないけれど。
ちょっと、気にはなってはいる…んだよね、『トロ子』


新人研修の時、一度だけそう呼んだ先輩が居た。


その人は私の話に『そんなことないよ』『人によって出来る事は違うから。』『出来ないなんて事ないよ』


そう励ますのではなく、『頑張ってね、トロ子ちゃん』…そう反応した。



ああ…この人、私の話をちゃんと聞いて反応してくれたんだって、嬉しくて。
あれで、疲れ始めていた気持ちも立て直せて、最後まで頑張れた。


だけどあの時は、やり終えられなかった課題をやっている最中で、いっぱいいっぱいだったんだよね…。
だからそっちに集中していて、しかも、元々人を覚えるのがあまり得意では無いから、スーツを着た先輩達は皆同じ顔に見えちゃって、その人の顔が未だに思い出せない。

ほんの数秒のやり取りだったし、その人はすぐに立ち去ったから。


だけど、その時から『トロ子』はちょっと特別な言葉になったのは間違いなくて…



「おっ!彰人が玄関先でウロウロしてる。」


思考が数ヶ月前の事に逸れそうになったのを、七海さんの声が今に引き戻した。


もうすぐ…着く、ロッジに。


「あ、あの…少しだけ、松永さんと話す時間を頂けますか?」
「…………いいよ?その後で松永ボコボコにするから。」


何で?!


「俺の企み邪魔しようとしたんだから、当然でしょ。」
「だ、だから企みって…」
「教えるわけないじゃん。松永とイチャイチャしてた人には。」
「してません!」
「ふーん。んじゃ。俺の勘違いか、キスされそうになってたの。手を繋いでたのも。」
「ぐっ……だ、だけどそれは…」


ムウッと口を尖らせる私を「それは?」と整った顔が覗き込む。
若干上目遣いの潤んだその瞳に「もうどうでもいいから七海さんと居たい」と言ってしまいそうになって、思わず溜息を吐き出した。


「…ちゃんと話がしたいだけです。それが松永さんに対しての非礼のお詫びだって思うから。」
「確かに。萌はとんずらしたからね。その上ボコボコにされんのか。松永くん、ご愁傷様。」
「ぼ、ボコボコはダメ!」


不意に腰から抱き寄せられて、フワリとまた唇同士がくっつく。


「…まあ、じゃあ話してくれば?俺も、ちょっと莉子と話す時間欲しいし。
ほら、もう誰かさんが『莉子さんと』なんて言い出さないようにしないとね。」


七海さん……。


頬が緩み、また目頭が熱くなる。


「まあ、じゃあ…お互い話が終わったら、部屋の横のテラスに集合します?」
「…はい。」


返事をしたら、くふふと笑う七海さん。


「じゃあ、“頑張ってね、トロ子ちゃん”」


………え?


一瞬、あの日の先輩に重なった。


「あっ!上野さん、颯太!お帰り!無事で良かった~!」


田中さんが走り寄ってくる。
ポケットの中で手をそうとした私の指をギュッと七海さんが捕らえた。


「ごめん、彰人。心配かけて。」
「や、全然だって!つか……」


暗がりに田中さんの白い歯がにやーっと浮き上がる。
その長い腕が七海さんを抱き寄せた。


「颯太~!そっかそっか!超嬉しい!涙出てきた!」
「や、彰人が感動してどうすんだよ…。あ~…ほら、人のシャツで鼻水拭いたら汚いでしょ?
とりあえず寒いんだからとっとと入るよ」


私の手を離し、スタスタと先に玄関に向かう七海さんの耳が灯りに照らされてほんのり赤くなっている。


もしかして…田中さんに喜ばれて照れてる?


