―2025年5月―

冷たい。
床が、ひんやりとしている。

Aはゆっくりとまぶたを開いた。
あたりはぼんやりと薄暗く、木の香りがふわりと鼻をかすめた。

さっきまでいた、無機質で冷たい世界とはまるで違う。
この場所には、どこかやわらかなぬくもりがあった。

棚。木。紙。
知らないのに、知っているような匂いと景色。

——ここは、“言葉たちが眠る場所”。

Aはゆっくりと身体を起こす。
服には細かな埃がついていて、それが現実をそっと教えてくれる。

そして次の瞬間、Aの目が見開かれた。
胸に抱いていたはずのあの書物が、どこにも見当たらなかったのだ。

するりと抜け落ちた気配もなく、気がつけば、跡形もなく消えていた。
慌ててあたりを見渡す。けれど、それはもうどこにもなかった。

不安が、ゆっくりと体の中ににじんでいく。
指の先、喉の奥、心の隅——静かに広がって、じわじわと染み込んでくる。

それでも。

Aの胸の奥には、たったひとつだけ、確かに残っていたものがあった。

——「すき」

その“ことば”が、今もあたたかく灯っている。
意味はわからない。けれど、忘れたくない。

その小さな想いだけが、Aをこの場所へと導いてきた。

世界が変わった理由も、これからどうなるのかも、わからない。
でも今、Aは確かに“ここにいる”。

その始まりに、そっと寄り添うように——
あの、たった二文字のことばが、Aの胸の奥で静かに息づいていた。