すき、という名前の花

これからのことなんだが——」

古川がゆっくりと口を開き、Bに向き直る。

「定期的に、この子に会いに来てくれると嬉しい。
 きっと、そのほうがこの子も安心できると思うから」

その言葉に、Bの表情がふっと和らいだ。

「もちろん」
そう言って、にっこり笑いながらAのほうを向く。

「また来るね! また後でね、Aくん!」

Bは手を振りながら店を出ていった。
さっきまで降っていた雨は、すっかり上がっていた。
空のどこかに、うっすらと光が差していた。



Aと古川は、静かに店の奥、書架の裏へと歩いていく。

そこには、四畳ほどの畳敷きの空間があった。
部屋の真ん中には、まるいちゃぶ台がぽつんと置かれていて、どこか懐かしい空気が流れている。

「ここが、君が“ことば”を勉強する場所だよ」

古川がそう言うと、Aはこくんと頷いて、正座でテーブルの前に座った。
向かいに、古川もゆっくりと腰を下ろす。

「貸してごらん」

やさしい声とともに、古川はAからノートを受け取る。

ページをめくり、空白の上に、丁寧な文字で一つずつ——
「あ」「い」「う」「え」「お」
と、順番に書き込んでいった。

Aはその文字たちを、目を丸くして見つめる。
まるで、新しい宇宙をのぞき込んでいるみたいに。

古川は指をすっと動かしながら、ひとつひとつの文字をなぞって読み上げていく。

「これは『あ』、そして、こっちは『い』。これはね——」

その声に合わせるように、Aの瞳がきらりと動く。
まるで、言葉の種が心の奥で静かに芽吹く音が、聞こえてきそうだった。

古川は、ふと優しいまなざしをAに向けた。

「君がここに来たってことは……
 もしかしたら、“言葉”というものが、この先、意味を失っていく予兆なのかもしれない」

その声は、やわらかくも、どこか遠い空を見ているようだった。

「でもね、私は信じているよ。
 誰かの心に触れたいって願いは、ちゃんと、形として残っていく。
 どんな世界でも、きっとね」

Aはその言葉の意味がよくわからなかった。
けれど、古川の声がとてもあたたかくて、
Aはそっとノートを胸に抱きしめた。

胸の奥で、まだ知らない“なにか”が、ふわりと灯るようだった。

——それは、“はじまり”の気配。

ノートの表紙に書かれた文字——ことばのはな

その言葉が、静かにAの胸に染み込んでいく。

彼が生まれ育った未来の世界には、もう何もなかった。
言葉も、名前も、感情も、忘れ去られていた。

だけどいま、ここに一つだけ、小さな色が咲いた。

それは、**世界のどこにもなかった、Aだけの“最初の花”**だった。