そんな七海さんの後ろ姿を見ていたら、田中さんが私の隣に並んだ。


「上野さん、おめでとう!って言うか、颯太の事よろしくね!」
「え?は、はい…」
「あー!本当に嬉しい!頑張って勧誘に行って良かった!」


キョトンと見上げた私に田中さんが少し「しまった」という顔をする。


「えっと…ちょっとだけネタばらしするとさ。勧誘が解禁になった日、颯太、必死で上野さんを探してたんだよね。勧誘したくて。」
「そう…なんですか?」


「俺が言ったって内緒にしてね!」と田中さんはそのまま七海さんの元へと走り寄っていく。


七海さんは…私を元々知っていたって事…?



『頑張ってね、トロ子ちゃん』


…と言う事はあの先輩は、やっぱり七海さんだったのかな。
いや、でも…それは都合良く考えすぎ?


エントランスに上がりながら少し首を傾げていたら「萌ちゃん」と声をかけられた。


あ…松永さん。


きゅっと唇を噛み、それから頭を下げる。


「…すみませんでした。その…逃げたりして。」


目の前まで来た松永さんは、ふうと息を吐き出した。


「…萌ちゃん、謝らないで。どっちかっつーと、悪いのは俺だから。」


顔をあげた私に松永さんは苦笑いをして見せる。
頭を少しかきながら、「ちょっと話してもいい?」と、再び外に出る様、私に促した。



再び出たロッジの外は、相変わらず澄んだ空気が故の寒さ。
星はどこまでも空を覆い、光を放つ。


「…本当はさ、知ってたんだよね。七海さんも萌ちゃんが好きだって。」


そんな星達を眺めながら、話す松永さんの息は白くフワリと舞い上がり、消えていく。


「七海さん…全然話をさせてくれなかったから、萌ちゃんと二人きりで。」


首を少しかしげたら、こっちを見てまた松永さんは苦笑い。


「そもそもあの人、去年は『勧誘なんて面倒くさい』って全然やる気なかったんだよ?サークルに入った理由だって、『野球観戦を会社の福利厚生で出来るならお得だから』って事だったし。ただ、集まりの時にちょっと顔出して田中さんや篠原さんと遊んでるって感じで。
そんな人が、ある日突然、萌ちゃんの事連れてきて、ずっと何かにつけて、面倒見たりかまったりしてたら、口説く為に入れたの一目瞭然じゃん。
あのやる気の無かった七海さんがそんなになったら、そりゃ皆、手、出しにくいよね。
……でも。
好きになっちゃったからさ。」


松永さんの瞳が寂しく、けれど優しく揺れている気がした。


「もちろん、莉子さんと七海さんが噂になっていたのは本当。まあ、あくまでもサークル外での話だけどね。本当に仲が良かったから、あの二人。
だから、それに便乗した。
この合宿が最後のチャンスだって思ったから。」


そのまま頭をゆっくりと下げる。


「…だけど、結果的に萌ちゃんが辛い想いをして、七海さんを怒らせただけだった。
ごめん。自分の事ばっか考えてたって思う。」


松永さん……。


「あ、あの…。嬉しいです、私を好きだって言って貰えて。」


あげたその顔がさっきよりも悲しそうで、気持ちがズキンと痛みを覚える。
でもはっきりとさせない方が、きっといけない事だから。


「…私、本当に何をしても人より出来なくて、のろいんです。人との接し方も日常する軽い会話も下手くそで。
もちろん、今よりもよくなろうって努力してはいます。でもそれは皆同じ。私が努力して漸くたどり着いた頃には、皆はもっと先に進んでる。魅力的な存在になっている。
そんな中で、松永さんが私を目に留めてくれたんだって…。」


