side 藤井香澄

──

月曜の朝。
いつものようにコーヒーを淹れ、いつものように自分の席へ。
特別いい日でも、悪い日でもない。ただ、変わり映えのしない「始まり」だった。

社内は、週明け特有のざわつきに包まれていた。
週末に誰がどこへ行ったとか、営業部の誰それが契約を取ったらしいとか、課長が朝からピリついてるとか──
よくある社内ノイズが、デスクの隙間をすり抜けては、空気に溶けていく。

予定を確認しながら未読メールをひとつずつ開いていくと、
ふと目に止まったのは、見慣れない打ち合わせの案内だった。

「本日15:00〜 湘南観光PR合同プロジェクト 定例打合せ(フェリクス社)/出席:営業・開発・総務 各1名」

──ああ、今日だったか。と思いだす。

そのまま本文を流れるように目で追い、担当者欄に視線を滑らせると、そこに見つけた名前。

「岡崎」

岡崎──

その瞬間、記憶の引き出しが、かすかに音を立てて開いた気がした。

……そういえば。

あの夜、焼き鳥屋のカウンターで隣にいた男。
たしか、誰かにそう呼ばれていた。岡崎──そんな名前だった気がする。

でも、それ以上の何かは浮かばなかった。
ただの偶然。岡崎なんて、どこにでもある名前。

資料を一通り確認し、メールを閉じる。
それだけだった。

──

午後、打ち合わせの準備で、会議室に入った。

モニターを立ち上げ、資料を並べ、名刺を所定の位置に置く。
社外との打ち合わせなんて、数え切れないほどこなしてきた。
その一つに過ぎない。ただ、いつもと同じ業務の一部。

椅子に腰を下ろし、画面の明るさを調整していたそのとき、ノックの音が響いた。

「失礼します」

「どうぞー」

反射的に返しながら顔を上げた瞬間──息が止まった。

ドアの向こうに立っていたのは、
週末、焼き鳥屋のカウンターで肘が当たった、あの男だった。

間違いなかった。

酔った顔で、ふざけたことばかり言っていたあの夜の男。

「初めまして。株式会社フェリクスプロモーション、営業部の岡崎です。今日はよろしくお願いします」

名刺を差し出す手と一緒に、軽く頭を下げたその姿は、
あの夜とはまるで別人のようで、それでもやっぱり、同じだった。

黒髪。片方だけ口角が上がる笑い方。
陽気さと静けさが同居したような、印象的な目元。

株式会社フェリクスプロモーション
営業企画部 チームリーダー|岡崎 禄(おかざき ろく)

ロゴの下に、小さな文字で印刷された名前。
名刺を受け取る指先に、ほんの少しだけ力が入る。

「あっ…藤井と申します。えと、そうだ…あの、名刺です。こちらこそ、よろしくお願いします」

少しだけ上ずった自分の声が、妙に耳に残る。
でもたぶん、大丈夫。伝わってない。そう思ったのに──

「……あー、やっぱりかぁ」

名刺を受け取った岡崎が、独り言のようにぽつりとつぶやいた。

ふっと、片側だけの口元が持ち上がる。

間違いなく、あの夜と同じ笑い方だった。

その笑みを見た瞬間、
カウンターでひとり飲んでいたことも、落とした“しがないさん”のキーホルダーも──
じわじわと思い出してきて、ほんの少しだけ、頬が熱くなる。

なにか言われるんじゃないかと構えていたのに、
返ってきたのは、ただ一言。

「世間、狭いっすね」

拍子抜けするくらい、あっけらかんとした声だった。

けれど、その言葉の奥。
ほんのわずかに、間があったような気がした。

距離を取ったようでいて、どこか絶妙に近い。
この人なりの“空気の読み方”なのかもしれない。

「おーい。岡崎、ちょっと」

背後から別の社員に名前を呼ばれると、
「あ、はーい」と軽く返事をして、そのままあっさりと離れていった。

特別な足取りではない。いつもの歩き方。
けれど、視界の端に残ったその背中が、妙に静かに感じられた。

手の中には、まだ名刺が残っている。

冷たくなった紙の感触。
ほんの数秒前の出来事が、その表面にまだ残っている気がした。