あのね、先生



──え?


驚いて顔を上げると、
そこには見覚えのある微笑みがあった。



そう──
”あの”佐野先生が立っていた。



「……先生?」



心の声が、無意識に漏れる。


目を丸くして不思議そうに見ている先生を前に、
ふとそう言ってしまった自分にも驚いた。


「先生」なんて軽々しく呼んでしまった……!

でもまさか、まさかで……



「私、三崎 柚葉(みさき ゆずは)です……」



咄嗟に続ける。



「わ、私が学生のとき……その、塾でアルバイトしてませんでしたかっ……」



そう言うと、先生の目が少しだけ細められた。



「もしかして、”あの”三崎さん……?」



先生の表情に驚きと戸惑いが滲んでいた。

それもそのはず。



あの頃の幼かった顔とは違うし、
今の私はメイクもするようになった。



それに──



「はい! あの、三崎です!」



”10年ぶり”の再会なのだから。




突然の再会に、心の中で何度も驚くと同時に、
嬉しさと懐かしさが一気にこみ上げた。




こんなことがあるなんて──




私はただ、


嬉しくて嬉しくて、
仕方なかった。


***


あの日から数週間が経った。


休日の今日は、天気もよく
桜が満開の見頃を迎えている。

街にはたくさんの人。
桜の下を歩く私の心は弾んでいた。



──先生とまた、再会できるなんて。



私は、いつの間にか
英会話スクールに行くのが楽しくなっていた。



先生と話せる時間が
待ち遠しくて仕方ないのは、

あの頃と変わらなかった。



先生はあの頃と変わらず優しく、
教え方も丁寧で、

少しだけくだけた話し方が心地よくて──



先生って、昔と全然変わらないな……



ふと、そんなことを考えていた時。
交差点の向こうに、見覚えのある姿があった。


黒いジャケットに、少し無造作な髪。
そしてあの落ち着いた佇まい。



──先生?



気づけば足が止まっていた。
先生は誰かと一緒だった。


小さな女の子の手を握る先生。
ロングヘアの女性が、隣で寄り添うように歩いている。


女性が何か話し、先生が笑って頷く。


そして、女の子が駆け出そうとすると、
先生が優しく手を握り直し、「危ないよ」と言った。




まるで、家族みたいな──



胸の奥がズキッと痛む。



──そっか。先生、結婚してたんだ。




そんなの、考えたこともなかった……



でも。


家族がいても、おかしくない年齢だよね。


昔みたいに自由な時間はなくて、
仕事をして、家庭を築いて、


守るべきものがあるんだ。





「──バカみたい」




急に恥ずかしくなった。



昔と変わらない、
先生の優しさに懐かしくなって──少しだけ期待していた自分に。



もう一度、あの頃の気持ちを
取り戻せるんじゃないかって。


そして今度こそ、
あの時伝えられなかった想いを

ちゃんと言葉にできるんじゃないかって。



だけど、それはただの、
思い上がりに過ぎなかった。



先生にはもう、別の人生がある。



春風が吹き、桜の花びらが舞い散る。

先生と女性が並んで歩く姿が、ぼやけて見えた。




………知りたく、なかったな。




ただ呆然と立ち尽くす私の前に、
淡いピンク色を帯びた、一ひらの花びらが舞い落ちた。




なんでだろう、
こんなに胸が苦しくなるのは──。




胸の奥が、淡く痛む。




どうしてこんなに苦しいのか、
自分でも分からなかった。


ただ、たった今、


自分の中の何かが
崩れてしまった気がする。



信号が青に変わる。



先生は、女の子の手を握ったまま、
女性と一緒に横断歩道を渡っていく。

その姿が、どんどん遠くなる。


………帰ろう。


帰り道、なんとなくスマホを取り出して
先生とのメッセージを開いた。


そこには昨日送られてきた
授業の復習内容と一緒に、

『次回はリスニングを強化しましょう!』

と、優しい言葉が添えられていた。




あんなに嬉しかったはずの
先生からの言葉が、




今はただ

色褪せてにじんで見えた。


ーーー