きゅっと1度唇を結んだ。
それから、真っ直ぐに松永さんを見る。


「でも、私はどうしても七海さんが好きなんです。」


「ごめんなさい」とまた頭を丁寧に下げた。


「…暗闇に一人迷い込んだときに思ったんです。私が幸せだなって…ホッとして嬉しいって思えている瞬間て…七海さんが隣に居るときだって。」


足元をひゅうっと冷たい風が吹き抜ける。それと同じタイミングで松永さんが深く一度息を吐いた。


「……うん、だよね。それも分かってたのにな~!」


あーあ!と伸びをすると、空を見上げる。


「まあ、でも。萌ちゃんと少しでも星を見て、手をつなげたから。」


それからもう一度私を見て「ありがとう」と穏やかに笑った。


「こんなに長く萌ちゃんと居たらまた七海さんに怒られそうだよね。
もうさ、マジで恐かった、追いかけて来て首根っこ掴まれた時。このまま締められるんじゃないかって。俺のが若干背が高いのに迫力で負けるってさ…どんだけ怒ってんだよってね…
しかも、萌ちゃんが逃げていった後、何も言わずにすっげー冷たい目で一瞥して去ってったんだよ?
七海さんて、普段どっちかっつーと分け隔てなく、温和なイメージだからさ…色々捲し立てられるより、よっぽど恐いよ、あれ。
…と、言うわけで、俺は七海さんに睨まれるのはもう勘弁だから、行くわ。」


玄関のドアが、パタンと閉まり、今度は私が深く溜息を吐き出した。


ポーチの所に腰を下ろして、そのまま星空を見上げる。
再び吐き出した息は白くフワリと浮き上がり、やっぱり空へと消えていった。


それをただ、ぼーっと眺めていると、再び背中で玄関のドアが開く。
振り返ったそこには、どこか寂しそうな微笑みを浮かべる莉子さんの姿があった。


「萌ちゃん…今、ちょっと話せる?」
「あ……」


立ち上がろうとした私よりも先に、莉子さんが隣にストンと腰を下ろす。


「…今年も本当に綺麗だな~星。」


促されるように見上げた空。
今日、幾度となく見ているのに、そして『綺麗』だとは思うのに、また違って見えるのは、その時その時で感情が違うからだろうか。


「…萌ちゃん。私ね?」


そんな事を考えて居たら、莉子さんがポツリと星空に向かって呟いた。


「フラれちゃった、七海に。」


それから私に向き直り、真顔になる。


「…ごめんね。ずるい事して。
先輩にあんな事されたら、断れないに決まってるのにね。
しかも…『七海が萌ちゃんに気を遣ってる』なんて嘘までついて。
本当にごめん。」


揺らめく瞳が、綺麗に光り、星と同じくらいの輝きに見える。


「萌ちゃんが出て行った後、七海を捕まえようとしたんだけどね…あっさりお断りされたよ。『悪いけど、それどころじゃ無いから』って。」


寂しそうな笑顔が、辛く感じて、だけど目をそらしちゃいけないって思った。


「本当は、わかってたんだ。七海が萌ちゃんをサークルに連れて来た時から。…ううん、その前から。」
「その…前…?」
「うん、新人研修明け位かな…七海さ…どっか落ち着かなくなって一緒に居ても心ここにあらずだったの。
多分、本人も自覚してなかったと思う。その位端から見たら普通だったんだけど。ごく親しい人…私と彰人と篠原さんは何となく気が付いてた。
彰人とはチラッと話をしたこともあったしね。『颯太がおかしい』って心配してたから。」


新人研修明けから…様子がおかしい…。


『颯太、勧誘解禁と同時に萌ちゃんの事探してたんだよね』


田中さんの言葉が過ぎって、再び新人研修の時の先輩が重なる。


やっぱり、あの時の先輩は…七海さん?


