──結局、いつもこうなることはわかっている。

「……やっぱもう無理かなあ、あの人とは」

彩夏が、ストローで氷をカラカラ遊ばせながらぼそっと呟いた。
こちらの手ですっぽり包み込んでしまえるほど、華奢で小さな手が縁を描く。

その声が聞こえた途端、喉の奥がじんわりと痛くなる。

言葉をコーヒーで流し込み、胸の奥に重く沈める。

はああーと大袈裟に大きく息をついて背をもたれかけると、安っぽいカフェチェアがキィと軋んだ。
足元でわずかに浮いた椅子の前脚が、空気を掻くように宙を泳ぐ。

あなたね。

「あなたそれ、いっっっつも言ってらっしゃいますから。こないだも聞きましたから、それ」

「うっ……言ってる…の…かなぁ?」


「言ってます言ってます。おっしゃられてます。毎度おなじみの“今度こそ無理”が。必殺。彩夏ちゃんの『今度こそ無理ぃ』」

重たい空気を取り払うように、大袈裟に刀で切るような身振りもしてやる。

彩夏があははと力なく笑う。

「…でも、今回はほんとに……たぶんもう、だめかもって思うんだもん」

だめだ。
たぶん、の部分ですでにだめだ。
全然本気で思ってない。

でも責めない。

こちらが言っていい立場じゃないのは、とうの昔に知ってる。

彩夏のためを思って本音を言えば、
“関係が壊れる”という恐怖が、ずっと付きまとう。

「ま、あなたのことですから?たぶん明日になったら“やっぱ好きかも”とか言ってんだろうなー。いや。絶対言ってるね。しかもちゃっかし、甘いもん食いながら。」

…えー?と彩夏は困ったような笑顔を向ける。

「もう、からかってんの? 今日のろくちゃん意地悪いよ?」


ふっと鼻で笑ってしまう。

…なにが意地悪いよ。だ。
それはお互い様じゃないのか。

「いんや。いっつもどんな時でもボクは真面目に聞いておりますよ。そしてボクは今日も彩夏ちゃんのサンドバッグにもなり、夜道の危険から守って無事帰宅させるナイトにもなりますよ。あぁ。俺って超紳士だよね。俺、俺みたいな彼氏が欲しい。だって素敵すぎるんだもん。岡崎禄くん」

「はいはい、そうだね、素敵すぎるよね。キャー。ろくちゃーーん」

なんの感情もこもってない棒読みの彩夏が、でも楽しそうにクスクス笑いながらおどけて言う。

けっ。ちょっとは感情こめろや。とは思うけど。

でも。不思議と嬉しさの方が勝つ。
この笑顔が見たいからまた来てしまったんだと思う。

彩夏は、奴(クソ男)の話をするときに限って、
急に視線を外す。
何も知らないようなふりで言葉を選んでる。
でもたまに、ふっと目を上げて、
すごく素直な顔でこっちを見る瞬間がある。

その目を見るたび、全部ぶっ壊してしまいたくなる。
でも、その一歩を踏み出す勇気は、もう持っていない。

もう、持たないって決めた。

「……ろくちゃん、ってさあ」

「んぁ?」

言いながらグラスを手に取る。

「彼女、いないんだっけ。今」

げほっ!

飲みかけのコーヒーが気管に入り、一瞬大きくむせてしまう。

わっ!ろくちゃんっ…だっ大丈夫?これっハンカチ…と焦ったような彩夏。

なんで。
なんでそんなことを急に言うのか。
ほんとにこの女は、残酷だ。

差し出された彩夏のものは受け取らず。
呼吸を整えてから、何でもないふうを装って答える。

「…何を言うのかと思ったら。いないよ、いない」

「…そっか」

彩夏の目の奥が一瞬忙しく動いたのはこちらの気のせいだろうか。

「なに? いるように見えた?」

「え、なんとなく……ろくちゃんかっこいいし、みんなから好かれるし、一緒にいて楽しいから普通にモテそうだし。今いい感じの女の子とかいないのかなぁって」

…はぁ?なら俺のこと好きになれやこの女は。
クソ男とさっさと別れて俺を見れやこのあほ女は。

と思っても言えない。言わない。

「いや〜。俺、人を見る目ないからさ。基本、続かないの」

わざと軽く言った。
それが、彩夏を困らせない上手い逃げ方だ。

少し沈黙が落ちて、グラスの氷がまた音を立てる。

彩夏はそれをじっと見て、

「…ろくちゃんって、ほんと優しすぎるよね」

と、ぽつんとこぼした。

…優しい?

優しくなんかない。全然。

都合よくなりたいだけで、
彼女の好きな男よりもいい男だって思われたいだけで、
“呼ばれてくる男”というポジションに甘えてるだけ。

でも、否定はしない。

それをしたら、
彼女との関係そのものが壊れる気がする。

だから何も言わず、ただ、

「んー。まあ、それはねぇ。よく言われる。色んな女性に。だから僕困っちゃう。モテちゃうから」

とふざけて返した。

あはは、そっかあ。そうだよね

と今度は棒読みじゃ無い彩夏も笑顔を見せた。


そのあとも他愛ない話を少しして、店を出た。
別れ際、彩夏がふいに言う。

「ほんとに、ろくちゃんには感謝してるからね。いつもありがとう」

すっかり元気になった彩夏のその言葉は、刃のようにじわりと効いてくる。

“感謝”なんか、されたいわけじゃない。
“頼りにしてる”なんて、聞きたくない。

……そう思ってるくせに、
その言葉を抱えて家に帰る自分がいる。



アパートに戻って、シャワーを浴びて、Tシャツとジャージに着替える。
ビールでも開けようかと思ったけど、なんとなく手が伸びなかった。

静けさが嫌でなんとなくスマートフォンをとりSpotifyでランダムに音楽を流す。

♪〜ずるいよあなたはいつもそうだよね
大好きだよ、I love youもI miss youも君だけよ

知らない女性ボーカルの切ないバラード。

透明感のある、少し掠れた甘い声が、静かな部屋にやけに響く。


なんだかなぁと思いながら、ベッドに倒れ込むと、投げやりに放ったスマートフォンがちらっと光る。
手にとって見れば、なんでもない、ただの天気予報の通知。

なにを期待しているのか自分に苦笑する。
誤魔化すようにそのとなりにも目を向ける。
資料の束に混ざって、数枚の名刺が投げ出されている。
一番上には──藤井香澄の名刺。

焼き鳥屋で出会って仕事先でまさかの再会をした、ものすごく美人の女。
そして誰かさんが酔った勢いで
適当に命名したアホな名前のキーホルダー。
やさぐれさん。の持ち主でもある。

藤井香澄も働くこの取引先とのプロジェクトが終わるまで今後も時々会うことになるだろう。

綺麗だった。
印象にも残った。
でも、それだけ。


目を閉じれば、いつものように、すぐに別の誰かが浮かぶ。
ろくちゃん。と名前を呼ぶ柔らかい声も、優しい表情も、匂いも、花が咲くような笑い方も──全部、もう染みついている。
頭の中の大部分を占めるのは、やっぱりそっちだった。

「あぁーつかれたあーー」

そう呟きながら、部屋のライトをひとつ消す。

灯りを落としたはずの部屋に、まだ彼女の、彩夏の声が残っている気がした。