side 藤井香澄



この夜は、どういうわけか誰にも会いたくなかった。


特別に疲れていたわけでもない。
仕事が詰まっていたとも、誰かに怒られたわけでもない。
前の晩に見たNetflixの恋愛ドラマの続きが気になって、 やめ時を見失って夜更かししてしまったのは確かだったけど。
そのドラマの中になんとなく昔の男を思い出させる登場人物が出てきて、 思い出したくもない感情を少しだけ引っ張り出されてしまった。
それでどこかセンチメンタルになっていたのかもしれない。

けれど、たぶん、それだけじゃなかった。

言葉にできるような理由じゃない、 もっと根っこのほうにある何か。
そこまで手を伸ばすのが億劫で、
だからとりあえず、誰とも話さずにいたかった。

とはいえ、一人暮らしのアパートでひとり黙って過ごすには寂しさが大きすぎる。

誰とも関わりたくない。
でも、誰かの気配がする場所にはいたい。
声が聞こえていてほしい。
そういう夜だった。


駅前のネオンがやたらとまぶしくて、足元のヒールのアスファルトを叩く音が、自分のものじゃないみたいに響いていた。

職場からはまっすぐ帰れる距離だった。
それでもなぜか電車に乗る気になれなくて、ぐるりと遠回りをしていた。

途中、駅構内の壁面の鏡に自分が映し出されなんとなく見つめる。

昔は、自分の顔が好きだった。

初めて会う人には「美人だね」「モデルみたい」とよく言われたし、たいていの恋はうまくいった。
いい女でいるのは簡単だった。
笑い方も、黙り方も、頼り方も、泣き方さえも、
すべて自分の都合のいいときだけ使い分けてきた。

けれど、どんなに上手に演じても、
どんなに余裕を装っても、
本気で好きになった相手の前では、結局、無防備な自分に戻ってしまう。

そういう夜は、いつも涙が止まらなかった。

何度経験しても、慣れることはなかった。
好きになるたびに、自分を見失い、
まるで自分じゃなくなってしまう気がした。



どこか1人でゆっくり飲めるところないかな。

そう思いながら歩いていると、 見覚えがある店を見つけた。 細い路地の先に、暖簾のかかった焼き鳥屋。
看板は出ていない。
前にも一度職場の人と来たことがあった。
常連でもなんでもない。けど、美味しくてお店の雰囲気も良かったことを覚えている。

今日はここにしよう。

白い暖簾をくぐると、香ばしい煙のにおいがふわりと鼻をくすぐった。
焼き台の奥では、年配の店主が無言で串を返している。
炭のはぜる音と、鶏の脂が焼ける匂い。
それだけで、なにか余計なものがそぎ落とされていく気がした。

店主がこちらに気付いてお一人ですか?と聞いてきたので頷く。

カウンターどうぞ。
と汗を拭いながら店主が案内する。L字の手前が空いていたのでそこへ座った。
満席とまではいかないが席はそこそこ埋まっているようだった。カウンターと 奥には小さなテーブル席が二組分ほど。
会話は聞こえるけれど、耳障りじゃない。
うるさすぎず、静かすぎず、心地いい温度のざわめきがあった。

ハイボールを頼むと、店主はどうぞ。とだけ言い、グラスを差し出してくる。
氷の入ったグラスの冷たさが心地いい。

冷たいハイボールをごくごくと喉に流し込んでしまうとしばらくはなにも考えずにいた。

喋る必要がないというのは、それだけで救いだ。
人と話すのはどちらかといえば好きなほうだと思ってた。
でも話せば話すほど、疲れることもある。

だからこの空間が今夜はありがたかった

二杯目に口をつけたころ、入り口がガラガラと音を立てなんとなくそちらを見る。
生ぬるい空気が頰に触れちょっと不快。

「うおー涼しいー」

酔っているのかその場に似合わないほど、陽気な声。

入ってきた男は、店主にカウンターを案内され、ずかずかとすぐ隣に腰を下ろした。
こんなに席があるのに、なぜわざわざ──
と一瞬だけ思ったけど、
それ以上深く考える気力もなかった。

「すみませーん。生ひとつ。と串盛り合わせ。あと、なんか冷たいやつ、テキトーにお願いしまーす」

声の大きさも注文の言い方も、すべてがこの店の空気から浮いていた。

それでも不思議と嫌な感じはしなかった。

おしぼりで手を拭いて、
ふー外あちぃー。
と言いながら隣の男が
手を顔の前でぱたぱたさせる。

その時、肘が少しだけ触れた。

「っと、ごめんなさいね。すいませんすいません」

「あ、いえいえ。」

騒がしい男だなと内心思いながらも口元に笑みを浮かべて男の顔を見る。一瞬で審査員のような目線になってしまうのは悪い癖だ。

年齢は自分と同じくらい 20代後半といったところか。
キリッとした目元に、目尻の細かい笑いじわ。
笑ってないときは無愛想にも見えるのに、ふとした拍子に一気に印象が崩れる顔だった。

とびっきりイケメンと言われるわけではないがまあまあいい線の塩顔。 肌はうっすら焼けていて、酔いのせいもあって頬や鼻のあたりが少し赤い。
黒髪は短く、やや伸びかけでラフに流れている。整えすぎていないのが、逆に似合っていた。

第二ボタンまで外れたワイシャツに、ゆるく締め直されたネクタイ。
そのままスーツのジャケットを羽織っているから、妙に力が抜けて見える。

飲み会帰りの、ちょっと疲れたサラリーマン。
……なのに、どこか目を引く。
なんとなく、印象に残る顔だった。


「いやあ……まあ、狭いっすよねここ。 距離がこう、グラス一個分しかない。わざとじゃないんで、すいません 」

隣の男は、店主に聞こえないように気を遣ったのか、
声をひそめるように口元を片手で隠し、小さくそう言った。
そのあと、軽く肩をすくめる。

笑った口元は、片方の口角だけが少し上がっていた。


返事の代わりに、にこっとだけ笑っておく。

一番無難で、一番波風の立たない反応。
それ以上でも以下でもなく、ただ笑っただけ。

入り口からまたもやガラッと扉の開く音、
続けて生ぬるい風。
目の前の男の視線がこちらから外れる。

「お、きたきた」

と そのままひらひらと片手を振る。
入り口の方に向かって。

ならって視線を追うと

「ごめんごめん岡崎。」

「道間違えてぐるぐる回っちゃったぁ」

同じスーツ姿の男女ふたりがそれぞれ笑顔でそう言いながらこちらに向かって歩いてくる。
こちらというより隣の男の方へ。

「あんたら遅いよ。待ちくたびれたさ。あ、俺もう超腹減ってるから先に色々頼んでるけど、なんか他にも食いたいもんあったら頼んで」

岡崎と呼ばれた隣の男は今度はメニューをひらひらさせながらくだけた声でそう言った。

声の調子が変わっただけなのに、空気が切り替わった気がして、 何気なくグラスの位置を直した。

誰でもない顔をして、また、ただの客としてそこに戻るために。