「これで今日の部活を終わります、礼」

鍬田部長がファイルを小脇に挟んで部活終了の号令をかける。

吹奏楽部に友達はいないので、普段わたしは号令とほぼ同時に部室を出る。

「あれ、ない」

カバンに入れていたはずの数学のプリントがなかった。

プリントを入れたファイルごと教室に忘れてしまったのだろう。

でもプリントは今週木曜日提出で今日なくても何ら問題はない―というか取りに戻るのがめんどくさいので、水筒とハンカチをカバンに戻し、カバンを背負う。

ぱっと顔を上げると、部長が鋭い瞳で、友達と談笑する縄野柚音を睨んでいた。


縄野柚音と鍬田部長は、課題曲のソロをめぐって少し関係が悪くなっていた。

もともとは、受験のために退部した名瀬先輩が吹く予定だった課題曲のソロ。鍬田部長もその人選には満足していたようだ。

まあ、先輩が吹くなら誰も文句は言えないし、何より安全だった。

ところが名瀬先輩が受験のために抜けたことで、吹き手のいなくなったソロは当然ながら2年生に回ってきた。

実力的には縄野柚音の方が上だったので、彼女がソロを吹くことになった。

その少し前、ピッコロのソロを鍬田部長の同級生、坂原(さかはら)あゆ先輩が担当することが決まった。

坂原先輩は、ピッコロの腕前では鍬田部長より下。これは部内でもわりと知られている事実であり、鍬田部長も自分の方がピッコロがうまいと自負していた。

もともと鍬田部長はその人選に不満を抱いていたようで、そこに火に油を注ぐかのように縄野柚音のソロ決定が重なった。

しかも、縄野柚音は髪を染めていてピアスホールが両耳に2つづつ空いているという学生らしからぬ派手な見た目をしている。

そういう面もあり、以前から縄野柚音は部長からあまり好意的にみられていなかった。

そういう複数の原因を踏まえて、部長の怒りの矛先がどこに向かうかは、もはや予想できるほど単純だった。

同じ学年で同じパートの相手に怒りを向ければ、自分のパート内の空気が悪くなるのは目に見えている。それで、鍬田部長は最後のコンクールでソロを吹けなかった怒りを、縄野柚音にぶつけているというわけだ。

自分の手は汚さないように、他のパートや顧問がいる場では、あくまで『トランペットパートの課題』として話を持ち出す。

個人名は出さず、表情も穏やかで、口調も丁寧。一見すると、ただの冷静な部長の仕事ぶりに見える。

けれど、言葉の選び方やタイミングを見れば、誰に向けているかは察しがつく。縄野柚音に対する不満を、あくまで『全体の問題』として扱うことで、『部長』という表向きの立場を守っているのだろう。

そのサイレント攻撃の火花は、縄野柚音本人だけでなく、同じパートのわたしや後輩にも飛んできているが…