side 岡崎 禄

髪を結ぶとき、
いつも固くぎゅっと目を閉じる癖がある。
何かを真剣に考えるとき、
唇をほんの少し尖らせる癖がある。
自分のことを話すときは照れくさそうなのに、人の話になると真剣に目を見てくる。

そういう細かいことを、ひとつずつ思い出せる人がいる。

宮崎彩夏。大学時代の同級生。

──初めて見かけたのは、夏の終わりだった。
学内の中庭に面したベンチに座って、文庫本を読んでいた。
風が強い日で、ページがぱらぱらと捲れるたび、彼女は左手でそれを押さえて、
何度も同じところを読み返してた。
淡いグレーのカーディガン。アイスコーヒー。
足元に置かれたトートバッグの横に、薄く折れた教科書。
そういう細かいものまで、やたらとはっきり覚えてる。

一目惚れだった。
すれ違いざま、ふと顔を上げたそのとき、
目が合った。
それだけのことなのに、息が詰まるほど綺麗だと思った。

向こうは、当然覚えていないと思う。
ただの一瞬。見知らぬ他人と視線が交差しただけ。
それでもこっちは、あの一秒で、彼女に、決定的に落ちてしまった。

後日、同じゼミだと知ったときは、わりと本気で神に感謝した。
そんな信心、ないくせに。

彩夏とは少しずつ話すようになって、
名前を呼び合うようになって、
誕生日や好きな食べ物や、
地元の話を知るようになって。

たくさん彩夏を知れば知るほど
どんどん彼女にのめり込んでしまっている自分に気付いた。

ちゃんと気持ちを伝えたこともある。
二年の冬だった。
いつもどおり他愛ない話をして、ふざけて笑わせて。
帰り道が分かれる手前、じゃあまた明日ね。ろくちゃんと笑う彼女を見た時。
どうしても言いたくなってしまった。
言葉を探して、喉の奥でぐちゃぐちゃになったまま、無理やり出した気持ちを。

一瞬驚いた表情を浮かべ、でも彩夏は、やわらかく、哀しそうに笑って、

「ごめん、ろくちゃんのことは大好きだけど、そういうふうには思えないな」と言った 。


胸の奥で勝手に育ててきたこの気持ちは、その一言で、あっけなく砕け散った。



それからなぜかまた、普通の友達に戻った。
ぎこちなくなるかと思ったけど、彼女は少しも変わらなくて、
むしろもう彩夏と話すこともないだろうと諦めていたこちらが、何度もそれに救われた。

今も。
大学を卒業して、社会人になった今も。
彩夏とはなんとなく、連絡を取り合っている。

たまに電話をしたり、LINEで近況を交わしたり、気まぐれに会うこともある。

でもいちばん多いのは、あいつが彼氏とケンカしたあとだ。

「話、聞いてほしいの」
そんな短いメッセージが、不意に届く。

深夜のコンビニの帰り道だったり、休日の午後だったり。
たいていは決まって、揉めたその夜。

「ろくちゃん寝てた?」
「ごめんね、ろくちゃん、いま会える?」

ほんとはそんな話、聞きたくもないし、
「それ俺に言うことじゃないよね」って思わなかった夜なんて一度もない。

けど、なんだかんだ、彩夏のわがままに応えて。
結局、こっちがうなずいて。

どんなときでも、気づけば向かっていた。

それは駅前のベンチだったり、
ファミレスだったり、カフェだったり、
居酒屋だったり。

なるべく変な気持ち、親密にならないような場所を選んで話を聞いてやる。

最初は他愛ない話から始まって、
そのうち、彩夏の男の話になる。

浮気された。
また戻った。
今度こそダメかもしれない。
でもやっぱり、あの人のこと好きなんだよねって。

こっちは適当にうなずきながら、
それでも確信めいたことは何も言わない。

言わないまま、何年も経った。

一度気持ちを伝えた人間が、
いまさら何も言えない。

そう思って飲み込む言葉ばかりが、

どこかに、静かに積もっていく。



ずっと1人でいたわけじゃない、
何人かの女と付き合ったりもした。

それは友達の紹介だったり、向こうから好意を向けられたり。
そういうものには大抵応えていた。

彩夏をどうにか薄めたくて、
誰かに救われたかったのかもしれない。

でも、ダメだった。

ふとした瞬間に彩夏を思い出してしまう。

例えば、デート中に彼女の笑顔を見ているはずなのに、ふとした瞬間に彩夏の顔が頭に浮かんだり。

映画の感想を話してくれてるのに、
「これ、彩夏が好きそうだな」って、全然別のこと考えてたり。

キスしてる時も、
ベッドで抱き合っている時でさえも──

隠しているつもりでも、もう完全に漏れていたのだろう。

自分でも呆れるほど、誠意のない男だった。


で、ある日泣きながらこう言われる。

「……ごめん、禄くんってなんか、あたしの事、全然見てないよね」

はい、正解。

それで、まあ、たいていフラれる。

引き止めたり言い訳をしたりする気もなかった。
それでいいと思ってた。
どこかで、そうなる事はわかっていた。

彩夏のことでいっぱいなこの頭の中を、
誰にも知られずにいたかった。
そしてたぶん、そんな自分のままじゃ、
誰とも、ちゃんと続けられないこともわかってた。

諦めたわけじゃない。
でも、手が届かないものがあるってことは、
もう何度もわかってる。

“本当に好きだった”という気持ちを、
そのまま手のひらで温めているような日々。

触れたら壊れる気がして、

壊れるくらいならこのままでいいと思って、
でもほんとうは、壊れるほど近づいてみたかった。

そうやって、彩夏に会えない日々は
彩夏のことで満たしながら、
今日も、なんでもない顔をして生きてる。