○大学・廊下(昼)
小規模な講義室を出たところで声をかけられる千紘。

湊「文原さんって君のこと?」
千紘「そうですけど……」
湊「二年の志賀湊です。翻訳家目指してるって聞いたけど、本当?」

相手は大人しそうな雰囲気の、無愛想なイケメン。

千紘「ほ、本当です!」
湊「そう……僕もESS所属で翻訳家志望。だから色々教えてやってって頼まれたんだよね」
千紘「えっ、ありがとうございます!」
千紘(ナツミさんだ……!)

湊はため息をついていかにも面倒くさそう。

湊「教えられることなんて別にないよ。そもそも翻訳家って君が思ってるような業界じゃない。簡単そうとかキラキラしてそうとか、そういう動機だったらすぐ諦めたほうがいい」
千紘「難しい仕事だっていうのはわかっているつもり……です。仕事を得るためには実績が重要で、経験がないとトライアルすら受けさせてもらえないこともあるって」
千紘「だから活動盛んなこのESSでたくさん英語に触れたくて……将来、もしチャンスがもらえたときに実力不足で逃すことはしたくないから」
千紘「わ、私、ゆくゆくは小説の翻訳がしたいんです。大好きなキャラクターの言葉を私の手で生きたものにしたい……! はっ」

熱く語っている自分に気付いて我に返る千紘。

千紘「すみませんベラベラと」
湊「いや……僕が誤解してたみたいだ」
千紘「え?」
湊「ちゃんと翻訳家を目指してるならいいんだ。冷やかしが多くて警戒してた。ごめんね」
湊「ちなみにどんな小説の翻訳がしたいの?」

ぱっと笑顔になる千紘。

千紘「児童文学です! 中学の時から大好きな作家さんがいて」
湊「へえ、僕はミステリばっかりでそっちのジャンルは疎いんだよね。今度文原さんのおすすめ教えてよ」
千紘「ぜひ!」
湊「あ、じゃあ連絡先交換しようか」

スマホで連絡先を交換。そこで時間を確認した湊。

湊「ごめん、僕は次の講義があるから。あ、今度の新歓キャンプは出る?」
千紘「新歓キャンプ?」
湊「ESSに本入部した子のためのキャンプ。英語メインのイベントじゃないけど毎年盛り上がるらしいよ」
千紘「らしい? 去年はどうだったんですか」
湊「僕は出てない。そういうイベント苦手なんだよ。でも今年はくじで幹事組になったからしかたなく参加する」

憂鬱そうな湊。

湊「参加者少なかったら幹事が色々言われるから、良かったら出て」
千紘「もちろんです!」
湊「良かった。じゃあね」

手をひらりと振って、最後には微笑んで去って行く湊。

千紘(話の合いそうな先輩がいて良かった!)

○大学・大講堂(午前中)
数日後、一時限目の必修科目が終わってぐったりしながら講堂を出る遼二。
あはは……と困った笑い顔の千紘。

千紘「朝、本当に弱いんですね」
遼二「ああ。この時間でなきゃ進級できてたろうにな」
千紘(か、かわいそう……)

遠い目をする真白に同情する千紘。

遼二「で、どうする?」
千紘「どうって?」
遼二「レンタルが終わるまであと三十分ある。それまでは千紘の好きにしていい。う……」
千紘(り、律儀……)

グロッキー状態の遼二を通りがかる学生がちらちら見ていく。

千紘「真白先輩、あっち行きましょう」

○別棟・休憩スペース(午前中)
古い建物でほとんど人が通らない。
年季の入った椅子が置かれたスペースで紙コップのコーヒーを渡す千紘。

千紘「よかったらどうぞ」
遼二「助かる。……これじゃレンタルした意味ないよな」
千紘「そんなこと全然思ってません」
千紘(むしろ、素の真白先輩と話せて嬉しかったり)

千紘は隣に座って具合悪そうな遼二をチラ見。

千紘「高校の時は朝平気でしたよね?」
遼二「全然。あれは冷水でシャワー浴びて、コーヒーがぶ飲みして……あとは気合いでカバーしてただけ」
千紘「無理してたんですね」
遼二「幻滅しただろ?」
千紘「そんなことないです」
遼二「自分はもっとマシな人間だと思ってたんだけどな」

自嘲気味に笑う遼二。切ない目をする千紘。

千紘(あの頃の先輩は確かに素敵だった。――私の憧れだった)

○回想・高校時代
遼二「文原、翻訳家になりたいんだって?」

数冊の本を手にして話しかけてくる遼二。今よりも髪が短く、爽やかな好青年。

遼二「ここの大学、有名な翻訳家を多数輩出だって。サークル活動も力入れてて――」

熱心に説明する遼二を盗み見る千紘。眼鏡にぴっちりした二つ結びで地味な出で立ち。

遼二「ん?」
千紘「あっ、いえっ、えっと、真白先輩は将来通訳になりたいんですもんね」
遼二「ああ。俺たち二人とも、明大に入るのが将来への近道かもしれないな」
千紘「先輩も明大志望にするんですか?」
遼二「うん。明大ではESSに入るよ。そこで文原を待ってる」

微笑まれてどきりとする千紘。

千紘「絶対に追い駆けます」
遼二「文原ならきっと大丈夫。誰より頑張り屋だもんな」
千紘「約束忘れないでくださいね」
遼二「忘れない。絶対」

二人の視線が絡み、風が吹き込んでカーテンの舞う教室でキスをされる。
はっとした表情で固まる千紘。
遼二のスマホの着信音が鳴り、バッと遼二が体を離す。

遼二「っ、ごめん……」

顔を背けている遼二の表情は前髪で見えない。
視界に入るのは、スマホの着信が「榊彩華」となっていること。

回想終わり。

○別棟・休憩スペース(午前中)
俯きがちな千紘。

千紘(あの頃のなにも聞けなかった弱い私はもうやめる)

