風の音に恋して


オーディションの朝は、潮のにおいが濃かった。
秋がすぐそこまで来ていた。
空は高く、風が早い。
リナは、母に何も言わずに駅へ向かった。

ポケットには、しわだらけの受験票と、スケッチブック。
そして、胸の奥には──まだ言葉にならない「なにか」があった。

 

特急列車の窓から、見慣れた町が遠ざかる。
リナはイヤホンもつけず、景色と音を聴いていた。

レールの音、風を切る音、知らない誰かの会話。
どれも雑音じゃなかった。
全部が、ひとつの音楽だった。

 

東京は、音が多すぎた。
音が高く、速く、重くて、ざらざらしてる。

「風、いないな……」

ふと、そんな言葉が口からこぼれた。

 

でも、その時だった。
歩道橋の上で、どこかからピアノの音が聴こえた。
街のノイズにまぎれず、しっかりと届く旋律。
人波の中、誰も気づいていないのに──リナの耳だけが、それを捕まえた。

「この音……」

記憶の底が、ゆらいだ。
まるで風が、どこか遠くで呼んでいるようだった。

 

会場のロビーは、静かだった。
周りには、有名な教室の生徒。
ブランドの楽器ケース。
プロみたいな立ち居振る舞い。

リナは、手ぶらだった。
ピアノもバイオリンも持っていない。
持っているのは、耳と、心と──スケッチブックだけ。

 

控室の椅子に座って、自分の順番を待つ。
手は冷たく、声も出なかった。

だけど、風は、そばにいた。

壁の隙間から入り込む、あのやさしい音。

スケッチブックをひらく。
一番最後のページに、小さく書かれていた。

「音は、耳じゃなくて、心で聴く」
──椿木響也

 

その瞬間、震えが止まった。
風が、背中を押した。