すき、という名前の花

これからのことなんだが——」

古川がゆっくりと口を開き、Bに向き直る。

「定期的に、この子に会いに来てくれると嬉しい。
 きっと、そのほうがこの子も安心できると思うから」

その言葉に、Bの表情がふっと和らいだ。

「もちろん」
そう言って、にっこり笑いながらAのほうを向く。

「また来るね! また後でね、Aくん!」

Bは手を振りながら店を出ていった。
さっきまで降っていた雨は、すっかり上がっていた。
空のどこかに、うっすらと光が差していた。

*

Aと古川は、静かに店の奥、書架の裏へと歩いていく。

そこには、四畳ほどの畳敷きの空間があった。
部屋の真ん中には、まるいちゃぶ台がぽつんと置かれていて、どこか懐かしい空気が流れている。

「ここが、君が“ことば”を勉強する場所だよ」

古川がそう言うと、Aはこくんと頷いて、正座でテーブルの前に座った。
向かいに、古川もゆっくりと腰を下ろす。

「貸してごらん」

やさしい声とともに、古川はAからノートを受け取る。

ページをめくり、空白の上に、丁寧な文字で一つずつ——
「あ」「い」「う」「え」「お」
と、順番に書き込んでいった。

Aはその文字たちを、目を丸くして見つめる。
まるで、新しい宇宙をのぞき込んでいるみたいに。

古川は指をすっと動かしながら、ひとつひとつの文字をなぞって読み上げていく。

「これは『あ』、そして、こっちは『い』。これはね——」

その声に合わせるように、Aの瞳がきらりと動く。
まるで、言葉の種が心の奥で静かに芽吹く音が、聞こえてきそうだった。

古川は、ふと優しいまなざしをAに向けた。

「君がここに来たってことは……
 もしかしたら、“言葉”というものが、この先、意味を失っていく予兆なのかもしれない」

その声は、やわらかくも、どこか遠い空を見ているようだった。

「でもね、私は信じているよ。
 誰かの心に触れたいって願いは、ちゃんと、形として残っていく。
 どんな世界でも、きっとね」

Aはその言葉の意味がよくわからなかった。
けれど、古川の声がとてもあたたかくて、
Aはそっとノートを胸に抱きしめた。

胸の奥で、まだ知らない“なにか”が、ふわりと灯るようだった。

——それは、“はじまり”の気配。

ノートの表紙に書かれた文字——ことばのはな

その言葉が、静かにAの胸に染み込んでいく。

彼が生まれ育った未来の世界には、もう何もなかった。
言葉も、名前も、感情も、忘れ去られていた。

だけどいま、ここに一つだけ、小さな色が咲いた。

それは、**世界のどこにもなかった、Aだけの“最初の花”**だった。