風の音に恋して

家では、まだ誰にも言えていなかった。

母に話しても、きっと一笑に付されるだけだろう。
「そんなの、遊びでしょ」
「音楽で食べていける人なんて、ほんの一握りよ」
いつもそうだった。

兄だけが、少し気づいていた。

「最近、夜起きてるよな」
「……何かしてんの?」

リナは、目をそらして笑った。
「……音、探してる」

兄はぽかんとしたあと、小さく笑った。
「お前、昔から変だもんな」

それでも、夕飯の後、兄はこっそりピアノの練習本を押し入れから出してきてくれた。
昔、数か月だけ習ってた時のもの。

「いる? 読めないと思うけど」

リナは、声を出さずに「ありがとう」と言った。
その夜、彼女は初めて自分の“手”でメロディを譜面からすくい上げた。

それは、波の音にも似ていた。
ゆっくり、でも確かに、岸に届く音。

やがて、リナは手紙を書く。
誰にも見せない、ただの下書きだったけど。

「お母さんへ」
「わたし、音楽が好きです」
「まだ上手じゃないけど、感じることはできます」
「オーディション、受けてみたいです」

涙は出なかった。
でも、何かが静かにこぼれていった。

それは、幼い頃の自分に手を振るような、やさしい別れだった。