「…萌ちゃん?」


私が考え込んでいるように見えたのかもしれない。莉子さんが少し心配そうに私を覗き込み、それから苦笑いに変わる。


「…心配しないで?ちゃんとフラれて来たから。もう、スッキリした。」


それから再び星空を見上げた。


「あーあ…七海と星空の下を歩いてみたかったな…。でも、悪い事考えるからこうなるんだよね。」


その目元からポタンと涙が落ちてくる。


「…悔しいな。三年も好きだったのに。」


弧を描く口元に、ズキンと痛みを覚えた。
それをぐっとお腹に力を入れて堪え、言葉を押し出した。


「…莉子さんに言われて辛かったのは確かです。
だけど、私はそこで『七海さんが好きだから譲れない』って言わなかった。
それは、私自身が弱かったから。
先輩だとか、目の前に事実を突きつけられたからとか…そんなの関係無かったんです。本当は私はちゃんと自分がどうしたいか、どう考えているのかを伝えなければいけなかったんだって…思うんです。」


私を見た莉子さんの方へ体をきちんと向ける。


「莉子さんが七海さんを好きだって思っているのはわかっても、譲れない。
それが私の本当の気持ちです。私も、嘘をつきました。すみませんでした。」


目を見開いた莉子さんは、眉を下げてふっと笑い三度星空へと目を向けた。


「…やっぱり、萌ちゃんはイイ女だね。」


…わ、私が??


「り、莉子さんにそんな風に言われるなんて…」
「あら、本人は自覚無しなんだ。そりゃ、七海もヤキモキして、夢中になるね。」


クスリと笑うと、ハンカチを取り出して「汚れてるよ」と私の鼻の頭を優しく拭ってくれる。


「私も萌ちゃんみたいになれるように頑張らなきゃね。」
「…莉子さんが私みたいになったら、それは、退化です。」
「えー?そう?」


あははと楽しそうに笑う莉子さんに、私もつられて少しだけ笑顔。


「萌ちゃん、本当にごめんね、だけど…ありがとう。」


先に立ち上がると、私の腕を引っ張って立たせる莉子さん。


「七海、きっと今、萌ちゃんのこと、首を長くして待ってるよ。」


どうぞ、と促すように玄関のドアを開けてくれた。












萌が松永と外へ再び出て行ったのを遠目から見送ってたら、莉子が隣に並んだ。


「…萌ちゃんに会えたんだね。」
「あ~…うん、まあ。」


歯切れの悪い俺の背中を「ちょっと付き合ってよ」とリビングと反対側の壁に押しやった。


「本当はもっとロマンチックな所でさせて欲しかったけど、あんたは気が気ではないだろうから、ここで勘弁してあげるよ。」


ニコッと笑うその顔は、どこか晴れやかでけれど引き締まっていて。
多分…俺が何を言うかまでお見通しなんだって思った。


「…これでもさ。自負があったのよ。七海に一番近い女は私だーって。
だから、ずっと待ってたんだけどね。いつか振り向いてくれるだろうって。
でも、結局、違う子に夢中になっちゃってね。」


莉子の瞳が潤みを増す。


「…一度で良いから、七海と見たかったの星空を。
ごめん、自分が悪いことしたのは自覚してるから。」


…『自覚』ね。


曖昧にしっぱなしで、何となく莉子とのそういう話題を避けてた。
それは、どっかで俺自身が、『莉子は俺が好き』って事を自覚してて、けれど都合良く、心地よい距離感を手放せなかったから。
結果的に、莉子も萌も苦しめたって事になるわけで。