何かを決意した顔で頭を上げる。

千紘「真白先輩」
遼二「ん?」
千紘「これを」
遼二「はっ!?」

五万円をずいっと差し出す千紘。

遼二「な、なに?」
千紘「この前言ってたオプション、これでお願いできませんか」
遼二「だ、だからあれは冗談……もしかしてやらしいこと期待しちゃった? こう見えて俺、清純派だから。そういうのやってないんだよなー」

へらへらした軽い口調だが、焦りが隠しきれない遼二。

千紘「これでなんでも一つお願いをきいてくれませんか」

千紘は真剣な態度を崩さない。
遼二は根負けする。

遼二「……いいよ」
千紘「じゃあ質問に一つ答えてください」
千紘「どうして……どうして、退学を考えてるんですか」
遼二「は?」

ずるっと拍子抜けする遼二。

千紘「だって通訳になりたいって言ってました。あの夢はもう諦めたってことですか?」

難しい顔をしていた遼二だが、諦めたように息をつく。

遼二「……別に諦めてない。ただ、俺に夢を追う資格なんてないから」
千紘「そんなことありません……っ」
遼二「あるよ。俺ってほら……ひどいやつだからさ」

傷つき疲れた様子の遼二。言葉に詰まる千紘。

千紘M『どういうこと? 先輩の心を折るなにかがあったの?』
千紘M『わからない。けど――』

千紘「……つまり通訳という仕事に興味がなくなったわけじゃないんですね」
遼二「まあそうかな」
千紘「良かった」
遼二「は?」
千紘「夢が変わってなくて良かった。きっと在学中にまた目指そうって思えるはずです」
遼二「いやだから退学するって――」
千紘「いいえ、私がさせません」

相手がひるむくらいの真っ直ぐな目で見つめる千紘。

千紘「私は先輩がまた歩き始めるまで側で応援します」
遼二「な……」
千紘「今やるべきことが決まって良かった。なんだかすっきりした気持ちです」

晴れやかに笑う千紘に、胸を打たれる遼二。

遼二「……あのさ、お願いなんでも聞けって言うなら『退学しないで』って言えば済んだんじゃないの?」
千紘「あっ!? い、いえ、それは強制するものじゃないですから」
遼二「講義には強制的に出席させるのに?」
千紘「そ、それは……」

吹き出す遼二。

遼二「本当変わってない、文原は。意外と直感派だし強引」
千紘「す、すみません……」
遼二「しかたないな、お得意様になってくれたし、しばらくは付き合うか」
千紘「っ、はい!」

千紘、満面の笑み。

遼二「せっかくだからサービス。ほかに聞きたいことあったら答えるけど?」
千紘「あ……」

ちらりとキスのことが頭をよぎる。

千紘「……いえ、無理矢理聞き出すのは違うので」
遼二「ふうん?」
千紘「あのっ、来週も予約入れますので!」

スマホに手を伸ばす。

遼二「いや、いい」
千紘「あっ、だめですよ。必修は――」
遼二「いいから。来週は、ちゃんと起きる。誓う」
千紘「え……」
遼二「あと、いい加減『先輩』じゃなくていい。今は同じ学年なんだから」
千紘「でも……」
遼二「千紘」
千紘「っ、あ、も、もうレンタルの時間終わってま――」
遼二「千紘」

真剣な表情で見つめられてどぎまぎ。顔が赤くなる。

千紘「りょ、遼二さん」
遼二「そういうこと」

くったくのない笑みを浮かべる遼二。

○大学・中庭(昼)
遼二がベンチで座っていると友人の航平が隣に座る。

航平「構内で見かけるなんて珍しいな」
遼二「航平か。お前こそバイト三昧じゃなかったのか?」
航平「苦学生は大変なのよ~。だからって留年したら意味ないからこっちも必死よ」
遼二「そりゃおつかれ」
航平「遼二もレンタル彼氏のバイト、ありがとうな。真面目にやってくれて紹介した俺の株も急上昇。オーナーから別のバイト紹介してもらったわ」
遼二「お前もレンタル彼氏やればいいのに」
航平「嫌みかよ~。俺のプリティフェイス見えてる?」

航平はフツメンな自分の顔面を指さしておどける。思わずくすりとしてしまう遼二。

遼二「客とのトラブルが一番面倒だから気をつけろって言ってたけど、聞いてたより難しくなかったな」
航平「いやいや、まじで客と付き合って揉めて辞めるのが一番多いから。遼二なら迫られたりするだろ? レンタル彼氏の客って結構可愛い子多いらしいしさ」
遼二「適当にはぐらかせばいい」
航平「だからそれが難しい……って、お前くらいになると可愛い子とか見慣れてんのかね」
遼二「?」

何気ない表情でもキラキラしている遼二を見て、はは……と乾いた笑いの航平。

航平「それよりオーナーから退学するって聞いたけど……マジなのか?」
遼二「あー、それは撤回」
航平「本当か? 良かった~。あ、それで真面目に学校来てんのか」
遼二「まあな」
航平「さっさと学内で彼女作っちゃえよ。そしたら客との恋愛リスクもさらに減る」
遼二「言っただろ。恋愛はもうしないって」
航平「またまたぁ。客とじゃなければいくらでも彼女作っていいんだぞ? 好きな子とかいないのか?」

意味ありげに微笑む遼二。

航平「えっ、誰だよ! アシストするって!」
遼二「いい。恋愛は俺みたいなのには向いてない。どうせまた傷つけるだけだ」
遼二「……俺には眩しすぎる。あのとき触れようとしたのが間違いだった」

寂しげな表情を浮かべる遼二。