ドジっ子令嬢は着ぐるみうさぎに恋をする

衣装部屋には、俺専用のロッカーがある。
元は企画部長の小日向・おっちゃんが使っていたものだ。

彼が現役を退いたとき、誰も手をつけなかったこのロッカーを、高校生バイトだった俺に譲ってくれた。鍵を手渡されたときの、あの『頼むぞ』という目。あのときの俺は、まさかここで“守りたい女”のために再び扉を開く日が来るなんて、思ってもいなかった。

観音開きの扉を開ける。
緊急用に置いてあるタンクトップとショートパンツに迷いなく着替え、ためらいなくウィルの衣装へ腕を通す。
数年のブランク? 関係ねぇ。
霧島――いや、赤坂海都の肉体は、“ウィル”になるための動きを、指先から背筋まで忘れてはいなかった。

頭をかぶる前に、クロスバッグへティッシュを二枚滑り込ませる……この感覚、二年前と同じ。

だが今日は違う。
あのときは、ただ『仕事』としてやった。
けど今は守りたい相手への思いが、骨の奥まで突き刺さっている。

鏡の中のウィルを一瞥し、大きく息を吐く。
もう迷わない。二階の非常階段へ向かう。



静かにドアを開け、外気を胸いっぱいに吸い込む。冷たい空気がマスクの奥でこもり、呼吸音だけがやけに自分の耳に響く。
東京湾の向こう、かすんだ都心の光。細い月が、暗闇の中で頼りなく浮かんでいた。

階段をそっと登るたび、微かに聞こえる嗚咽。声を押し殺して泣いている。必死に耐えている。このホテルでは涙を見せないと誓ったあいつが、ここでひっそり泣いてる。

胸の奥で、静かに何かが()ぜた。
再会して、もう半年以上は見てきた。
笑ってる顔も、困ってる顔も、ドジって真っ赤になる顔も。その全部を守りたいと思ってたけど……あいつの泣き顔だけは、絶対に見たくなかった。



踊り場へたどり着き、そっとその頭を撫でる。驚いた顔がこちらを見上げた瞬間、ティッシュを一枚押し込み、もう一枚でそっと涙をぬぐってやる。そして、もう一度、少しだけ長く撫でた。

両手を広げ、抱きしめろと促す。
だが、彼女は動かない。震えたままの小さな体。


「千成……おまえを一人で泣かせるわけがないだろ」


ウィルの頭の中で呟き距離を詰め、モフモフの大きな手で包み込む。外からはぬくもり、奥には鋼のような強さで。この腕から一歩も逃がさない。そんな決意を込めて。

ほんの少しだけ唇を近づけ、誰にも届かない声で、ただ一言だけ落とす。

「……大丈夫だ。今度は俺が、おまえを守る」

海風がふっと吹き抜け、香りがわずかに揺れる。

その瞬間、彼女の肩が小さく震えた。
もしかして、気づいたのかもしれない。
いや、そうであってほしい。

腕の中の小さな体から、ゆっくりと力が抜けていく。張り詰めていた筋肉のこわばりがほどけ、温もりだけがじんわり伝わってくる。
その柔らかさが、俺の胸の奥まで溶かしていく。

彼女はまだ腕の中にいて、俺も離すつもりはなかった。

この時間が止まってしまえばいいのに。
心の底からそう願った。