「…ごめん。」


色々ご託を並べた所で、全部今更な言い訳な気がして、そう一言呟いたら、「もう」と笑う莉子。


「ほんと、七海はずるいヤツだよね。こういう時に限ってそうやって何も言わないでさ。普段はうるさいこと散々言うくせに。」


「まあいいや」と俺に背中を向けた。


「…ありがとう。言わせてくれて。」


そういうとそのままリビングへと去って行く。
その姿が見えなくなって、初めて息を深く吐き出した。


何か…すごい疲労感。
そりゃそうだよね…莉子が俺にとって大事なヤツだって事には変わりない。
そんな人からの好意を拒むって事はそれなりの代償を伴うわけで。


フラフラとそのままテラスへと上がると、誰も居ないウッドデッキにペタンと腰を下ろしあぐらをかく。
そのまま夜空を見上げ、少し身震い。


「…寒っ」


萌の笑顔と抱きしめた感触が一気に蘇って、無性に恋しくなった。



…早く来ないかな、萌。
とっとと、暖まりたいかも、今。









莉子さんと別れた足でそのままテラスへと上がっていくと、大きいはずの背中丸まって小さくなっているのが見えた。


暗がりの中、顔にブルーライトが当たっている。明らかに空ではなくて、スマホに目線がある。


『七海さん、別に天体観測に興味無かったんだよ』


松永さんの言葉を思い出し、なるほど、と少し溜息。


…熱心に見えたんだけどな、サークル活動。


「…星、見ないんですか?」


近づいて行って声をかけたら、スマホから目を離し私を見上げる七海さん。
口角をキュッと上げて笑ったけど…どこか少し覇気が無い気がした。


鼻の頭が赤くなってる。


隣にしゃがんでその頬に手を伸ばしたら、だいぶひんやりとしていた。


もしかして…だいぶ前から待ってた…のかな。


不意に頬を触っていた手が握られる。その指先もやっぱり冷たくて、ギュッと気持ちが掴まれた。


『フラれたから』


莉子さんと…話をしたんだよね、七海さん。


相変わらず少し寂しそうな微笑みを浮かべる表情にどう言葉をかけていいかわからない。


「萌が来たから、真面目に天体観測しよっかな。」


私が戸惑っている間に、七海さんは「ほら、来なよ」と私を引っ張り自分の前に座らせる。

そのまま、背中から私をギュウッと包み込んだ。


「あ~…やっと暖かくなった。」


溜息交じりの、でも嬉しそうな声色。一気に身体に広がる七海さんの温もり。


うん、私も暖かいです。とっても。


見上げた空には、光りの違いはあるけれど、それぞれが光りを放ちその存在を示している星達。



…凄いよな。
たくさんの女子社員がいる中で、七海さんは私を見つけてくれたんだもん。


見つけて………


「………。」



『勧誘解禁の日、颯太、上野さんの事必死で探してた』

『新人研修明けた位かな。七海、心ここにあらずになってさ…』


………やっぱり、聞くべき?
うん、聞こう。
違っても、落ち込まない。
あくまで…同一人物かもというのは私の勝手な期待だからと言う事で。


「あ、あの…」


私の肩に顎を乗っけて首に若干頭を預けてる七海さんに恐る恐るお伺い。


「…な、七海さんは、その…私と勧誘前にお会いしていませんでしたか?」
「………。」
「『トロ子』って一度だけ新人研修の時に呼ばれた事があって。その……
い、今は、七海さん以外にそう呼ぶ人も居ないし…」


七海さんの腕に少し力が入って引き寄せられる。首筋に七海さんの顔が埋まった。


「…俺以外のヤツが呼ぶのはNGなんで。」


……NG?


「じゃあ、あの先輩は七海さん…」
「さあね。」


“さあね”?


それは…七海さんだって事?
それとも…違うって事…?


「…萌。」
「は、はい…」
「“星が綺麗ですね”。」
「え?」
「“星が綺麗ですね” “星が綺麗ですね”」


え?な、何…??


