離した手の温もり

「そうだね。お会計…」
「ああ、いいよ。お代は」
「え…で…でも…」
『彗くん、だめだよ。
ちゃんと払うから。いくら?』
「さぁ?知らない。
伝票つけてないし」
『ぐ…
卑怯者』

いつもこうだ。

彗くんは私がお客さんとして呑みに来てもお金を取ろうとしない。

相澤さんが困ったように私に視線を向けてくる。

「いいんですか?本当に…」
「いいよ、その代わり…」
「?」
「美愛、借りていい?
ちょっと話したいことあってさ」
「それはまぁ…いいですけど」
「ありがとう。タクシー呼ぶよ」

二人は勝手に話を進めていく。

私の意思も聞かずに。

多分、相澤さんに話をつけたのは私に拒否られない為だろう。

根回しが効く男だ。

ある意味関心してしまう。

店の電話の子機でタクシーを呼ぶ彗くんの姿を見ながら私はため息をついた。

話というのはどうせあのことだろう。

憂鬱だ。

出来れば逃げたいが、逃げられそうにはない。

「すぐ来るって。
五分くらいかな?」
「ありがとうございます。
私、外で待ってます!」
「来るまでここにいていいよ。気遣わせてごめんね」
「い、いえ…」

相澤さんなりに気を遣ったのだろう。

だがそれを彗くんが引き止めた。

女性を夜道に一人、立たせるのは男として見過ごせないのだろう。

彗くんらしい。

タクシーが来るまでの数分間、相澤さんのマシンガントークに私と彗くんは耳を傾けた。

「……さてと」
『………』
「酒、おかわりは?」
『いい。話って?』

相澤さんが店を出た後、彗くんはネクタイを少し緩めて私を見つめた。

真っ直ぐに私の姿を捉える。

先ほどまでの穏やかな表情はない。

怒ってる、のだろうか。

「……連絡一本くらいくれたっていいだろ。
戻ってきたなら」
『それは…』
「あいつに言うか心配?」
『………』
「信用ないな、俺」
『!
そういうわけじゃ…』
「最近来てないよ」
『え?』
「美愛が東京出てから休みなしで働いてるからね。あれじゃいつかぶっ倒れるよ」
『………。
なんで私にそんなこと言うの…ズルい』

あいつというのは私の唯一の元彼、月島 蒼のことだ。

私の二個上の三十歳。

彗くんの大学の先輩だった。

よく二人で連んでいたので自然と彼と顔を合わせる機会は多かった。

いつからかお互いを意識するようになり、恋人になるまで時間はかからなかったと思う。

就職してからも忙しい中、時間を作って穏やかで幸せな日々を過ごした。

私が県外に異動するまでは。

「心配?」
『そりゃ、心配だよ』
「そうだよな」
『蒼ちゃんには…』
「ん?」
『側にいてくれる人いないの?』
「彼女ってこと?」
『うん』

もしいるのなら私は彼の前に現れるべきではない。

人の幸せを奪う気はないのだから。

私は彗くんの言葉を静かに待った。