「星が綺麗ですね、星が綺麗ですね、星が「な、七海さん!」


いきなりどうした?と少し身体を引きはがして振り返ると、「萌は星でも見てりゃいいでしょ」とほっぺたをグイッと押され、前を向かされる。


それからまた、私の肩に顔が乗っかり、ほっぺたがくっついた。


……結局、どうなんだろうか。


再び見た星空は、やっぱり綺麗。
夜は徐々に深くなっているはずなのに、空が明るく見えた。


まあ…いいや。どっちでも。
今、こうして居るのが幸せだから。



そのまま暫く二人して黙って星を見ていたら


「…萌、そろそろ部屋に入らない?いい加減ケツが冷えて凍ってきた。」


不意に七海さんがそう呟いた。


部屋…か。
もう二人きりの時間は終わり…って事だよね。


するりと腕を解かれて肌寒さを感じて寂しくなる。


…私、結構欲深いな。
『一緒に居るだけで幸せ』なんて考えていたくせに…『離れて寂しい』って。


立ち上がり、テラスから廊下へ続く階段をトントンと軽快に降りて行く七海さんの後へ続いた。


けれど。


階段を降りきった七海さんは何故かリビングへ向かわず、私と祐奈が使う部屋の前に立つ。
そのまま、鍵を差し込みドアを開けて「どうぞ?」と私に入る様に促した。


……いや、ちょっと待って?


どうして七海さんが鍵を持ってるの?
ここの鍵は、私と祐奈が持っているはずじゃ…。


恐る恐る入って行った部屋の中。
私の荷物の隣に、祐奈のバッグでは無い小さめのリュックが一つ。


「あー!やっぱり部屋ん中は暖かい!」


背中からご機嫌な声と共にギュウッとまた包まれた。


「萌、このロッジね、二人部屋が二部屋あるんだよ。
一つは、あなたと小川さんが使う予定だったここ。
そんでもって、もう一つは、俺と篠原さんが使う予定だったトコ。
ま、篠原さんが小川さんと一緒の部屋がいいってなるのは当然だよね。つか、そこ離ればなれにしたら鬼でしょ。
あー俺って気の利く優しい幹事!」


それはまあ…篠原さんと一緒なら祐奈はものすごく喜ぶけど。


まさか、『企み』って…


ドキン、ドキンと身体が熱くなる。
そんな私を腕の中でクルンと回し、腰から再び引き寄せる七海さん。
おでこ同士をコツンとつけてくふふと笑う。


「……こう言う権限がないなら幹事なんてやらないよ?俺は。」


じゃあ、七海さんが幹事をあっさり引き受けたのは、本当に“私を連れてくる為”だった…って事?


『萌を連れてきたのは俺なんで』


あれは、気を遣って言った言葉ではなくて、私を連れて来たのは自分だから俺にペアを組む権利があるんだって主張だった…。


『七海さんが萌ちゃんを好きだって言うのもわかってた』


ああ…私、本当に“トロ子”ですね。
七海さんがくれていた『気持ち』を全くキャッチ出来てなかった。
噂なんかに惑わされて…自分が好かれるなんておかしいって思い込んで…スルーしていたんだ。


「…七海さん。」
「んー?」
「ありがとうございます…
その……私、七海さんが好き。」
「うん、知ってる。」


鼻をすり寄せて、面白そうにでももっと柔らかく笑う七海さんに、ぎゅーっと心が掴まれて、私も七海さんを引き寄せた。


もう、いい。
七海さんが、あの先輩かどうかわからなくても。
あの先輩には感謝しているけれど、イコールであろうがなかろうが、今、私は七海さんが好きだから。
七海さんの気持ちが…嬉しいから。


「萌、上着脱ぐ?」
「…はい。」
「……萌?俺から離れなきゃ脱げないでしょ?」
「……。」


くっついたまま離れない私をハッと楽しそうに笑いながら頭を撫でてくれる七海さんに気持ちが込み上げてまた泣きたくなった。


「あー…じゃあ、このまま二人でシャワーでも浴びに行ってみる?」
「そ、それは嫌…」
「じゃあ、とりあえず離れないと。」
「……それも嫌。」
「トロ子のくせに我が侭。」


優しく指が髪を滑り、私の頭を包み込む。
そのまま、重ねた唇は柔らかくて温かくて…甘い。

溶けてしまいそうな程の幸せをくれる七海さんの腕に包まれて瞼を閉じる。


カーテンの隙間からは満点の星がいつまでも見守ってくれていた。


『星が綺麗ですね』fin.